忘れてなんか、なかったんだよ。
「………」
実が倒れていく姿を、桜理はただ茫然と見つめていた。
この桜が人を襲うところなんて、初めて見る。
桜も生きた人間を襲ったことはないと言っていたから、きっと実が初めてなのだろう。
桜理は見ていた。
そして、感じていた。
実が自分の腕を傷つけた瞬間、桜がざわめき出したのを。
実が何をしたのかは分からなかった。
気付いたら急に地中から飛び出した一本の根が、実の肩を目にも止まらぬ速さで貫いていた。
それは、本当にまばたき一つの間の出来事で……
凄惨な光景を目の当たりにした瞬間、放心してしまっていた。
目の前で起こっていることは何?
実が、本当にこんなことをするなんて……
これは、私が実にさせたことなの?
もう一人の自分が問いかけてくる。
桜が何か実に話しかけているけど、何を話しているのかは分からない。
桜が聞かせないようにしているのか、それとも自分が聞きたくないのかは判断がつかなかった。
「桜理!!」
上空の方から、誰かが自分を呼んだ。
麻痺した思考は役には立たず、声に反応した体だけが勝手に首を巡らせる。
建物の屋根から、招いていない訪問者たちは飛び降りてきた。
梨央と拓也だった。
二人して、緊迫した表情をしている。
「………っ」
梨央の姿を見た瞬間に苦い気持ちが広がっていくような気がして、桜理は思わず唇を噛む。
ちょっとした嫉妬だった。
初対面の時は「実の彼女?」なんて軽く言ってみせたけど、内心で梨央の存在にかなり驚いた。
梨央の様子を見ていれば、梨央が実に好意を抱いていることには察しがついた。
だからこそ、梨央の存在が嫌だった。
確かに、自分の知っている実は封印されてしまっていて、その後の実はもはや別人だと聞かされていた。
だとしても、実の傍にいて実に好意を寄せる梨央が、どうしても好きになれなかった。
実の前では仲良くしてみせたけと、二人になった瞬間に我慢できなくなった。
言うつもりなんてなかったのに、思わず自分が実を利用するつもりだと言ってしまった。
だって、牽制しないと気が済まなかったんだもの。
そうしないと、嫉妬でおかしくなりそうだった。
実は自分のものなんだって。
心が必死にそう叫んでいたから。
『実君は、あたしだけのお友達だよ! 約束ね!?』
幼い頃に無邪気に告げた言葉が、残酷なまでに独占欲を掻き立てていた。
どうして、自分はこんなにも嫉妬しているのだろう。
実は、自分を忘れてしまったのに。
自分を忘れる道を選んで、笑って過ごしていたのに。
実は、憎い相手のはずなのに……
「―――っ!? 実!!」
梨央が真っ青になって金切り声をあげる。
実の状態に気付いたのだろう。
焦った拓也が桜の根から実を解放しようと魔法を繰り出すが、それは透明な壁のようなものにことごとく遮られる。
おそらく、あれは結界か。
拓也でも一筋縄ではいかないと察した梨央が、桜理を睨みつける。
「桜理!! 実に何をしたの!? あれをどうにかしてよ!」
詰め寄ってくる梨央に、桜理はふるふると首を振るしかなかった。
こんなこと知らない。
桜がこんな力を持っていたなんて、これまで聞いたこともない。
どうにかしろと言われても、何も知らない自分にはどうにもできない。
梨央はこちらの態度を、〝どうにもできない〟ではなく〝そんなことをしたくない〟という意味に取ったようだった。
梨央の顔にカッと血が上ったかと思うと、その腕が素早く動いて空気を切った。
パン、と。
澄んだ音が、自分の中でやけにはっきりと響いた。
叩かれた頬が、じんわりとした痺れを伴った痛みを発する。
そのおかげで、どこかに飛んでいた思考が徐々に戻ってきた。
梨央は、そんな桜理の胸に何かを押しつけた。
反射的にそれを受け取った桜理は、不可解げに眉をひそめる。
そこにあるのは、一冊の黒い手帳。
どういうつもりかと、目だけで梨央に訊ねる。
しかし、梨央はこちらを睨んだまま微動だにしない。
(開けろって言うの…?)
梨央の意思を汲み取った桜理は、その表紙をおそるおそる開けた。
そこにあったのは―――
「うそ…」
自分の口がそう呟いたのを、桜理は自覚していなかった。
何かの間違いじゃないだろうか。
こんなこと、あるわけない。
信じられない思いで、桜理は手帳に挟まっていた写真を食い入るように見つめる。
古くて小さなポラロイド写真。
そこに写るのは、幼い実と自分だった。
「忘れてなんか、なかったんだよ。」
梨央が言う。
「確かに昔、実は桜理のことを忘れたのかもしれない。でも、心はちゃんと桜理を覚えていたの。じゃなきゃ、こんなに大切に写真を持ち続けてるわけないでしょ。」
「……やめて。」
一歩、後ろに退く桜理。
(嫌……嫌……)
足元が大きくぐらつく感覚がする。
自分の信じてきた事実が唐突に幻になっていくようで、動揺から思わず手帳を落してしまった。
「この子は誰なのって訊くと、いつも『分からないけど、すごく大切な人だった気がする。』って言ってた。写真を見る度に、実があんたを想って切ない顔をしてたってことを、あんたは知らないでしょう?」
「嫌………言わないで。」
桜理の手が震える。
しかし、梨央は桜理の拒否を無視した。
これは、彼女が絶対に知らなければいけないことなのだ。
桜理のことなんてどうでもいい。
自分は、実のためだけに真実を伝える。
桜理の中で実が悪者で終わるなんて、自分は絶対に許せない。
「桜理。私は、あんたに嫉妬してた。もちろん今もね。だって、実の心にはいつだって桜理がいた。実が見ている世界の先には、絶対に桜理がいるの。実はいつでも桜理のことを想ってた。傍にいた私には分かる。誰よりも実の心を独占していたのは―――桜理、あんたよ。それを、あんたは知ってた?」
梨央の凄みの利いた視線に、桜理は怯んだ。
梨央の後を引き継ぐように、今度は拓也が口を開く。
「実は、ずっとあなたの存在に縛られていた。桜理を助けられなかったのは自分のせいだって、実は心が死んでしまいそうになるまで自分を追い込んだ。だから忘れたんだ。自分の心を守るために。」
拓也は追い詰められた実の姿を思い返して、痛々しげに眉根を寄せる。
「記憶を取り戻した後、実はあっという間に昔と同じ道を辿った。自分を責めて、心を病ませていった。見ているこっちがつらかったよ。あそこまでつらそうな実は、見たことがなかった。それでも、桜理のことを話す実の顔はものすごく穏やかで優しかった。実は今でも、あなたのことを心底大事に想っているんだ! だからっ……だから今、あんなことをしてるんだ……」
「………」
拓也の言葉に、桜理は何も答えられなかった。
実は忘れていなかった?
ずっとずっと、私を想っていたの?
実を追い込んだのは、私?
目まぐるしい自問の嵐が脳裏を揺さぶる。
「それなのに……それなのに、あんたは実に死ねって言ったのよ!?」
梨央がこらえきれずに叫んだ。
彼女の言葉は、一振りの剣となって自分の心を一刀両断する。
足元が崩れるような錯覚がして、膝が笑った。
へなへなと座り込んだ桜理を見下ろす梨央の瞳の中では、未だ冷め切らぬ怒りが火を噴いている。
「実はあんたを大事に想ってきたのに……なのに、あんたは―――」
「やめてくれ!!」




