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第1話「もう疲れたから旅行行く」

 駄目だ。


 結局、何もできなかった。


 少し練習しただけ。

 少し話せるようになっただけ。

 何かが変わった気になって、少しはましになったと思い込んでいた。


 たった数日のことだったのに。


 ――ここは、地獄だろうか。


 目を開けても、何も見えない。身体は動かず、声も出ない。


 暗い。何もない。

 審判を下す魔王も、罰を与える悪魔も、他の罪人すらいない。

 ただ、黒だけがある。


 このまま、永遠に一人なのだろうか。


 それは嫌だな、とクレシアンは思う。


 どれほど時間が経ったのかは分からない。ふと黒の奥に、何かが蜃気楼のように浮かび上がった。


 二本の角。

 一つの目。

 大きな口。


 あの鹿の魔獣だった。


 クレシアンは、逃げなければ、と思った。

 そう思うのに、身体は動かなかった。


 やがて魔獣が彼に近づき、その大きな口が開かれる。


 そして、クレシアンは喰われた。


 肉を裂かれ、血を啜られ、骨を砕かれた。


 痛い。

 苦しい。

 怖い。


 それなのに、気づけば彼の身体は元に戻っている。


 そして、また喰われる。

 何度も。何度も。何度も。


 許してくれ。

 もうやめてくれ。

 許して。

 ゆるして。


「……っ!」


 クレシアンは跳ね起きた。


 心臓が暴れている。

 呼吸が浅い。

 身体中が冷たく濡れていた。


「あぁ……あ、ああぁああああっ!」


 彼は叫んだ。


 声が出ていることにも気づかず、ただ叫んだ。

 胸の内側にこびりついた恐怖を、どうにか身体の外へ吐き出そうと、叫んだ。


「クレシアン!」


 声に気づいただろう誰かが彼に駆け寄ると、後ろに引き連れた黒い影があっという間にベッドを取り囲んだ。


 囲まれ、押さえつけられる。


 彼はその時、殺される、と思った。


 抵抗しようとしたが、意に反して弱った身体は簡単に押さえ込まれてしまう。首筋に、小さな痛みが走ると同時に、誰かが呪文を唱えた。


 途端に力が抜け、瞼が重くなる感覚がする。


 そして、クレシアンはもう一度眠りに着いた。


***


 次に目を覚ました時、最初に見えたのは自室の天井だった。


 見慣れているはずの白い天井だった。けれど、それがどこか遠いもののように見えた。目を瞬かせるたび、視界の端がぼやける。泣いていたのか、眠りすぎたのか、自分でも分からなかった。


 窓が少しだけ開いていた。そこから入り込む風が、薄いカーテンを静かに揺らしている。柔らかな布が膨らみ、しぼみ、また膨らむ。その動きは穏やかで柔らかく、しかし、まるで何も知らないかのようで、それがひどく煩わしかった。

 隙間から差し込む光が、床の上に細い線を作っている。


 眩しい。


 そう思ったクレシアンは逃げるように寝返りを打った。布団が肌に擦れるだけで、右腕がびくりと震える。傷は塞がっているはずだった。それなのに、腕の奥にまだ熱が残っている気がした。


 ――それからの五日間、彼は自室で療養することになった。


 治癒魔法のおかげで、右腕の傷はとうに塞がっていた。包帯の下に傷はない。跡すら残っていない。何も、ないはずだった。

 けれど、ふとした瞬間に腕が裂ける。そう錯覚した。布団の重み。袖の擦れる感触。誰かが近くを歩く気配。それだけで、魔獣の蹄がまた肉に食い込んでくる気がして、クレシアンは何度も腕を抱え込んだ。

 触れても、そこには滑らかな肌しかない。血も出ていない。痛むはずがない。それでも、痛かった。


 眠っている間に、アニマとアメリスから手紙が届いていた。

 封のされた二通の手紙は、ナイトテーブルの上に並べられている。誰かが丁寧に置いたのだろう。角は揃えられ、風に吹かれないよう小さな文鎮まで添えられていた。


 読めなかった。


 責められているかもしれない。

 責められていないかもしれない。


 どちらでも嫌だった。


 それからのクレシアンの五日間は、それなりに酷いものだった。


 一日目は、何も考えられなかった。

 目を閉じれば、黒に沈む。あの一つ目が暗闇の奥に浮かび、口が開く。眠っていないはずなのに、喰われる感覚だけが何度も戻ってきた。


 二日目に粥が出された。

 ほのかに湯気が立っていて、薄い塩の匂いがした。匙を持った指が震え、器の縁に当たって小さな音を立てた。その音だけで、骨の砕ける音を思い出した。

 口に入れたものはすぐに戻した。その後もしばらく、何も入っていない胃から酸だけを吐き続けた。


 三日目は手紙を見た。

 見ただけだった。

 封に書かれた名前が視界に入り込んで、咄嗟に目を逸らした。手を伸ばしかけて、途中で指が引きつった。


 四日目、生きていることが急に腹立たしくなった。

 クレシアンは自分の喉に手をかけた。指先は冷えていた。少しずつ、少しずつ力を込める。息が詰まり、喉の奥が熱くなる。けれど、苦しくなった瞬間、怖くなって手を離した。


 死ぬ勇気すらない。


 そう思うと、涙が出た。

 泣く資格などないと思うのに、それでも涙は勝手にこぼれた。拭う気にもなれず、それは静かに枕に染み込んでいった。


 ――五日目。


 何も変わらなかった。


 傷は塞がっている。熱も下がっている。食事も少しは喉を通るようになった。


 それでも、クレシアンは少しも大丈夫ではなかった。


 ――コンコン。


 控えめなノックの音がした。


 クレシアンの肩が跳ねた。

 反射的に布団を握りしめ、爪が布地に食い込んだ。


「俺だ。フォルティオだ」


「……」


 聞き慣れた、何度も自分を呼んでくれた声だった。それなのに、今は怖くてしかたがない。

 クレシアンは布団を頭まで被り、目をぎゅっとつむった。息苦しさを感じる。けれど、彼と面と向かって会うよりはましだった。


 少し間を置いて、扉が開く音がした。足音が入ってくる。重くゆったりとした足音はいつも通りで、それはベッドの前で止まった。


「少し、話がしたいんだが、いいか?」


「……」


 返事はしなかった。勝手に話せばいい。少なくともクレシアンに聞く気はなかった。そう思いながら布団の中で膝を抱え、膝に額を強く押し付ける。そうすると、呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。


「なあ、クレシアンくん。教会を出たくはないか」


 意味が分からなかった。

 布団の中で、クレシアンは目を開け、何度か瞬きをする。


「……今更、何?」


 布団越しのくぐもった声は、どうやらフォルティオに届いたようだった。


「君の母君に掛け合った。しばらく外で暮らしてもいいと、許可はもらっている」


 外。


 その言葉が胸の奥に落ちた瞬間、腹の底が冷えた。森。血の臭い。鹿の魔獣。大きな一つ目。喉の奥から伸びる、赤黒く濡れた手。

 行きたいわけがない。外になど、もう二度と出たくなかった。なんなら、この部屋からだってもう出たくはなかった。

 聖女に会うのが怖い。教皇に会うのも怖い。医者の視線も、使用人の足音も、廊下の向こうに誰かが立っている気配も、全部が怖かった。ここで縮こまって生きている自分自身を、誰にも見られたくなかった。


 いや大丈夫、大丈夫だ、とクレシアンは考えを振り払うように心の中で何度も唱える。街には魔獣はいないし、自分をじろじろと見る人もいない。それはむしろ、クレシアンがずっと望んでいたことのはずだった。だから、フォルティオの提案通りここを出て行けばいい。教会を出て、何か仕事を見つけて、ひっそり暮らせばいい。


 そう思うのに、胸の奥がざらついた。


 願ったり叶ったりのはずだった。

 なのに、どうしてこんなに腹が立つのか分からなかった。


「……出てけってこと?」


「違う」


 フォルティオの声は、思ったより強かった。


「違うんだ。誰も、君を追い出したいわけじゃない」


 クレシアンは返事をしなかった。


 違うと言われても、素直に頷けなかった。自由にはなりたいけれど、追い出されたいわけではない。けれど、追い出されるのだと思ってしまえば、いっそ楽になれる気もした。


頭の中がぐるぐると回り、気持ちが悪かった。


「ただの……一つの選択肢だよ。戦わなくていいし、何か大きな事を成し遂げろと言っているわけでもない。ただ太陽を浴びて、知らない場所を見て、飯を食って、眠る。それだけでいい」


「……そんなの、何の意味があるんだよ」


「意味なんかなくていい」


 静かな声だった。


「生きていれば、それでいい」


 胸の奥が詰まった。


 それは、たぶん、一番欲しかった言葉だった。けれど同時に、一番言われたくない言葉でもあった。


 責めてくれた方が楽だった。やっぱりお前は駄目だと、誰かに言ってほしかった。そうすれば、もう何も頑張らなくていい気がした。

 自分で自分を諦める理由を、誰かからもらいたかった。全部、誰かのせいにして、静かに終わってしまいたかった。


 吐き気がする。何故こんなにも矛盾しているのだろうか。


「俺たちは、本当に君が無事でよかったと思っている」


 フォルティオの声が震えた。


「あの時、心臓が止まりそうだった。君の父君を亡くしたのに、君まで、と思ってしまって……」


 クレシアンは思わず布団から顔を出した。


 フォルティオは、いつものように穏やかではなかった。眉を寄せ、口元を固く結び、何かを必死に堪えている。


「フォルテ……?」


「ああ、いや。すまない」


 フォルティオは顔を片手で覆いながら、天井を仰いだ。咄嗟にこちらへ向けられた広い背中が、小さく震えている。


 泣いている。自分なんかのために。


 その事実を、クレシアンはうまく飲み込めなかった。

 ただきっと、それは責められるよりもずっと苦しいことなのだろう。だったらやっぱり、責められる方がよっぽどよかったのに。


「君には幸せになってほしい。君の母君だって、もちろんそう思っている。本当なんだ。信じてくれ……」


「……なんで」


 声が掠れた。


「なんで、そういうことばっか言うんだよ……。もう、ほっといてくれよ……」


 言いながら、自分でもわかっていた。本当は、放っておいてほしくなどなかった。


 自由になりたい。

 逃げ出したい。

 誰にも見られたくない。


 けれど、見限られたくはない。


 その身勝手さが、どうしようもなく惨めだった。本当は、突き放すようなことなんて言いたくないのに、全部否定してかかってしまう。


 素直になれない自分が嫌いだ。

 

 クレシアンは布団の端を握りしめた。指先に力が入り、布地が皺になる。


 母が自分を憎んでいるわけではないこと。

 教皇が自分を見放したわけではないこと。

 フォルティオがずっと自分を気にかけていたこと。


 そんなことは知っていた。ずっと知っていたから、苦しかった。


 ここは息苦しい。ここにいると、自分の情けなさをずっと鏡で見せつけられているようだ。


 誰かの望む自分にも、自分の望む自分にもなれない、そんな己がすごく嫌いだ。


 それでも、ここはクレシアンにとっての家だった。家だから、余計に逃げだしたかった。


 長い沈黙のあと、クレシアンは小さく息を吐いた。


「……ここに、いたくない」


 フォルティオは静かに続きを待った。


「外は怖い。もう行きたくない。けど、ここにいるのも、耐えられない」


 クレシアンは喉の詰まりを無理やり飲み込んだ。


「だから……行く」


「そうか」


「……ああ」


 言ってから、胸の奥がざわついた。


 行きたいわけではない。

 進みたいわけでもない。

 強くなったわけでも、立ち直ったわけでもない。


 ただ、ここにいられない。

 今はそれだけだった。


 フォルティオはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。


「わかった。戻りたくなったら、いつでも戻ってくるといい」


「……戻ってなんかくるか」


「戻りたくなったらでいい」


 その言葉は、思ったよりも深く刺さった。


 追い出されるわけではない。

 捨てられるわけでもない。

 戻ってきてもいい。


 フォルティオがそう言うなら、それは彼の本当の気持ちだ。彼はクレシアンの知る最も誠実で優しい人だから。


 だからきっと、また戻ってこられるかもしれない。

 そう思うだけで、少しだけ息がしやすくなった。


 ふと、ナイトテーブルの上の手紙に視線を移す。まだ読めない。おそらく、今日も読めないだろう。それでも、彼はそれらを捨ててしまおうとは思わなかった。


「フォルテ」


「何だ?」


 言葉が喉に引っかかって、なかなか声に出せない。


 それでも、これだけは言わなければならない気がした。この教会でいつも寄り添ってくれた彼に、ちゃんと素直に。


「……ありがとう」


 小さな声だった。情けないほど掠れていた。


 けれど、確かに口にした。


 フォルティオは一瞬だけ目を丸くすると、またいつものように、けれど少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「気にするな」


 その日、クレシアンはまだ立ち直ったわけではなかった。


 怖いものは怖い。

 眠れば悪夢を見る。

 自分が嫌で嫌でしかたがない。


 それでも、部屋の外に出ようと決めた。

 広い世界を見れば、何かが変わるかもしれない。胸の内に絡まったものも、少しはほどけるかもしれない。そしていつか、本当に戻りたいと思えたなら――


 その時は、またこの家に帰ってこよう。

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怪我どころか死体出てるんだけど(´∇`;)
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