「崖だから逃げられなかった」
魔獣が吼えた。
空気が震え、湿った土の上に広がっていた苔が細かく揺れる。巨大な花弁はゆっくりと開き、その奥に並んだ歯が濡れた光を帯びた。口元から垂れた消化液が地面へ落ちると、じゅう、と小さな音を立てて白い煙が上がる。いつの間にか辺りには甘い香りが漂っていた。
「アタイはここで敵対するつもりはないからね。シツレイさせていただくよ」
そう言って女は、自身の操る植物に運ばれるようにその場を離れようとする。ティエラが追いかけるが、魔獣に邪魔され結局逃してしまう。アメリスとアニマも何やら叫んでいるが、クレシアンにはよく聞こえなかった。
クレシアンは混乱する思考と恐怖で視線がよく定まらなかった。
目の前には魔獣がいる。戦わなければならない。そんなことはわかっているのに、頭の中では女の言葉ばかりが何度も反響していた。
材料。消費した材料。喰われるところ。
父の死は事故だったはずで、教会に忍び込んだ魔獣に襲われそうになってたオレを守るためで――
だから事故なんだ。そうでなければおかしい。そうでなければ、今までずっと自分が受け入れようとしてきたものが、何だったのか分からなくなる。
なのに、あの女は知っていた。
父の髪の色も、顔立ちも、エコル適性も、まるで過去に使った道具の特徴を思い出すみたいに話していた。
「クレシアン!」
思考をかき消すようなアニマの声に、クレシアンは目の前まで迫っていた蔓に気付いた。咄嗟に身を捻ると、その勢いのまま地べたに身体が打ち付けられる。
頬を掠めるように通り過ぎた蔓が背後の岩へ叩きつけられ、衝撃音と共に粉々に砕け散った。
まっすぐと引っ込められる蔓がまた自分の真横を通り過ぎるのを見て、そこでようやく自分が危なかったのだと理解した。
「ぼうっとするな!」
「っ!」
分かっている。分かっているのに、身体が遅い。
足元を這うように伸びてきた別の蔓を避けようとして、クレシアンは体勢を整える暇もなく這うよう避ける。だが、セサラニアは逃がすつもりなどないように、次々と蔓を伸ばしてくる。そのどれもが、まるで最初から狙いを決めていたかのようにクレシアンへ向かっていた。
なんでオレばっかり……!
そう思った瞬間、女の言いかけた言葉が蘇る。
どうやらアレらはオマエに反応するらし――。
最後まで聞けなかったその続きを考えるより先に、視界の端で炎が弾けた。
炎に包まれた蔓から白い蒸気が噴き出す。焦げた匂いが広がるが、火は思うように燃え広がらない。黒く焦げた蔓はそのまま地面を叩き、何事もなかったかのように再びこちらへ伸びてきた。
「植物なのに燃えないの?!」
「少なくともその場からは動けないみたいだ!」
アニマに続くように、アメリスが前へ出る。振るわれた剣が蔓を切り落とし、空いた隙間へさらに踏み込もうとするが、すぐに別の蔓が横から伸びてきた。それをティエラが斬り払う。切断された蔓が地面へ落ち、アメリスは短く息を吐くと、すぐに次の蔓へ剣を向ける。
それを視界に映しながら、クレシアンは何もできずにいた。
剣技と魔法が交互に繰り広げられる中、アニマの放った火球の一つがセサラニアの花へ向かって飛ぶ。
しかし花へ届く直前、何本もの蔓が重なり合うように割り込む。炎は蔓を焦がして弾け、火の粉だけが周囲へ散る。
「花が弱点みたい。でもどうしよう!」
「もっと高い火力が出せるなら、守りは僕とティエラが何とかできるかもしれない!」
「わかった!」
「お任せください」
アメリスとティエラは先程同様、交互に蔓を斬り払い、アニマのための隙を作る。
戦っている。みんな戦っている。
なのにクレシアンだけが、どこか別の場所に取り残されているようだった。どうしても集中できない。
彼は震える右手で剣の柄に触れた。しかし触れるだけだ。前線は危ないから使いたくないと、無意識に魔法を使おうと左手を少し掲げた。
その時、何度振り払っても戻ってくる先程の言葉に、またもや彼の思考が乱される。
アタイも目の前で見たかったなぁ――喰われるところ。
違う。そんなはずはない。
クレシアンが必死にそれを振り払おうとした時、周囲に漂う甘い香りが強くなった。
鼻を通り抜けた瞬間、頭の奥がぼんやりと霞むような感覚があった。まるで温かい毛布に包まれているような、不思議な心地よさがある。
ふと、昔の記憶が呼び起こされる。
その香りは、教会の食堂で焼かれていた菓子の匂いに似ている気がした。
昼下がりの日差しと、開いた窓から吹き込む風。母が抱きしめてくれて、父が笑いながら差し出してくれた焼き菓子。
そこまで思い出して、クレシアンははっとする。
違う。今はそんなことを考えている場合じゃない。
次の瞬間、足首に冷たい感触が巻きついた。
「しまっ……!」
「クレシアン!」
蔓だった。クレシアンが気付いた時にはもう遅く、強く引かれた身体は後ろへ倒れる。視界が反転し、湿った土と苔が視界の中で流れていく。
セサラニアの花が近付いてくる。開いた花弁の奥には歯が並び、粘ついた消化液が糸を引いていた。
喰われる。
そう思った瞬間、ビリビリとした青白い光が弾け、クレシアンは力を緩めた蔓によって投げ出される。
ほぼ同時に、彼を宙ずりにしていた蔓はティエラによって断ち切られた。
何が起きたのか、クレシアン自身にも分からなかった。ただどうやら、ティエラに助けられる前に、自力で何とか窮地を脱したらしいことはわかった。
腕の奥から何かが跳ねたような感覚があり、 今もセサラニアの花が悲鳴のような音を上げている。嫌がるように蔓でバタバタと地面を叩いて暴れていた。甘い香りが薄まった気がする。
「今の何!?」
アニマが目を丸くする。
「知らねぇよ!」
本当に知らなかった。狙ってやったわけではないが、どうやら効いているように見える。
「クレシアン、もう一回!」
「無茶言うな!」
「でも効いてるよ!」
無茶だと思った。けれど、アニマの言う通りだった。
クレシアンは何とか冷静さを保って考え始める。明らかに先程よりも意識が明瞭になっていた。
まず、自分のエコル適性は雷だ。無意識で魔法を使ったのなら、それは電撃に他ならない。
そこでクレシアンは昔読んだ本の内容を思い出した。
それは雷に打たれた木の話だった。水分を多く含んでいれば、樹皮が吹き飛ぶ程の衝撃になるという内容だ。
たっぷりの水を含んでいる木は雷がよく通る。そんな単純な記述だったはずが、今になって妙に彼の頭の奥で引っかかった。
下は水源で、地中には相当な量の水があるはずだ。この巨大な植物が、そこまで根を伸ばしていないはずはないと、クレシアンは思った。
そこで思考を邪魔するように蔓がまた迫ってくる。
みんなが蔓を捌く中、クレシアンは間一髪で自分に迫るそれを避ける。
考えている暇はないと、クレシアンは歯を食いしばった。
とにかく、もう一回やってみる他ないだろう。
クレシアンがほとんど無我夢中で電撃を繰り出すと、青白い光が再び走った。
本来なら仲間への合図として、技名かなにかを叫んだ方が良かったが、そんな余裕など彼にあるはずもない。
だが運良く、魔法は他の誰かに当たることなく蔓を伝った。セサラニアが身体を震わせると、花が大きく揺れ、集まっていた蔓の動きが乱れた。
「クレシアンすごい!」
「そんなのいいから!オレの魔法強くねぇから!は、早く何とかしてくれ!」
「ご、ごめん!」
「ティエラ、もう一度頼む」
アメリスはアニマが準備を始めたことを確認し、ティエラに声をかける。ティエラが頷くと同時にアメリスが前へ出た。ティエラと共に蔓を斬り落とし、さらに踏み込んでいく。痺れのせいで守りが遅い。
二人が道を開くように動く中、アニマは両手を前へ突き出した。
クレシアンは息を吸い、何とか微弱な電気を流し続ける。青白い光が弾け、セサラニアの蔓が大きく跳ねる。
「アニマ!」
「うん!」
アニマの周囲に火が集まった。
赤い光が彼女の髪を照らす。熱気がこちらまで届き、甘い香りと焦げた草の匂いが混ざった。セサラニアは残った蔓を花の前へ集めようとするが、アメリスの剣がそれを斬り落とし、ティエラも別の蔓を払う。
花が露わになる。
その一瞬を、アニマは逃さなかった。
「サンフレア!」
放たれた巨大な火球が、真っ直ぐに花へ向かう。今度こそ蔓は間に合わず、火球が花へ直撃した。
爆ぜるような音と共に花弁が千切れ飛び、並んでいた歯が砕ける。
セサラニアは悲鳴のような声を上げた。残っていた蔓が一斉に暴れ出し、地面を叩き、まるで何かを探すように空を掻く。
しかし、その動きは長く続かなかった。
やがて蔓の力が抜けるように、一本、また一本と地面へ落ちていき、最後には巨大な花の残骸ごと崩れ伏した。
しばらく誰も動かなかった。
甘い香りはまだ残っていたが、そこには焦げた匂いが混ざっている。クレシアンは呆然とその光景を見つめた。
「……やった。倒した。やったあ!」
アニマが嬉しそうに飛び跳ねた。
アメリスは剣を構えたまま、しばらくセサラニアを見ていたが、動き出すことがないと確信したのかようやく息をつく。
「全く、もう少し警戒したらどうだ」
アメリスはアニマを咎めつつも嬉しそうだった。
彼はそのままクレシアンの傍まで来て、肩に手を乗せた。
「君のおかげだ。よく頑張ったな」
「……あ、ああ」
クレシアンは安全が戻ったことに安堵し、力が抜けるようにその場に膝をついた。それから自分を抱え込むように小さくうずくまる。
アメリスはそれを見ても責め立てることはなく、「ゆっくり休め」とだけ言った。
アニマとティエラもクレシアンの傍までやってくる。アニマはクレシアンの横にしゃがみこみ、ゆっくりと背中をさすった。
勝ったことも、褒められたことも嬉しいはずなのに、胸の中はあまり軽くならなかった。




