実が見たモノ
「ふむ…」
拓也が降りていったバスの中で、実は思案げに腕を組んだ。
学級委員の仕事というのは嘘じゃなかったのだが、教室のベランダから見送っていた拓也が普段とは違う道に入るものだから、影に代わりを任せて尾行してきてしまったのだ。
新たな乗客を乗せたバスが、病院前を出発する。
遠ざかっていく病院を見る実の表情は、穏やかとは言い難かった。
今朝見たものに驚いたのは、紛れもない事実。
拓也自身が気付いていないようだからとっさにごまかしたけど、内心は笑っていられる心地じゃなかった。
何度も見返したけど、自分にははっきりと見える。
拓也に覆いかぶさるように、黒い靄のようなものがまとわりついているのが。
今朝の出来事を思い出して、実は表情を一層険しくする。
―――あれは、命を脅かすほどに危険なものだ。
詳しいことは分からなくても、靄を見た瞬間、それだけは本能的に察知できた。
「多分、原因はあそこにあると見て間違いないだろうな。」
もう見えなくなった病院の方角を仰ぐ。
拓也にまとわりついていた靄は、拓也が病院に入ると同時に色濃くなった。
病院に原因がなくして、あの現象はありえない。
「はあ…」
勝手に溜め息を吐き出す体は放っておき、思考を巡らせる。
一番の解決方法は、原因を取り除くこと。
これに限る。
だが、拓也が病院で何をしているのかが全くもって分からないのが厄介だ。
魔法で拓也の動向を探ることは可能だが、それをするのには少し躊躇いがあった。
拓也も魔法に精通した人間だ。
自分で魔法を扱う能力だけではなく、自身に向けられた魔法を察知する能力も高いはず。
仮に動向を探っていることが拓也にばれたら、説明を求められるのが必至。
そうなれば、事がややこしくなってしまう。
大体、言えるわけがないじゃないか。
拓也に、あんなものが憑いているだなんて……
拓也が気付いていない以上、本人が気付かないうちに解決してしまうのが一番穏便だ。
―――というのが、表向きの言い訳。
実際のところ、拓也がいかに魔法に敏感だったとしても、拓也に気付かれることなく彼の動向を探れる自信はある。
それでも躊躇っているのは、そうすることが拓也のプライベートに立ち入ることになるから。
いくら自由奔放に動いている自分でも、立ち入っていいところと立ち入ってはいけないところの分別はできる。
拓也のためという大義名分を掲げても、それが拓也の内面に土足で立ち入っていい理由になるとは限らない。
それに……
実は、窓の外に視線を滑らせる。
窓の外では、多くの人がそれぞれの時間を謳歌していた。
歩道には、楽しげに話しながら歩く学生たちや、忙しそうに駆けていく社会人。
道路沿いのファミレスを見れば、面白おかしく談笑している主婦たちの姿。
皆がそれぞれ、自分の世界で生きている。
時には他人と世界を共有して、時には自分だけの世界に入り込んで。
「………」
実はそれを、どこかまぶしそうに目をすがめて見つめる。
それに……本当は、怖いのだ。
誰かに深く関わることが。
誰かの世界に入り込むことが。
そして、誰かと世界を共有することが。
誰かと世界を共有しながら深く関わっていけば、いずれ油断する瞬間が出てくるだろう。
ちょっとでも油断すれば……
ちょっとでも心を許してしまえば……
その瞬間に―――自分は殺されてしまう。
どんなに払拭しようとしても、この恐怖を忘れられた試しがない。
むしろ、記憶と魔力を取り戻してからは、この恐怖が昔よりもかなり増大している。
また、その理由もなんとなく自覚していた。
―――他人と関わることを、覚えてしまったからだ。
記憶を封印した後、自分は他人を疑わずに生きてきた。
一時的にでも、本能的なこの恐怖を忘れていたのだ。
その中で誰かが自分の正体に気付いていたらと思うと、今でも背筋が凍りそうになる。
そして、記憶を封じてしまった己の浅はかな選択を悔いてしまうのだ。
桜理と傷つけたからという理由だけじゃない。
記憶を封じて穏やかに暮らしてきた日々があるせいで、新たな恐怖と向き合うはめになってしまったから。
それは―――自分が信じた人に殺されるかもしれないという恐怖。
自分の中に死を望む暗い感情があることに気付いてからは、殺されること自体は大した恐怖ではなくなった。
怖いのは、今まで関わってきた誰かに殺意を向けられること。
記憶を封じていた自分が純粋に信じていた誰かに殺されることだ。
どうせ殺される運命なら、どこの誰かも知らない赤の他人に殺されたい。
少しでも自分に近い人には殺されるのは嫌だ。
信じていた人には、やっぱり裏切られたくないもの……
「………っ」
そこまで思い至った瞬間、つきりと胸が痛んだ。
歪みそうになる表情を、奥歯を噛み締めることで抑え込む。
外の景色をぼんやりと見ながらも、脳裏にひらめくのは昔のこと。
誰も信じまいと、自分の正体や感情を隠して他人と距離を置くこと。
これは、幼い自分が生きるために必死で覚えたことだったのだと思う。
自分の身と心を守るためには、それが最良で精一杯のことだったのだ。
でも……今となっては、それが最良なんだとがむしゃらに信じることができない。
周りと距離を置けば置くほど、寂しさが胸腔を満たしてしまう。
自分を偽れば偽るほど、罪悪感が鋭利な刃物となって自分の心をめちゃくちゃに切り刻んでいく。
(それでも……俺は、独りでいるべきだと思うから。)
胸が苦しくてたまらない。
それに耐えるのがつらくて、思わず目をきつく閉じる。
桜理との一件で彼との境界が曖昧になってから、ずっとこうだ。
憎むべき対象として作り上げた彼の声は、もう聞こえない。
彼と対峙したあの空間に行くこともできない。
矛盾した感情どうしのせめぎ合いはもう、自分と彼という確立した存在の対立ではなくて、自分一人だけの心の葛藤でしかなくなってしまった。
だから、この葛藤が今まで以上に苦しい。
自分は自分なのか、それとも本当は彼なのか。
それが分からなくて、自分の存在がどんどん信じられなくなっていく。
「………」
実は無言のまま、静かに首を振った。
―――今は、自分のことが一番信じられない。
これだけが、今の自分が確信できる揺らがない気持ち。
この気持ちにすがるなら、自分が取るべき行動など―――
「……はあ。」
物憂げに息を吐く実の耳に、バスのアナウンスが響く。
ふと窓の外に視線を向けると、バスは隣町の駅前通りを走っていた。
考え事をしている間に、終点までバスに乗っていたようだ。
実は料金を示す電光掲示板を見ながら、隣の席に置いてあった自分の鞄を引き寄せた。




