第8部:針と糸の暗号
火の国の冷たい城塞のなかで、私は静かに窓の外を眺めていた。
敷地内では、数日後に迫った「三国併合の宣言」と私とヴァルガの「婚姻の儀」に向け、火の国の兵士たちが何度もリハーサルを繰り返している。整然と並ぶ隊列、重苦しい鎧の擦れ合う音。彼らは着々と、この世界を塗り替える準備を進めていた。
(スノウ……あなたは今、どこでどうしているの……?)
胸の奥で、かけがえのない大切なパートナーの名を呟く。彼らが私を諦めるはずがない。だからこそ、私にできる最大の戦いをここでしなければならないのだ。
ある日、エマが一枚の布と刺繍糸を携えて私の部屋へやってきた。その布には、驚くほど細かく、隙間なく刺繍のステッチが施されている。
「これを差し上げますので、同じものを作ってください。左上が一番基本のステッチで、右に行くにつれて二番、三番となり、全部で二十五番まであります。縦列はその基本のステッチを派生させた形になります」
エマはいつもの無表情で、淡々と説明した。一見すれば、ただの手芸の練習用見本布だ。監視の兵が見ていようと、声を潜めて聞いていようと、何一つ怪しい点はない。
だが、私とエマの視線が一瞬だけ重なった。その瞳の奥に宿る強い光を見て、私は察した。
横軸の基本ステッチが「文字」や「記号」の枠組み、縦軸の派生が「数値」や「詳細」を意味する──二十五のグリッドを用いた暗号だ。エマは私の観察力と洞察力を信じて、この危険な博打を仕掛けてきたのだ。
「わかりました、エマ」
私は短く答え、針を取った。
それからの日々は、静かな緊張感に満ちていた。窓の外を凝視し、火の国の兵士の人数、並び順、隊列の交代時間や動きの癖を細かく記憶する。探した情報を、エマと二人で一枚の布の上に「ステッチの順番」として刻んでいくのだ。
時折、ヴァルガが部屋に姿を見せることがあった。その時が最も心臓の跳ね上がる瞬間だった。ヴァルガは刺繍の施された布を大きな手で持ち上げ、興味深そうに眺めた。
「ほう、見事なものだな」
(頼むから気づかないで……)
心の中で冷や汗をかきながらも、私は彼へいつもの通り、連れてこられた時から変わらない冷ややかな態度を貫いた。
「私を閉じ込めておいて、退屈しのぎに文句でも言いたいのですか?」
「相変わらずツンツンした態度だな、スイ」
ヴァルガは不敵に笑い、暗号の存在にはまったく気づかないまま去っていった。エマもまた、ピクリとも感情を表に出さず控えていた。
夜、同じベッドに入り、掛布団の中で小さな小さな声を潜ませてエマと「答え合わせ」をする。
「今日の第三隊の交代時間、暗号の十六番に組み込みました」
「ええ、完璧です、スイ様」
このひそやかな時間だけが、暗号に命を吹き込み、互いの本心を打ち明け合える唯一の救いだった。この刺繍は、私達ふたりが紡ぐ秘密の手紙なのだ。
そして、式典の二日前。部屋の扉が開き、ヴァルガとともにアレンが現れた。
「やあ、スイ女王。マリッジブルーは治ったかい?」
相変わらずの軽薄な笑みを浮かべるアレン。私はわざとらしくため息をつき、視線を逸らした。
「治るも何も、私は納得しておりませんし、あなたと話すことはないと言ったはずですが」
「おやおや、これは嫌われたものだ。どのみち三国併合後は三人で繁栄させていかなければならないのだから、いずれ建設的な話し合いをしましょう」
そのやり取りの最中、ヴァルガが机の上の刺繍を指差し、誇らしげに言った。
「アレン殿、スイが最近刺繍に凝っていてな。なかなかのものだろう?」
「ほう、これはまた見事だな」
アレンが刺繍を手にとる。その瞳が一瞬、細くなったのを私は見逃さなかった。彼ほどの切れ者なら、このステッチの不自然な規則性が単なる模様ではないと気づくはずだ。彼の視線が微妙に動き、暗号のロジックを解読しているのが分かった。
そこへ、エマが静かに一歩踏み出した。
「アレン様、先日の出席者リストより、当日身に着けていただくものにございます。人数分用意いたしましたので当日はこちらを身につけてください」
エマが差し出したのは、式典用の小さなワッペンだった。だが、それにも私とエマで仕込んだ密かな刺繍──式典当日の兵士の動きの全容と、「当日は城の屋上口の鍵を開けておく」という決定的な合図が刻まれている。
「ありがとう、当日着けさせてもらうよ。君は確かエマだったかな。スイ女王の刺繍は君が?」
「はい、私がお教えさせていただいております」
淡々と会話を交わす二人。どこからどう見ても、ただの使者と侍女のやり取りにしか見えない。二人が密かに思い合っている恋仲だなどと、誰が察せられるだろうか。完璧な演技だった。
アレンとヴァルガが部屋をあとにし、重い扉が閉まった瞬間、私とエマは同時に「ふう……」と深く胸をなでおろした。
(うまくいった……アレンには確実に伝わったはず)
もしあの暗号がヴァルガにバレていたら、私たちはその場で処刑されていたかもしれない。だが、サイは投げられたのだ。
窓の外の闇を見つめる。きっと、スノウも、氷の国や水の国の仲間たちも、この式典の日にかけて動き出しているはずだ。
「あとはもう、待つだけですね」
「ええ……私達にできることは、すべてやりました」
その夜、私とエマはベッドの中でしっかりと手を握り合った。繋いだ手の温もりだけが、明後日に訪れる大決戦への恐怖を溶かしてくれた。私たちは静かに、運命の朝を待つために目を閉じた。
(第8部・完)
次回更新は8月29日17:20です




