不甲斐ない自分
フェンはただ、ぼうっと座っていた。
何かをするわけでもなく、意思と感情がどこかへ消えてしまったような虚ろな目をして。
『―――上等。そんなに欲しければ、くれてやるよ!!』
空っぽになった頭の中で、実のあの言葉だけが繰り返し響いている。
あの言葉を最後に、記憶はぶっつりと途切れている。
気付いたら朝になっていて、自分のベッドに横になっていた。
両親が言うには、昨日は何を話しても上の空で、そそくさと自室にこもってしまったらしい。
リビングに顔を出した時にとんでもなく心配されたので、昨日の自分は相当おかしかったのだろう。
昨日のことを思い出そうとすると、頭が割れるような痛みを放つ。
鮮明に思い出せるのは、自分を見下ろす実に爆発的な恐怖を覚えたことだけ。
あそこまでの恐怖を抱いたことは、これまでになかったと思う。
今だから〝恐怖〟だと表現できるものの、あの時はそれが恐怖だと認識する前に、頭が拒絶反応を起こして記憶が飛んでしまった。
人間、あまりに強い恐怖を感じると心を守るためにそのことを忘れてしまうことがあるというが、あれは本当だったようだ。
あんな実は初めて見た。
表情こそ笑っていたものの、薄茶色の双眸には苛烈で攻撃的な感情が渦巻いていたような気がする。
本能的に拒絶するほど怖かったということは、それだけ実が怒っていたということなのだろうか。
(どうして、実さんはあんなにも怒ったんだろう…。僕はただ、シェイラに幸せになってほしいだけなのに……)
ようやく、錆びついた思考が回り始める。
幼い頃から、シェイラとはずっと一緒だった。
昔から、少し明るさには欠けるが優しくて穏やかなシェイラ。
基本的には気弱で何も言わない彼女だが、自分の前では泣いたり怒ったりすることも多かったっけ。
それはきっと、彼女が自分を信頼している証だったのだろう。
自分は、色んなシェイラをずっと傍で見てきた。
彼女の肉親が一人もいなくなってしまった今、その素顔を知るのは自分だけ。
他の人とは違う。
自分だけが、本当のシェイラを知っているのだ。
好きなものも嫌いなものも、ついやってしまう癖も何もかも。
シェイラと過ごしてきたこの十数年。
彼女のことを、彼女以上に知り尽くしてきた。
誰よりも大切で、誰よりも愛しい。
だからこそ、自分よりも優れているグランにシェイラを、と思った。
彼となら、きっと幸せに暮らせるはずだと。
だから身を引いた。
それが正しいことだと思っていたのだ。
―――最初は。
歪みに気付いたのは、いつからだっただろう。
グランは、シェイラを振り向かせようと必死だった。
そして、当然のように彼女の好みなどを自分へと訊ねてきた。
そんな彼に、平然と嘘をつく自分がいたのだ。
理由は明白。
自分はまだ、シェイラへの想いを断ち切れていなかったのだ。
教えたくなかった。
自分だけが知っている愛しい人のことを、誰が進んで他人に教えるというのか。
そこには、必死に考えて行動しては空回りするグランを見て、暗い優越感に浸っている醜い自分がいた。
シェイラには幸せになってもらいたい。
でも、想いを断ち切ることができない。
いっそのこと、シェイラがすぐにグランに振り向いてくれればよかった。
そうすれば、まだ諦めがついた。
だが現実は厳しく、シェイラはグランを好きになるどころか、むしろ彼を嫌っているように見えた。
それがどうしてかは、どんなに考えても分からなかった。
こんな自分でも、まだ分からないシェイラの気持ちがあったなんて……
(―――いや。)
そこで、フェンは自分の思考を否定する。
シェイラがグランを嫌う理由はともかく、彼女が彼になびかない理由は知っている。
本当は分かっていた。
シェイラの気持ちが、自分に向けられていることくらい。
でも、自分はその想いに応えられない。
自分よりも明らかに優れた人を前にして、そんなことはできなかった。
グランの存在によって自信は削がれ、残っているのは、彼女を一番知っているのは自分だけだというプライドじみた意地だけ。
こんな独りよがりな自分では、シェイラを幸せにできるはずもない。
だからシェイラのためにも、彼女の想いには応えてはいけないのだ。
(これも違う……)
また否定。
シェイラのためなんかじゃない。
結局は、自分のためだ。
グランという存在を前にした自分は、シェイラを守ることから逃げた。
自分にはできないと決め込んで、二人から目を逸らしていたかっただけ。
シェイラの気持ちを無視したのは、不甲斐ない自分を守るため。
全部、自分のためだ。
こうして整理してみると、全て実に言われたとおりじゃないか。
指摘された時はカッとなって実に掴みかかってしまったが、彼の言うことは全て正しかったんだ。
分かっていても突き放すのは、自信がないから。
手を伸ばせば届くのに、自分はその手を伸ばせないでいる。
―――怖いんだ。
グランという存在に押し潰されるのが。
そうして、結局はシェイラを不幸にしてしまうのが。
そんな情けない自分を実に見抜かれて逆上するなんて、見苦しいにもほどがある。
「くそ…っ」
虚ろだったフェンの瞳に、突如として怒りの火が灯った。
衝動に任せるまま、思い切り机を殴る。
―――ビシッ
「……え?」
突然のことに、それ以上の言葉が出なかった。
めいいっぱいの力で殴ったせいで、拳がじんじんと痛む。
それだけなら驚きなどしない。
机にぶつけられた拳。
そこを中心に、机にいくつものヒビが入っていた。
「なん……で……」
呻くフェン。
突如として起きた現象を冷静に分析する余裕は、今の彼にはなかった。
「ありえない……こんなの、ありえない…っ」
瞬く間に混乱したフェンは、両手で髪の毛を激しく掻き回す。
「何なんだよ、一体!」
―――ビシビシビシッ
「!?」
叫んだ瞬間に机のヒビがさらに広がって、弾け飛んだ木片が顔の近くをかすめる。
「………」
取り乱す気力すらも失った。
使い物にならなくなった机を見つめる彼の思考は、ただ空白に染められていくばかり。
(なんだよ、これ……)
ただ茫然と。
(誰か……教えてくれ……)
心が、そう呟いた。
―――ドクンッ
その瞬間、フェンの体がびくりと震えた。
「……あ…」
急に全身を襲った異変に、反応が遅れる。
しかし、自分の身に何が起こったのかさえ、その異変が理解させない。
そして―――
ザザザザザザ―――ッ
「―――っ!!」
思わず、頭を抱えた。
何かが体の奥からあふれ出して、膨大な情報が頭に流れ込んでくるのだ。
「あっ……あ……」
その激しい何かの奔流に抵抗することもできず、ただ喘ぐしかない。
「うっ…うあ……あ…」
頭が痛い。
全身がバラバラになってしまいそうだ。
あまりの激痛に、フェンの意識は奈落の底へと落ちていった。




