第7部:陰謀の招待状
「おい! いつまで寝てるんだ! 本当に食い殺すぞ!」
頭の上から響いたシドの怒号に、僕は弾かれたように飛び起きた。
「は、はい! ごめんなさい、シド!」
慌てて周囲を見回したけれど、洞窟の外はまだしんと静まり返っていて、視界を遮るほどの真っ暗闇が広がっている。……これって、朝どころかまだ完全に夜じゃないのかな?
「モタモタするな! 夜が明けちまうぞ!」
「はい! シド!」
僕は痛む体を無理やり動かし、シドのグループの後を必死で追いかけた。今日から僕は、彼のチームに行動を共に出させてもらうことになっている。爆破的な怖さの残るシドからは、「今日のところはお前は狩りのやり方を見ろ、そして学べ」と冷たく言い渡されていた。
雪を蹴立てて全力で走ること数十分。静まり返った森の茂みで、一羽の野生のウサギを見つけると、シドたちは一瞬で気配を消した。身を低くし、足音ひとつ立てずに風下からゆっくりと距離を詰めていく。
次の瞬間、シドのグループの一匹が低くしなやかに跳躍した。眩いほどの早業で、一瞬のうちにウサギを仕留めてしまったんだ。
「分かったか?」
振り返ったシドが、冷ややかな瞳で僕に問いかけてくる。
「う〜ん、何となく……」
「じゃあ次はお前がやってみろ」
「……はい! シド!」
再び走り出して数分、また運よく一羽のウサギを発見した。僕はさっき見たオオカミたちの動きを真似て、必死に気配を消しながら慎重に近づいていく。
「お前のタイミングで行け」
背後からシドの短い指示が飛ぶ。
(よし……今だ……!)
「エイッ!」
僕は雪を蹴って威勢よく飛び出した。けれど、僕の踏み込みの音に気づいたウサギは、一瞬で身を翻して深い雪の奥へと逃げ去ってしまった。
「ふっ」
シドが鼻で笑う音が聞こえて、僕は耳まで熱くなるのを感じた。
その後も、僕の挑戦はことごとく失敗続きだった。やがて東の空がうっすらと白み始め、夜が明けてくる。僕以外のオオカミたちはみんな、自力で獲ったウサギを誇らしげに咥えて洞窟へと戻っていった。
洞窟に帰ると、獲ってきたウサギはまず群れの小さな子供たちに分け与えられ、その余った分をシドのグループで分け合って食べていた。
当然、一羽も捕まえられなかった僕の分なんてあるはずもない。
お腹がグウと鳴るのを必死で耐えていると、ウサギを平らげたシドが僕を見下ろしてきた。
「お前、どんだけ甘やかされてきたんだよ。そのままじゃ死ぬぞ」
シドの言っていることは何一つ間違っていなかった。僕は今まで、スイや街のみんなに守られて、用意されたご飯を食べ、温かいところで眠っていたんだ。ここでは自分の力で獲物を獲らなきゃ、誰もご飯なんてくれない。
「日中は俺が戦い方を教えてやる。ついて来い」
シドに連れられて、僕らは洞窟の近くにある開けた広場へと向かった。
「いいぞ、俺からは仕掛けないからお前のタイミングで来い」
広場の中央で、シドは静かに言い放った。僕は姿勢を低くし、シドの周りをぐるぐると旋回しながら隙を探す。
(どこだ……どこに隙がある……?)
シドはただの棒立ちで、身構える素振りすら見せない。完全に隙だらけに見えるけれど、それが逆に恐ろしいプレッシャーとなって僕に襲いかかってくる。
シドがふっと一瞬、視線を泳がせたように見えた。
(今だ……!)
次の瞬間、僕はシドの真後ろに回り込み、その背後から全速力で飛びかかった。
けれど──その瞬間、シドは身を翻していた。僕が着地するより早く、僕の目の前、鼻先が触れ合うほどの至近距離にピタリと顔をくっつけて言った。
「はい、お前死んだ」
「……っ!」
その通りだった。もしシドが本気で僕を仕留めるつもりだったら、僕の首筋は今の一瞬で噛み千切られていたはずだ。圧倒的な実力差に、冷や汗が噴き出す。
「……もう一度、お願いします!」
僕は着地と同時に身を小さく躍らせた。今度こそは、と心の中で強く念じる。
けれど──
「はい、お前死んだ」
「くっ……もう一回!」
「はい、お前死んだ」
何度挑んでも、結果は同じだった。シドの圧倒的な強さの前に、僕は何度も何度も地面に転がりながら、自分の無力さを嫌というほど思い知らされるのだった。
「じゃあ今度は、俺の目を狙え」
地を這うようなシドの言葉に、僕は思わず目を見開いて叫んでしまった。
「えっ!? で、でも……!」
シドの目なんて狙ったら、片目や両目を潰してしまうかもしれない。そんな恐ろしいこと、できるわけがない。僕が戸惑って躊躇したその瞬間、シドは冷ややかな声で吐き捨てた。
「それだ。だからお前は狩りも出来ないし、俺にも勝てないんだよ」
シドはゆっくりと僕との間合いを詰め、鋭い眼光で僕の顔を覗き込んできた。
「質問を変えよう。仮にお前が俺の目を攻撃して、俺の視界が一生奪われたとする。お前はどう考える?」
「……気の毒に、思うと思う……」
僕が消え入りそうな声で答えると、シドは詰問するように言葉を続けた。
「今朝、ウサギを狩りに行ったな。お前は狩られた側のウサギをどう思う?」
「気の毒に……思う……」
「お前は氷の国で肉を食うだろう?」
「うん」
「肉に対して気の毒に思うのか?」
「思わない」
「なぜだ?」
「肉は……肉だから……」
「そいつは始めから『肉』だったのか?」
「違う……元は牛や鹿だった……」
僕の答えに、シドはぐうの音も出ない正論を突きつけてきた。
「なら、お前の言ってることは間違ってるだろう。お前の前に『肉』として出てきた物だって、お前じゃない誰かが殺したんだろ? そういう残酷な部分は都合よく見ない事にしておくなんて、あまりにも都合が良すぎる話だろ。お前は人間に飼われて、黙ってても自動的に飯が出てきたのかもしれないが……ここは違う。殺して食わなきゃ、自分が死ぬんだ! もし本当に相手を気の毒に思うなら、苦しませずに一瞬で息の根を止めろ! 分かったな!」
「……はい、シド」
シドの放つ一言一言が、甘やかされて育ってきた僕の胸に刺さり、ぐさぐさとしびれるように響いた。命を奪うことの重み、そして生きることの本当の意味を、僕は今まで何一つ分かっていなかったんだ。僕が食べ物として口にしていたお肉も、誰かが命を奪う痛みを背負って用意してくれていたものだったのに、僕はそれを「肉」という綺麗な言葉で覆い隠して見ないふりをしていた。
シドは厳しい表情のまま、ダメ押しするように僕に告げた。
「あと、戦う相手に対して『自分の攻撃が当たったらどうなっちゃうんだろう……?』って考えた時点で負けるんだ。いいか? 相手はお前を殺しにきてるんだぞ!」
シドの指摘はあまりにももっとも過ぎて、僕は返す言葉もなく、ただただ俯いてシドの教えを胸に刻み込むことしか出来なかった。
「……もう一度、お願いします!」
僕は拳を握りしめるように前足をぐっと雪に踏み込み、シドの真っ直ぐな瞳を見据えた。生半可な気持ちじゃ、スイを取り戻すことなんて出来っこない。僕は覚悟を決めなきゃいけないんだ。
◇
それから数日が経ち、僕はすっかりシドのグループの一員として過ごすようになっていた。
朝晩は暗いうちから狩りに出かけ、日中は広場でシドとの猛特訓に明け暮れる毎日。厳しく叩き込まれたおかげで、今では大きな鹿だって一人で狩れるようになったんだ。
だけど、命を奪うことの重さを知った僕は、獲物の首筋にとどめを刺すたび、いつだって心の中で静かに唱えていた。
(……命をくれて、ありがとう。ごめんなさい……)
シドは戦い方の技術だけでなく、僕にさまざまな知識や世界の真実を教えてくれた。
『戦いの最中は、たった1回のまばたきすら命取りになる。怖い時ほど、絶対に目をつぶるな』
『ヴァルガの覚醒は圧倒的な力を生むが、あの身体への負担は計り知れない。そう長くは続かないはずだ』
『過去に俺たちオオカミは人間たちから拒絶され、他でもないあのヴァルガによって、この厳しい森へと追いやられたのだ』
『ボスのハイド様か? ふん、あの御方の御齢は少なく見積もっても300歳を超えている。この森の歴史そのものさ』
シドの話を聞くたび、僕は自分の世界の狭さを思い知らされた。そして、ハイドやシドたちが背負ってきた深い孤独と、ヴァルガという存在の異質な恐ろしさを改めて実感したんだ。
──そんなある日の昼下がりだった。
森の木々の隙間を、ザッザッと地響きを立てて通り抜ける大きな軍勢が現れた。真紅の凄惨な鎧を纏った兵士たち──火の国の軍勢だ。
「無駄な真似はするなよ」
隣で身を潜めるシドが低く囁く。兵士たちは全身を固い金属で覆い、連れている馬にまで重厚な鎧が着せられていた。正面から襲いかかっても、返り討ちに遭うのが関の山だった。
僕は息を殺し、木陰からその列をじっと見つめていた。その時、真紅の群れの中に、ひと際異彩を放つ人物の姿が目に飛び込んできた。
身に纏っているのは、優美な深い緑色の鎧──。
(……え……? アレン殿……!?)
信じられなかった。水の国の王であり、スイや僕たちをいつも優しく見守ってくれていたアレン殿が、なぜ火の国の軍勢の真ん中で馬を進めているんだろう?
混乱する僕の視線の先で、火の国の兵士たちとアレン殿の一行は、まっすぐに氷の国へと向かっていく。
(どうして……!? 水の国は火の国と併合したんじゃなかったの? アレン殿は捕まっているの? それとも……? 氷の国に一体何の用があるんだ……!)
胸騒ぎが止まらない。いても立ってもいられなくなった僕は、その日の夜、シドの前に進み出て必死に頭を下げた。
「シド、お願いがあります! 明日の朝までには絶対に帰ってきますから……一旦、僕を氷の国に帰らせてください!」
シドは冷徹な瞳で僕を見下ろし、フッと鼻を鳴らした。
「……明日の早朝、狩りの時間に遅れた瞬間、お前を破門とする。それを忘れるなよ」
「……っ! はい! ありがとうございます!」
僕はシドに深く感謝すると、振り返ることもなく夜の雪原へ飛び出した。
スイの無事は? 街のみんなはどうなっている? アレン殿は何をしに行ったんだ? 頭の中に渦巻く不安を振り払うように、僕は四肢をしならせ、風になって夜の雪原を駆け抜けた。
息が切れ、胸が焼けつくように痛む。それでも僕は立ち止まらなかった。
やがて、見慣れた氷の国の巨大な城門が暗闇の中に浮かび上がってきた。
「ハッ……ハッ……!」
僕が門前に辿り着いた瞬間、見張り台にいた門番の兵士が松明を掲げ、驚愕の声を上げた。
「おい! スノウだ! スノウが帰ってきたぞーーーっ!」
固く閉ざされていた重い門がゆっくりと開かれ、僕はこうして、一旦氷の国へと舞い戻ったのだった。
門をくぐるなり、通りかかった肉屋のおじさんが驚いた顔で慌てて僕に駆け寄ってきた。
「おぉ、スノウ! 生きてたんだな! みんな心配してたんだぞ、もうオオカミに食べられちゃったんじゃないかって! ……でも、とにかく大変なんだ! すぐに城へ行ってくれ! 今ちょうど、みんなで話し合いをしてるところなんだ!」
「えっ……うん、分かった!」
息を整える暇もなく、僕は城の大広間へと走った。大広間には国の家臣たちや街の人々が集まり、重苦しくも緊迫した空気の中で話し合いが進められていた。僕が姿を見せると驚かれつつも、すぐに席へと導かれ、今日起きた出来事の全貌を聞かされることになった。
事の経緯はこうだった。
今日の昼間、火の国の軍勢を引き連れて、突然あのアレン殿がこの国にやってきたのだという。彼らは戦いを仕掛けに来たのではなく、「三国併合の式典への招待状」を届けに来たのだと告げた。
それを聞いた街の人たちは黙っていられるはずもない。「スイ様を返せ!」「氷の国を奪うな!」と憤り、一瞬で『スイ様を返せ』の一点張りとなった罵声が飛び交う事態になった。
怒号と不信感が渦巻く中、アレン殿は顔色一つ変えず、淡々と一枚の招待状を手渡していったそうだ。
そこに記されていたのは、あまりにも身勝手で一方的な内容だった。
『10日後、火の国の王ヴァルガと氷の国の女王スイの婚姻の儀を執り行う。この婚姻をもって、火、水、氷の三国併合を完成させるものとする。つきましては、この記念すべき日に氷の国からも代表者の出席を求める』
その文面を目にした街の人々の怒りは絶頂に達した。アレン殿に向かって「裏切り者!」「ヴァルガの犬め!」と容赦ない罵声を浴びせ、中には怒りのあまり石や卵を投げつける者までいたという。
それでもアレン殿はぴくりとも表情を崩さず、静かに城を後にしていった。
けれど──物語はそこでは終わらなかった。
アレン殿が去ったあと、残された招待状をじっくりと見ていた長老のおじいちゃんとおばあちゃんたちが、ある違和感に気づいたのだ。
「この招待状の縁取り……ただの模様ではないぞ。昔使われていた『古代文字』だ!」
古代文字の解読ができるおじいちゃんとおばあちゃんたちが集まり、過去の記憶を辿りながら縁取りの暗号を必死に読み解いた。するとそこに浮かび上がってきたのは、アレン殿からのあまりにも切なく、そして熱い真実のメッセージだった。
『スイ女王が連れ去られてしまったのは、ひとえに私の力不足によるものだ。守れず、本当に申し訳ない。我が水の国は、火の国の卑劣な奇襲により完全に占領されてしまった。国民を人質に取られ、私は苦渋の決断として併合の書面にサインをさせられたのだ。現在、水の国は火の国の過酷な支配下に置かれ、食料の増産を強いられている。我らの兵力は半分を失ったが、生き残った兵士たちは水の国と火の国の間に広がる『緩衝地帯』に身を潜め、スイ女王の奪還と水の国の再起の機会をずっと窺っている。チャンスは一度きり。10日後の三国併合の式典の際、城門が開くその瞬間だ。私アレンと水の国の残存軍勢で、一気に火の国の城へ攻め込む。もし、共に立ち上がってくれる者がいるのなら、どうか力を貸してほしい。10日後の早朝、緩衝地帯にて待つ』
メッセージの真実を知らされた時、集まっていた街の人たちは、アレン殿に浴びせてしまった酷い罵声や投げつけた石のことを思い出し、誰もが深く後悔し、涙を流したという。
アレン殿は、たった一人で裏切り者の汚名を着ながら、命がけでこの救出計画を届けてくれたのだ。
(アレン殿……! 敵に回ったんじゃなかったんだ……一人でそんな過酷な戦いを……!)
胸の奥が熱く震えた。僕がシドたちのもとで強くなろうとしている間、アレン殿も、そしてきっとスイも、暗闇の中で諦めずに戦っていたんだ。
僕は力強く立ち上がり、大広間にいるみんなの顔をまっすぐ見つめた。
「状況はよく分かったよ! 10日後の早朝だね。僕がアレン殿と合流して、絶対にスイを連れて帰ってくるから! みんな、信じて待っていて!」
「スノウ……!」
驚きと希望の入り混じった歓声に見送られながら、僕は再び城を飛び出し、夜の雪原を駆け抜けた。
一刻も早くオオカミの森へ戻らなきゃいけない。シドとの約束の早朝に遅れれば、破門されてしまう。それに僕には、オオカミたちの圧倒的な力が必要なんだ。
(待っていてアレン殿、そしてスイ……! 10日後、僕も必ずそこへ行くから!)
僕は冷たい夜風を切り裂きながら、オオカミの森を目指して一筋の光のように走り続けた。
(第7部・完)
次回更新は8月28日17:20です




