第10部:決戦の幕開け〜炎の終わりと、温かな始まり(前・中編)
第10部:決戦の幕開け〜炎の終わりと、温かな始まり(前編)
決戦の日の朝。
空が群青色から薄桃色へと染まり始める早朝、オオカミの群れは一斉に動き出した。先頭を走るのはボスであるハイド、そしてそのすぐ隣にはシド、そして僕だ。雪を蹴立て、地響きを立てて走る無数の足音。静まり返った森を抜け、火の国を大きく迂回して疾走する。
僕たちの目的地は、水の国と火の国との間に広がる緩衝地帯。今日、この式典の日にすべてが決まるんだ。絶対に失敗は許されない。
(スイ……待っていて。今、助けに行くから……!)
やがて視界が開け、冷たい朝靄の向こうに人影の集団が見えてきた。その中央で際立つ、見覚えのある人物。
「いた……! アレーン!」
僕は思わず歓喜の声を上げ、全速力でその胸へと跳び込んだ。
「おお……スノウ! 来てくれたのか……!」
しっかりと僕を抱きしめてくれたアレンの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。スイを奪われ、国を追われ、傷つきながらも諦めずに戦い続けてきたアレン。久しぶりに再会できた彼の温もりに、僕の胸も熱くなった。僕たちは試練を乗り越え、再びここで繋がったんだ。
アレンは僕の後ろにズラリと控え、静かに威圧感を放つ群れを見渡し、目を見開いた。
「スノウ、この者たちは一体……?」
僕はこれまであったこと──シドとの出会い、過酷な特訓、ハイドとの約束、精神的にも成長できたこと、そして激闘の末に熊を倒して絆を結んだことを夢中で説明した。
話を聞き終えたアレンは、驚きと深い敬意を込めた眼差しで、群れの先頭に立つハイドの前へと歩み寄り、静かに膝をついた。
「オオカミのボス、ハイド殿とお見受けいたす。我らに力をお貸しいただき、誠にありがたい。水の国を代表し、心より感謝申し上げます」
誇り高い王としての礼節を忘れない、アレンの紳士的な挨拶。ハイドは不敵に目を細め、重々しい声で応じた。
「難しい挨拶はいらん! 時間がない、まずは作戦を聞こうか」
ハイド、シド、アレン、水の国の兵士たち、そして僕が一堂に会し、すぐさま最終の作戦会議が始まった。
見回すと、水の国の兵士たちが身につけているのは、かつての鮮やかなグリーンの鎧ではなかった。彼らは鎧を炭で真っ黒に塗りつぶし、どこの国の兵力か特定されないよう工夫を凝らしていたのだ。残された少ない兵力で確実に勝機を掴むための、凄まじい覚悟がその黒い甲冑から伝わってくる。
アレンが地図を広げ、落ち着いた声で作戦を語り始めた。
「まず、私が単独で式典の会場へと潜入する。式典が始まり、ヴァルガの注意が引きつけられたところで、漆黒に身を包んだ我が兵たちが不意打ちで奇襲をかけ、火の国の兵士たちを撹乱する」
「敵の陣形が崩れた隙を突くんだな?」
シドが追及する。
「そうだ。混乱のさなか、私がスイとヴァルガを安全な城内へと誘い込む。外が戦火に包まれている間に、オオカミの群れが一気に城塞へと特攻してほしい」
アレンの視線が、僕とシド、そしてハイドへと向けられる。
「城の屋上口の鍵は、スイの侍女として潜入しているエマという女性が、極秘裏に解錠しておく手はずになっている。君たちは屋上から城内へ侵入し、ヴァルガを討ち取ってスイを奪還してくれ」
完璧な手はずだった。スイとエマが城内で紡いだ暗号の手紙、アレンたちの不屈の覚悟、そして僕とオオカミたちが培った野性的な強さ──すべてが一つに合致した瞬間だった。
「よし、決まりだ。行くぞ!」
アレンが剣を抜き、高く掲げた。
「水の国の誇りを胸に! 奪われたものを取り戻すぞ!」
「オオーッ!!」
真っ黒な鎧をまとった兵士たちが一斉に剣を打ち鳴らし、誇り高きオオカミたちは天に向かって地鳴りのような遠吠えを轟かせた。種族も国も超えた全員の心が、いま確かにひとつに結ばれたのだ。
「スノウ、スイを頼んだぞ」
「うん! アレンも、絶対に無事で!」
アレンは力強くうなずくと、一人、静かに火の国への潜入を開始した。その背中を見送りながら、僕もまた自らの使命を果たすべく、足に力を込めた。
第10部:決戦の幕開け〜炎の終わりと、温かな始まり(中編)
とうとう、この日がやってきてしまった。
窓から差し込む朝の光はどこか冷たく、城塞全体が重苦しい緊張感に包まれている。私は平然を装いながらエマと朝食をとっていたけれど、胸の動悸は早まるばかりだった。手元がわずかに震え、スープに口をつけることすら覚束ない。
そんな私の焦燥を察したのだろう。エマがそっと近づき、私の温もりの失せた手を優しく握りしめてくれた。その指先から伝わる不屈の意思に、私ははっと呼吸を整える。
「スイ様……朝食が済みましたら、身支度をいたしましょう」
「ええ……お願いね、エマ」
エマもまた、どこまでも平然を装っていた。監視の兵に見咎められぬよう、いつもの淡々とした手つきで私の髪を結い上げ、花嫁用のドレスの袖に腕を通させていく。
(……こんなもの、着たくもないのに)
鏡に映った自分を見て、私は苦々しい思いで唇を噛んだ。ドレスの色は、血のように鮮やかな真っ赤。火の国を象徴する色であり、私が「火の国へ嫁入りした」という事実を、集まった人々に誇示するための演出なのだ。どこまでも私のプライドを踏みにじる、ヴァルガの姑息で下劣なやり方だった。
浮かない顔で佇む私の背後から、エマが淡々とドレスの細部を整えていく。
「スイ様、襟元の部分、これでよろしいでしょうか?」
正面の鏡越しに、エマの顔が近づく。私の耳元で囁くような小さな声。そして、エマの視線に導かれるように鏡に映った自分の襟元へ目を凝らした瞬間──私は息を呑んだ。
……刺繍だ。
細かなステッチで密かに刻まれていたのは、ふたつの言葉。
──『信じる』、そして『希望』。
胸の奥が熱くなり、涙があふれそうになった。恐怖に押しつぶされそうだった心に、一筋の強い光が差し込んでいく。
「……はい、エマ。とても素敵です」
私が絞り出すように答えた直後、重々しい音を立てて部屋の扉が開いた。姿を現したのは、ヴァルガとアレンだった。
ヴァルガもまた、彼らしい趣味の悪い真っ赤な鎧を身にまとっている。私を一瞥すると、下品な笑みを浮かべて頷いた。
「おぉ、スイ、とてもきれいだ。赤がよく似合うではないか。それでこそ我が妻にふさわしい」
(この男は、どこまでおめでたいのだろう……)
胸の底から湧き上がる不快感を押し殺し、私は一言も発さず無言を貫いた。
「今日は我が火の国と、お前の氷の国、そして水の国の三国にとって歴史的な記念日になるぞ」
高らかに語るヴァルガの言葉など、もはや私の耳には一字も入っていなかった。
その時、ヴァルガの後ろに控えていたアレンが口を開いた。
「スイ女王、今日は本当におめでとうございます。心より祝福いたします」
アレンは私に恭しく頭を下げると、すぐ隣に立つエマへと視線を向けた。
「エマもスイ女王のためにありがとう。先日いただいたワッペン、大変見事な刺繍だった。皆にもその想いが伝わり、大変喜んでいたよ」
「──!」
(……皆にも、その想いが伝わり……!)
その一言に含まれた決定的な意味を、私とエマは瞬時に理解した。暗号は解読され、水の国の兵士たち、そして何よりスノウへ確実に届いたのだ。私たちは固い絆で結ばれた仲間たちの存在を確信し、互いに目配せを交わした。
「お褒めの言葉、光栄にございます」
エマは感情を一切表に出さず、いつもの侍女の顔で短く返した。完璧な演技だった。
「では参ろう、皆が外で待っている」
ヴァルガが促し、私が歩き出そうとした時、エマが背後から静かに声をかけてくれた。
「スイ様、行ってらっしゃいませ」
(必ず……必ずエマも一緒に、ここから逃げ出すんだ!)
私は振り返らず、心の中で強く、強く誓った。
◇
ヴァルガ、アレン、そして私の一行は、城の大中庭へと降り立った。
中庭には火の国の兵士たちが整然と隊列を組み、式典のための祝福の演奏を繰り広げている。その周囲には、水の国と氷の国から無理やり集められた使節や家臣たちの姿もあった。表向きは拍手で私たちを迎えているものの、その瞳の奥にはこれから始まる「何か」を察し、覚悟を決めた強い光が宿っている。
演奏がクライマックスを迎えようとした、まさに次の瞬間だった。
「ウオオオオオオッ!!」
ドッと地鳴りのような歓声とともに、城門を破って真っ黒な鎧に身を包んだ兵士たちが一斉に雪崩れ込んできた!
(ついに……始まったんだ……!)
「な、なんだこれは!? 一体どこの兵士だ!?」
ヴァルガが驚愕の声を上げる。式典用の魅せるための兵装しか身につけていなかった火の国の兵士たちは、突如現れた謎の黒い軍勢に手も足も出ず、次々と叩き伏せられていった。鮮やかなグリーンの鎧を真っ黒に塗りつぶし、正体を隠して乗り込んできた水の国の精鋭たちだ。
混乱と悲鳴が渦巻き、中庭は一瞬にして戦場と化した。焦りを見せるヴァルガの肩を、アレンが素早く掴む。
「ヴァルガ殿! どこの兵かは分かりませんが、ともかくここは危険です! 安全な城内へ避難しましょう!」
「くっ……おのれ、不届き者が! スイ、来い!」
アレンの冷静で淀みのない誘導により、私たちは混乱する中庭を後にして、再び城の奥へと引き返した。
すべては、あらかじめ描かれた筋書き通りに動き出していた。
混乱を極める城内を抜け、アレンの巧みな誘導のもと、私たちは城の最上部にある私の部屋へと退避した。
扉を開けると、そこには案じるような面持ちで待機していたエマの姿があった。
「スイ様……! 一体、どうなされたのですか!?」
「黒い鎧を身につけた謎の兵士たちが、城に攻め入ったのです……!」
私の言葉に、エマは一瞬だけ目を見張り、すぐさま状況を理解したように口元を引き結んだ。
「おかしいぞ……! 一体どういうことだ!?」
追いついてきたヴァルガが、苛立ちを剥き出しにして激怒する。荒い息を吐きながら部屋の中を見回し、私、アレン、そしてエマへとギロリと視線を走らせた。
やがて、その邪悪な疑念の眼光が、私の前に立つ侍女へと一直線に注がれる。
「っ!……お前かぁーーーーっ!!」
真相を察知したヴァルガは獣のような叫び声を上げ、持ち前の大剣を一気に引き抜くと、容赦なくエマに向かって切りかかった!
(エマ……っ!!)
逃げ場のない狭い部屋。しかしエマは、まるでこの瞬間が来ることを予見していたかのように、一切の恐怖を見せず、表情一つ変えずにその場に仁王立ちしていた。大切な主と国を護るための、あまりにも壮絶で気高き覚悟。
次の瞬間──
ガキィィィンッ!!
空気を切り裂く金属音が室内に響き渡り、火花が激しく散った。ヴァルガの剣を受け止めたのは……ほかでもない、アレンだった。
「ぬ……なに!?」
「ここまでにしてもらいましょう、ヴァルガ殿!」
エマの覚悟とアレンの疾風の如き剣技が、寸でのところで最悪の事態を食い止めたのだ。
次回更新は8月31日17:20です。




