第9部:交錯する刃と決心
足がもつれ、冷たい雪に何度も足を取られそうになりながら、僕はずっと全速力で走り続けていた。
息が切れ、肺が焼けつくように熱い。だけど立ち止まるなんて論外だ。なんとしても早朝の狩りの時間までに、シドのグループと合流しなければいけない。もし遅刻でもしたら……破門だ。ここまでの血の滲むような特訓も、シドから学んだすべての日々も、一瞬で水の泡になってしまう。
(間に合え……! 頼むから間に合ってくれ……!)
白み始めた薄明かりのなか、ようやく見慣れたオオカミの森の入口が見えてきた。奥へと駆け込むと、ちょうどシドたちが狩りの準備を整えて集合しているところだった。僕は滑り込むようにその場に倒れ込み、肩で激しく息をついた。
「ハッ……ハッ……ま、間に合った……!」
僕の姿を見下ろしたシドは、呆れたように、けれどほんの少しだけ口元を緩めて言った。
「あと五分遅れてたら破門だったぞ」
「ぐ……ごめんなさい、シド……!」
「休んでる暇はない、すぐに出るからな」
「はい! シド! ……それと、あとでお話があります」
僕が意を決して伝えると、シドは鬱陶しそうに顔をしかめた。
「ゴチャゴチャうるせぇよ。今日の狩りでまともな獲物を仕留めたら聞いてやる」
「はい! シド!」
僕は疲労なんて一瞬で吹き飛ばし、必死の思いで狩りへと飛び出した。今までの特訓の成果をすべてぶつけるように集中し、気配を消し、雪を蹴る。そして、見事に立派な獲物を仕留めて見せたんだ。
昼間のシドとの特訓も、いつも通り容赦なく行われた。こればかりは、どれだけ経験を積んでもシドには敵いそうにない。一見すると棒立ちで隙だらけに見えるのに、踏み込んだ瞬間に完璧にいなされてしまう。どこにも隙がないんだ。
一度だけ、どうにか一刺し見舞おうとして変にフェイントを入れて突っ込んだことがあった。その時、シドは本気で大激怒した。
『そんな姑息な技に頼るくらいなら、戦いなんて即刻やめちまえ! 相手は殺し合いに来てるんだぞ!』
地響きのような怒号で一蹴されたあの時は、恐怖のあまり本当におしっこが漏れるかと思った。
だから僕は姑息な手品を捨て、ひたすら攻撃の「スピード」と「キレ」を磨き上げていった。重い鎧を身にまとった火の国の兵士たちに、正面から噛み付いたって勝てないのは分かっている。だけど、分厚い金属の鎧を着れば着るほど、人間の動きは当然重くなり、兜のせいで視野も狭くなる。真後ろなんて、絶対に視界に入らない。
『スピードで翻弄して相手をバテさせろ。大剣を振りかぶったら一瞬で間合いを切る。それを何度も繰り返すんだ』
『二人以上の兵士を誘い出したら、そいつらが攻撃を振りかぶった瞬間に自分だけ身を引け。お互いの攻撃で勝手に相打ちになる』
オオカミたちが永い歴史の中で、凶暴な人間たちと対峙し、生き残るために生み出してきた実践的な知恵。シドはそれを、余すことなく僕の体に叩き込んでくれた。
探した日の夕方、僕らは再び狩りに出かけた。かつては逃げられてばかりだったウサギはもう余裕で捕まえられるし、今では大きなシカだって一瞬で仕留められるようになった。
首筋に牙を立て、呼吸が止まるのを見届けながら、僕はいつものように心の中で静かに呟く。
(命をくれて、ありがとう……)
強くなること、生きること、そして大切な人を護ること。その全てが、この冷たい雪の上で繋がっているのを僕は実感していた。
その夜、僕はシドと共に群れのボスであるハイドのもとへ向かい、すべての事情を打ち明けた。
十日後にヴァルガが三国併合を宣言し、スイを無理やり妻に迎えようとしていること。火の国の資源はすでに底をついていて、ヴァルガはそれを隠して「全員が幸せになる」と嘘をついていること。
式典の日に城門が開くその瞬間こそが、ヴァルガを倒してスイを奪還する唯一のチャンスであること。探していた水の国の王アレン殿と残された兵士たちが、そのタイミングに合わせて一斉に攻め入る手はずになっていること──。
「……だから、お願いです! 僕に、オオカミたちの力を貸してください!」
僕が必死に頭を下げると、ハイドは一切の挟み込みもせず、静かにすべてを聞き届けてくれた。深遠な沈黙のあと、ハイドは重々しく口を開いた。
「人間の政治などには興味はない。……だが、ヴァルガのその卑劣なやり方は許せんな」
ハイドの眼光が、暗闇の中で鋭く光る。
「だがなスノウ、今のお前ではヴァルガには到底勝てん。……無論、シドもだ」
息を呑む僕たちに、ハイドは決定的な試練を突きつけた。
「今から九日目の夕方までに、二頭で力を合わせ、この森の東の深部に棲む『熊』を狩ってみせよ。それができたなら、ヴァルガを打ち破る勝機も生まれるやもしれん。……見事熊を狩り得たならば、我らオオカミの全軍勢を貸してやろう。いいな! シド、スノウ!」
「……っ!!」
『熊』という言葉を聞いた瞬間、僕の全身の毛皮が逆立ち、ガタガタと震えが止まらなくなった。
名前くらいは知っている。だけど氷の国ですら、熊を一人で倒したなんて英雄譚は一度も聞いたことがない。熊に出遭ったら最後、誰もが生きては帰れない。街の誰もが「絶対に近づくな」と恐れる存在だったんだ。
いつだったか、森の近くで熊に襲われた人の遺体を目にした時の記憶が蘇る。人間なんて一撃で引き裂いてしまうようなあり得ないほど巨大な爪の痕、食いちぎられた身体……到底、直視できるような代物じゃなかった。
ハイドのもとからの帰り道、月明かりの下を歩きながらシドが僕をチラリと見た。
「……震えているな。ビビったか?」
「ビ、ビビりました……。シドは……熊と戦ったことはあるんですか?」
僕が声を震わせて尋ねると、シドは苦々しい表情で視線を前方へと向けた。
「ある。だが……勝ったことは一度もねえ。過去に何匹もの仲間が奴にやられた。狩るにはあまりにもリスクが高すぎる。だから、熊の匂いがしたら絶対に近づくなというのが、この森の絶対の掟だ」
(シドですら勝てないなんて……!!)
絶望感が押し寄せ、僕の震えはさらに大きくなった。シドがあれほど圧倒的な強さを持っているのに、そのシドですら歯が立たない化け物を、僕たちが狩るなんて……!
そんな僕の弱気を見透かしたように、シドが前足を力強く踏み鳴らして叱咤した。
「だが、やるしかねえんだろ!! ハイド様がお前に力を貸すと決めたんだ、俺は体に叩き込まれた通り従うまでだ!」
「シド……」
「お前だって、ヴァルガの奴に支配された世界で生きるくらいなら、死んだ方がマシだろ!? なら死ぬ気でやるしかねえんだよ! ……それに、ハイド様は絶対に無茶な博打は言わねえお方だ。熊を狩れるようになれば、ヴァルガに勝てる可能性があるからこそ、そう仰ったんだ」
シドの力強い言葉が、冷え切りそうになっていた僕の心にじんと温かく染み込んでいく。そうだ、ハイドもシドも、僕を見捨てずに一緒に戦おうとしてくれているんだ。僕が真っ先に怯えてどうするんだ。
「……うん! ありがとう、シド……!」
恐怖が少しだけ和らぐと、急に身体の力が抜けて猛烈な眠気が襲ってきた。
「あの……シド、今日は隣で寝てもいい?」
「はぁ!? 俺にはそんな気持ち悪い趣味はねえんだよ! ……ったく、お前がそうしたいんなら勝手にしろ」
悪態をつきながらも、シドは僕を追い払おうとはしなかった。僕はシドのあたたかい体温を隣に感じながら、久しぶりに安心感に包まれて深い眠りへと落ちていった。
次の日から、僕とシドはいつもの日常に加えて、夜になるとハイドのもとへ通い、熊との戦い方を教わりに行った。
『熊が最も活発になるのは早朝と夕方だ。お前たちと同じだな』
『嗅覚は比較にならん。熊が一番、二番がオオカミ、残念ながらスノウ、お前はビリだ』
『奴らの力はお前たちの何倍もある。鋭い爪の一撃、そして噛み付く力はオオカミの二倍、犬のお前と比べたら実に五倍だ。一度噛まれれば、骨まで容易に食いちぎられるぞ』
『だが、全速力の速度はお前たちとほぼ同じだ。正面からまともにぶつかれば絶対に勝てん』
ハイドから語られる熊の生態は、聞けば聞くほど絶望的なものばかりで、とても勝ち目なんてないように思えた。
だけど──ハイドは最後にこう言ったんだ。
『だが、勝機があるとすれば「走り続けられる時間」だ。熊の全速力は一分ほどしか持たん。対して我が一族は、数時間でも走り続けられる。それこそがお前たちの唯一の強みだ』
その晩から、僕とシドは寝る前の時間を使って、熊を倒すための作戦会議を毎晩重ねた。シドと頭を突き合わせ、あーでもないこーでもないと知恵を絞るその時間は、僕にとってすごく有意義で、大切な時間になっていった。
勝負はハイドから言い渡された九日目の早朝。チャンスは一度きりだ。
暗闇が残る早朝、僕とシドは覚悟を固めて東の森を目指した。
雪を蹴立てて走ること数十分。やがて、肌を刺す森の空気が変わる。
(……!! クマの足跡だ……!)
雪の上に残された巨大な足形。そして鼻をつく、荒々しい野獣の匂い。
「いいか、熊は俺たちよりも鼻がいい。俺たちが近づいていることは、もう相手には知られて──」
シドが言葉を途切れさせた、その瞬間だった。
「グオーーーーーーッ!!」
大気を揺るがす地響きのような咆哮とともに、茂みから巨大な黒い影が飛び出してきた!
「シド!?」
視界が激しく揺れ、シドの体が巨体に弾き飛ばされて雪原を転がっていく。あまりの速さに、気配すら察知できなかった。間違いない、コイツがこの森の暴君、熊だ!
息が止まりそうになる僕の目の前で、影が疾走する。
次の瞬間、目にも止まらぬスピードでヒュンヒュンと雪原を跳び回る影があった。シドだ! 彼は鮮やかに攻撃を回避すると、僕の隣へと着地した。
「大丈夫だ、なんともない!……さあ兄弟! やるぞ!」
「……っ!! うん!」
恐怖で凍りつきそうだった体に、カッと熱が宿る。
僕たちが練り上げた作戦──それは、熊の威勢が良い内は絶対に頭部に近づかず、片方が気を引き、もう片方が後ろから下半身だけを攻撃する持久戦。やばそうならすぐに距離を取り、相手の体力を奪っていく。
「来い! 化け物!!」
シドが前線に躍り出て、鋭い威嚇で熊を挑発する。怒り狂った熊が大地を揺らしてシドへ突進した。その一瞬の隙を見逃さず、僕は熊の背後へと回り込み、後ろ足の関節を目がけて力限り噛みついた!
「グラァッ!?」
分厚い皮膚と毛皮の奥へ牙を突き立てる。噛みつかれた怒りで、熊の巨大な顔がギロリと僕へと向き直った。恐ろしい眼光と、血の匂いのする吐息。
「スノウ、引け!」
シドとのアイコンタクト。僕は瞬時に牙を抜き、全速力で後方へ飛び退いた。今度は僕が死力を尽くして走り回り、熊の注意を自分に引きつける。その背後から、シドが影のように肉迫し、別の足を深く切り裂く。
追いかけられたら、死に物狂いで逃げ続ける。ハイドの言葉通り、熊の全力疾走は長続きしない。
けれど──熊は異常なまでにタフだった。
どれだけ足を攻撃し、血を流させても、倒れる気配すらない。丸太のような腕が振り下ろされるたび、衝撃波で大量の雪が舞い散り、かすっただけでも命を吹き飛ばされそうな圧迫感が僕らを襲う。
死闘は数十分におよんだ。
呼吸が激しく乱れ、熊の口から白い息が荒く吹き出す。体力が削られてきた絶好のタイミングで、僕とシドはあらかじめ決めていた「雪深いエリア」へと熊を誘導した。
「グ……ガ……ッ!?」
巨体ゆえに、熊は膝まで積もった深い雪に足を取られ、まともに踏み込むことができなくなる。対して軽量な僕たちは、積雪の上に足を取られることなく滑らかに立ち回ることができた。
(今だ……! 最後の仕上げ……!)
僕は雪を蹴り上げ、熊の顔面に向かって一直線に跳躍した。
かつてシドに「相手の目を狙え」と言われた時、僕は恐怖と躊躇で動けなかった。だけど、今の僕に迷いなんて欠片もない! スイを護るため、みんなのもとへ帰るため──僕は鋭く研ぎ澄ませた爪を、熊の両目へと深く突き立てた!
「ギャアアアアアアッ!?」
視界を完全に奪われた熊は、狂ったように暴れ回った。生い茂る樹木を一撃でへし折り、鋭い爪を所かまわず振り回す。その圧倒的な破壊衝動は、以前目にした覚醒時のヴァルガそのものだった。
僕とシドは極限の集中力でその狂乱の爪をかわし続け、やがて熊が完全にバテて動きを止めた──その瞬間。
シドが弾丸のように飛び出し、熊の太い首筋へと深く牙を突き立てた。
凄まじい地響きとともに、巨大な黒い体が雪の上に倒れ込む。静寂が、森に戻ってきた。
僕たちは……あの恐ろしい熊に勝ったんだ!!
「やった……! やったよ、シドーーーーっ!!」
僕は跳び上がって叫んだ。
ハイドのもとへ勝利を報告したあと、僕たちは狩った熊の肉を持ち帰り、群れの仲間たち全員で分け合って食べた。
明日はいよいよ、火の国への決戦。これはオオカミ一族の決起集会だ。
月明かりの下、肉をガツガツと噛みちぎるシドの隣に腰を下ろし、僕は気になっていたことを尋ねてみた。
「あのさ……シド。戦う前、僕のこと『兄弟』って言ってくれたよね?」
シドはピタリと肉を喰む手を止め、ギロッと恐ろしい目つきで僕を睨みつけた。
「……お前もここで食ってやろうか?」
低く唸るような声で脅されて、僕は「ひぇっ」と首をすくめた。だけど、僕は知っている。照れ隠しのその言葉の裏で、シドが確かに僕を自分の「兄弟」と認めてくれたことを。
熊に勝てたことよりも、それが何よりも嬉しかった。
満腹になり、身体の底から力が湧いてくるのを感じながら、僕は明日の決戦に向けて静かに目を閉じた。
(スイ、待っててね。明日、必ず氷の国に連れて帰るから──)
(第9部・完)
次回更新は8月30日17:20です




