プロローグ~黒に舞う白~
……雪が降っている。
白い、白い雪。
それが、真っ暗で何もないこの空間に唯一の色彩を与えていた。
ひらひらと舞ってきた雪が、ふと頬に触れる。
冷たくはなかった。
それで、これが雪ではないことに気付く。
―――これは、花びらだ。
ぐるりと辺りを見回す。
花びらは、遥か遠くまで一面に降り注いでいた。
しかし、それらが地面に積もることはない。
花びらはどこからともなく降ってきて、地面に落ちる前に幻のように消えていく。
手のひらをすっと差し出すと、すぐに数枚の花びらが落ちてきた。
地面へ落ちる花びらは消えていくのに、手に乗る花びらは消えない。
まるで、その存在を自分に訴えるかのように。
よく見ると、白く見える花びらは淡く桃色に色づいていた。
それを認識した瞬間、思わず眉根が寄ってしまう。
―――――この花は、嫌いだ。
この花を頭の隅に思い浮かべるだけで、胸が潰れたかと錯覚するほどに苦しくて仕方なくなる。
この小さな花たちに、責められている気がしてならないのだ。
この花は、できるだけ見たくない。
それなのに、見たくないと願う自分を嘲笑うかのように、ある時期になるとこの花は一斉に蕾をほころばせる。
そして、世界の全てをこの花の一色に染め上げるのだ。
視界に入る景色の至る所でこの花が舞い踊り、その季節の自分は、まるで世界の全てから責められているような気分になってしまう。
それはもう、いっそ逃げ出してしまいたくなるくらいの苦しさで……
だが、なんと皮肉なことだろう。
この花を嫌がる自分とは逆に、周囲は満開の花を見て頬を緩める。
綺麗だと言って、その花が咲き乱れるのを喜ぶのだ。
どうしてそんなに喜ぶことができるのか。
理解できなかった。
自分は、こんなにも苦しいのに……
花たちに責められているような圧迫感。
素直に花の存在を喜べる人々への嫉妬と羨望。
けれど、自分を偽ってまで周囲の輪に入れない孤独感。
そんな思いがぐちゃぐちゃになって、自分が分からなくなる。
いっそのこと、こんな花なんてなくなってしまえばいいのに。
現実逃避でそんなことを考えながらも、それはできないということも分かっている。
決して力がないわけではない。
やろうと思えば、忌々しいこの花を全て消すことくらい簡単だろう。
それなのに行動できない理由は、他でもない自分自身がその行為を許せないから。
自分の手で花を傷つけてしまうよりも、花に責められているような苦しみにひたすら耐える方が何倍も楽だからなのだ。
今だって、手のひらに乗る無力で小さな花びらを握り潰すことすらできない。
自分の情けなさが弱った心に沁みる。
ぐっと唇を噛み締めたその時、強風が闇の中を吹き抜けていった。
手のひらに乗っていた花びらが、風に流されていく。
視界から花びらが消えたことに気が抜けて、無意識に大きく息をついた。
その刹那、風が一気に勢いを増した。
嵐のような強風に目を閉じて顔を背ける。
視界が闇に染まる。
たったそれだけのことで、気持ちが一気に楽になる。
このまま、目を閉じていられたら……
そう思うのに、逃げることは許さないと言わんばかりに風が和らぐ。
そして、理性の支配を離れた目が自然と開いて、花びらが散る光景を鮮明に映し出してしまう。
「………っ」
息を飲んだ。
―――景色が少し変わっていたのだ。
少し離れた場所に、大きな木が立っていた。
枝という枝にあの花を咲かせた木。
そして、その木の根元に小さな子供が立っていた。
子供はこちらに背を向けて、頭上で咲き誇る花を見上げている。
「―――っ!!」
胸の奥から、すさまじい恐怖が噴き出してくる。
今すぐにでもこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。
しかし、意に反して体は一ミリも動かない。
逃げたいのに、逃げられない。
それでも必死にもがいていると、子供の肩がピクリと揺れた。
ゆっくりと、子供が振り向いてくる。
「―――っ!?」
戦慄が全身を駆け巡り、ざっと血の気が引いていく。
(嫌だ…。こっちを見ないで……)
そんな切願が通じるはずもなく、子供が完全にこちらを向いてしまった。
五~六歳ほどの少女だ。
少しくせがついたショートカットの黒髪はふわふわと風に揺れ、その髪よりも深い闇色の瞳はまんまると愛らしい。
少女はこちらに気付くと嬉しそうに笑って、手を大きく振ってきた。
無邪気で、なんの裏表もない嬉しそうな笑顔。
その笑顔が嘘偽りのない純粋なものだからこそ、―――深く、本当に深く心を抉られた。
(見たくない……見たくないんだ……もう……)
心が必死にそう訴えてくる。
それなのに、言うことを聞かない目は視界の中心に少女を据えたまま。
手を振り続ける少女と動けない自分の間で、花びらたちだけが舞い続ける。
そんな時間が、どれだけ流れただろうか。
急に、少女の顔から笑顔が消えた。
振られていた手が徐々に勢いをなくし、静かに下がっていく。
そして―――大きくつぶらな目から、一筋の涙が零れ落ちた。
その涙を見た瞬間、逃げ出したい気持ちを遥かに凌ぐ別の衝動が突き上げてくる。
その衝動に急かされるままに、少女の元へと駆け寄ろうと走った。
―――走ろうと、した。
しかし、相変わらず体は動かないまま。
何もできない自分の前で、少女はただ泣きじゃくる。
そして―――
「―――実。」
名前を、呼んだ。
すがるように。
悲しそうに。
苦しそうに。
ただひたすらに、名を呼んだ。
「実……実……実………」
純粋すぎて、透明な声。
それが、頭をひどく痛ませる。
そして、鋭い刃のように心を容赦なく切り裂いていく。
耳を塞ぎたい。
瞼だって閉じてしまいたい。
声を拒絶したい体は激しい苦しみを訴えて、意識を鈍らせようとしているはずなのに……何かが、意識を手放させてくれないんだ。
(お願い……やめて……)
全身全霊が悲鳴をあげている。
自分の奥深くにある、決して踏み込まれたくない領域。
少女の声はそこをめちゃくちゃに掻き乱して、そして壊していく。
(嫌だ。嫌だ。―――思い出したくない…っ)
心底そう願う。
しかし、その一方では理解していた。
そう。
自分は何もできない。
何もできなかった。
これは、変えることができない過去。
魂に深く刻まれた―――己の罪だ。
「実……実……」
少女が必死に呼んでいる。
「実……実……」
けれど、自分は見ているだけ。
何もできない。
「実……実、実……」
とうとう、全身から力が抜けた。
これ以上の地獄なんてありやしない。
深い絶望の中、懇願するしかなかった。
(―――――もう、許して……)




