第9話「やっぱり帰ればよかった」
崖を登りきった先で、クレシアンはまず己の呼吸を整えることに専念した。
地面に倒れ込み、背中を丸める。肺が焼けるように痛い。吸っても吸っても空気が足りず、喉の奥がひゅうひゅうと鳴った。指先には岩肌を掴んだ感覚がまだ残っていて、掌がじんじんと熱を持っている。
深く息を吸っては、ゆっくりと吐き出す。
それを何度も繰り返し、ようやく周囲を見渡した。
先ほどの水源よりさらに高い場所、山頂は意外にもなだらかな地形をしていた。
足元には湿った土と苔が広がり、いくつもの木の根が地面を這うように伸びている。どこか遠くで水の流れる音が細く響いていた。
「大きな木……」
「でも、枯れてる」
アニマの声につられて顔を上げると、そこには巨大な枯れ木が立っていた。
枝葉はほとんど落ち、幹は乾ききっている。樹皮はひび割れ、ところどころ剥がれ落ち、内部まで水分を失っているように見えた。
それでも、ただの枯れ木とは違う妙な存在感があった。
先にたどり着いていたはずのティエラは、周囲の探索もせず、枯れ木に手を当てて何かを考えている。
「これだけじゃあ、何もわからないな」
アメリスが周囲を見回す。
その時、アニマが少し離れた場所を指差した。
「見て。小さなおうちがあるよ。誰か住んでるかも」
「あ、ああ。行ってみるか」
その家は枯れ木の奥、陰に隠れるように建っていた。木造の小屋だったが、森に溶け込んでいるというより、取り残されているように見えた。
近づくと、中からカチャカチャと、何か薄くて硬い材質のものが触れ合うような音が聞こえた。
窓代わりの小さな木戸は閉め切られており、中の様子は分からない。けれど、誰かがいるのは間違いなさそうだった。
コンコン。
「あの、少しいいですか?」
アニマが扉を叩き、家の中へ呼びかける。
返事はない。
「聞こえなかったのかな」
そう言って、アニマがもう一度呼びかけようとした時だった。
カチャカチャという音が止まる。
しばらくして、扉がわずかに開いた。
「……なんだ」
隙間から顔を覗かせたのは、白い研究衣を纏った女性だった。
最初に目についたのは髪だった。
ぼさぼさで、結われていたはずのそれはほとんど解け、肩や頬に乱れてかかっている。その髪の隙間から、長く尖った耳が突き出ていた。
アルフだ。
村の人にしては、なぜこんなに離れた場所に住んでいるのだろうか。
研究衣はしわだらけで、袖口には乾いた土のようなものがこびりついている。何日もまともに身なりを整えていないように見えた。
だが、その瞳だけは妙に冴えていた。
目の下には濃い隈があり、疲れているように見える。
それなのに、目の奥だけが異様に生きている。
「アタイに何か用か?」
睨みつけるような視線にも、アニマは怯まなかった。
「あの、あたしたち、川の調査に来た冒険者なんです。何か知っていることはありませんか?」
「川?」
女性は少しだけ考えるように目を細めた。
それから、つまらなそうに答える。
「機能に問題はないハズだけど」
「機能……?」
女性は面倒くさそうに扉を開け、外へ出てきた。
近くで見ると、研究衣の汚れはさらに目立った。乾いた草の汁のような染み。黒ずんだ液体の跡。何のものかわからない細かな粉。清潔とは言い難いのに、本人は全く気にしていないようだった。
「川の機能。汚染もない。水流も減ってない。下流まで流れるだけの役割は、ちゃんと果たしている」
「そういう意味ではなくて……」
アメリスが一歩前に出る。
「下の集落で魔獣の被害が増えています。川の様子も以前とは違うと聞きました。何か心当たりはありませんか」
女性は黙った。
そして、枯れた大樹の方へ視線を向ける。
やがて、口角を上げた。
「へぇ。それは面白いね」
「……面白い?」
クレシアンは思わず眉をひそめた。
被害が出ているかもしれない話を、面白いと言ったのか。
「すみませんが、何か知っているなら教えてください。今はまだ撃退できていますが、いずれ怪我人が出るかもしれません。森自体が今までより危険な場所になる」
アメリスの声が少し硬くなる。
しかし女性は、肩をすくめるだけだった。
「ザンネンだけど、もう遅いよ」
「それは、どういう意味ですか」
女性は枯れた大樹を指差した。
「アレが見えないの?わかったら、もう帰って」
そう言って、彼女は小屋へ戻ろうとする。
「ま、待って!」
すかさずアニマが呼び止めた。
女性は嫌そうに振り返る。
「……何?」
「じゃあ、あの木が枯れたからってこと?もう元気にはできないの?」
その問いに、女性は心底苛立ったように頭を掻きむしった。
「……はぁ。低脳だね」
ハッキリと放たれたこちらを見下す発言に、空気がわずかに冷えた。
アニマの表情が固まり、アメリスの眉もわずかに動く。
女性は枯れ木を見上げ、何でもないことのように言った。
「アレは木じゃない。死んだ人だよ。まさか、人が簡単に生き返るとでも?」
次の瞬間、横にいたティエラの姿が消えた。
いや、消えたように見えただけだった。
クレシアンには、何が起きたのか分からなかった。ただ、視界の端を黒い影が裂くように走った気がした。
気づいた時には、ティエラの刃が女性の首筋に届いている。
しかしその刃は、皮膚には触れていなかった。女性の首を守るように、硬い木の根が巻きついていたからだ。
どこから伸びたのか分からない根が、ティエラの刃を受け止めている。
「……材料を、消費しただけだよ」
女性はそう言った。
だが、その瞳がほんのわずかに揺れ、表情が引きつった。
「ティ、ティエラ……!」
アニマが怯えたような声でティエラを呼ぶ。
その声に引き戻されたように、ティエラの視線がわずかに動いた。
その隙を、女性は見逃さなかった。
薄く笑い、指先を振る。
その瞬間、茨のように鋭い植物が地面から飛び出し、ティエラへ向かって放たれた。
ティエラは即座に飛び退き、刃を構え直す。
「おい、平気か!」
クレシアンたちは慌ててティエラの元へ駆け寄った。
見たところ、怪我はない。
状況を確認するために顔をあげると、既にアメリスが剣を抜き、女性との間合いを測っていた。
「先に手を出したのはそっちじゃないか。ナゼそんなに警戒する?」
女性は可笑しそうに笑う。
「彼女は仲間だ。行動には必ず理由がある」
アメリスが低く言った。
「アタイの行動にだって理由はあるよ?」
女性は肩をすくめる。
そして、ふと何かに気付いたように、クレシアンへ視線を向けた。
「……あれ!オマエ、枢機卿の息子じゃないか!」
その目が、獲物を見つけたように細められる。
ぞくり、とクレシアンの背筋が冷えた。
剣を向けられているにもかかわらず、女性は一歩、二歩と近づいてくる。
それだけで、足が動かなくなった。
「脳筋と低脳のせいで気付かなかったよ。ねえ、ぜひアタイの材料になってくれないか?」
「……っは……?なんで、オレのこと……」
「モチロン知ってるさ!アタイは今まで消費した材料のことは絶対に忘れないからね」
材料。
その言葉はクレシアンの頭の中で鈍く響いた。
材料。
消費した材料……?
「深緑の髪に、いかにも人のヨサソウな顔立ち。エコル適性は風。循環はまあまあだけど、技術はそれなりだったかな」
女性は思い出すように口元に指を当てている。
理解できなかった。
理解したくなかった。
だが、どうしても結びついてしまう。
「……父さんの……ことか?でも……オレの、目の前で……」
「あぁ、目の前……か。アタイも目の前で見たかったなぁ――」
そう言って女性は羨ましそうな、残念そうな表情でクレシアンを見つめる。
「喰われるところ」
「っ!」
声が震える。
彼女の話は、まるで自分が首謀者だと言っているかのようだった。
クマの魔獣だった。ルシータでさえ……だって、おかしいんだ。魔獣は……いや、でも。大きくて凶暴だった。だから……そんな、はずは。
これじゃあ話が違う。
事故のはずだ。事故のはずだ。事故のはずだったのに!
でも……きっと、そう。つまりあれは……事故ではなかったということなんだ。
そこまで考えて、息が止まった。
目の前の女が、父の死と繋がってしまう。繋げたくないのに、切り離せなかった。
狼狽えるクレシアンの背中に、アニマはそっと手を添えた。
だが女性は、クレシアンたちの反応を気にすることもなく、自分の世界に浸っている。そして、突然楽しげに語り始めた。
「この川はね、ここに住んでたアルフのエコルが地中に染み込んでできたものなんだ。強いエコルがオルゴンと結びついて、本人の知らない場所で魔法になる。面白いだろ?」
「あ、あなたの、家じゃないの……?」
アニマが恐る恐る尋ねる。
「アタイの?まさか。近場で丁度良かったから使わせてもらっていただけさ」
「それで殺したのですね」
ティエラは今にも切りかかりそうだったが、女性はただ不思議そうに首を傾げた。
「殺したんじゃない。実験をしただけ。結果的に最後の実験になっただけだよ」
彼女は頬を上気させ、枯れた大樹を見上げる。
「でも、そのおかげでわかったことがある。彼女のエコルが溶けた川は、魔獣を寄せつけなかったんだ」
「……魔獣を?」
アメリスは思わず聞き返した。
「だから川のそばは安全だった。キミたちの言う集落とやらも、その影響を受けていたんだろうね。でも材料が枯れた。機能が落ちた。だから魔獣が寄ってくる。単純だろ?」
木を見上げた姿勢のまま、女性は目玉だけをぎょろりと動かして、もう一度クレシアンを見る。その口元は愉快に歪められていた。
「ホラ、こんなに教えてやったんだ。対価に材料になってくれるってのはどうだ?」
嫌な汗が背を伝った。ずっと何を言っているのかわからない。ただただ狂っていた。
「それに、どうやらアレらはオマエに反応するらし――」
女性は急に言葉を切った。
そして、目を細める。
「……オマエ。あの鏡と似たような雰囲気がする」
「は……?」
「チッ」
女性は舌打ちした。
「じゃあ、カンタンには消費できないかもな。ああ、嫌だ嫌だ。解剖したかったのに」
「ふ、ふざけ、んなよ……!」
クレシアンは震えながらも声を上げた。
「そんなの、オレは知らねぇよ!か、鏡とか、材料とか……!」
女性は恍惚な表情を崩すことなく、聞き流した。
「なら腕だけでいいよ。一本くれ。なあ、一本くらいなら死なないだろ?利き腕じゃなくてもいいからさ」
「嫌に決まってんだろ!」
怖い。
あの目に見られているだけで、身体の内側を覗かれているような気がした。
自分を見つめるその狂った熱を受け止めているのが怖くて、クレシアンは無理やり話を逸らす。
「そ、それより……この川に何したんだよ。木が人だったって……」
女性は瞬きをした。
それから、満足げに笑った。
「ああ、知りたいんだね。興味を持つのはいいことだ。でも、身体の一部でもくれなきゃこれ以上は、ね?さっきのはサービスにしといてあげる」
おもむろに女性はしゃがみ込み、足元の草に手をかざした。
「ただ、成果くらいなら見せてあげてもいい」
地面から、小さな花が咲いた。
クレシアンはそれを知っていた。
昨日、一日探してもなかなか見つからなかった薬草。
花の部分に鋭い歯を持ち、甘い香りで獲物を誘う植物。
セサラニア。
「最近やっと一段落したんだ。植物はキライだけど、この子はそれなりにカワイイよ」
女性は懐から小瓶を取り出し、中身を地面へ振りまいた。
次の瞬間、セサラニアが一気に成長を始める。
茎が軋むと、繊維が裂け、束ねた縄を無理やり引き千切るような音がした。
葉が広がり、蔓が地面を叩く。根が土を割り、花弁が裂けるように開いていく。
その奥に並んだ歯が、濡れた光を帯びた。
クレシアンたちの背丈を追い越すほど巨大化したそれは、まるで意志を持つ生き物のように蔓を振り回す。
口から消化液を涎のように垂らし、大きく吼えた。
それはもう、植物ではなかった。
魔獣だった。




