第6部:偽りの兄と小さな温もり
「……アレン殿……!?」
呼吸が止まり、指先からすっぽりと刺繍針が抜け落ちて絨毯の上に落ちた。
目の前に立っていたのは、間違いなくアレンだった。水の国の王であり、私が幼い頃から実の兄のように慕い、何かあるたびに親身になって氷の国を支えてくれた、あの優しく誠実なアレンだ。
「アレン殿! 一体どうなっているのですか!? 無事だったのですね……! なぜこんなところに……!?」
私は居ても立ってもいられず、取り乱したまま彼のもとへ駆け寄り、縋りつくように問い詰めた。けれど、返ってきたのは、私の記憶にある彼の温かい声ではなかった。
「落ち着きなさい、スイ」
アレンは私の肩を優しく叩いて宥めようとしてきたけれど、その瞳は驚くほど冷ややかで、表情には薄っすらとした笑みが浮かんでいた。そして、信じられない言葉を静かに口にし始めた。
「火の国と水の国が併合したのは、紛れもない事実だよ。我が水の国の民も、皆この決定を心から喜び、歓迎している。そのうえで氷の国も併合し、三国が一つになれば、この大陸全体の繁栄は間違いのないものとなるだろう。……ヴァルガ殿は実に素晴らしいお方だ。そのヴァルガ殿と君が夫婦になってくれるというのだから、これほど喜ばしいことはないよ」
言葉の意味が頭に届いた瞬間、全身の血が引いていくのが分かった。
「……アレン殿……本気で、本気で言っておられるのですか……?」
喉を震わせて尋ねる私に、アレンは事も無くサラリと言い切った。
「無論、本気だとも」
「……私が王位を継いだ時、あれほど力になってくださったではありませんか! 私はアレン殿を、本当の兄のように思っていたのに……! 見損ないました……! もう、あなたとお話しすることは何もありません!」
怒りと絶望で声を荒らげる私を、アレンは哀れむような目で見つめ、フッと肩を揺らした。
「おやおや、マリッジブルーというやつかな? 大丈夫、すぐに慣れるさ」
あまりにも軽薄で、血の通っていない言葉。私が知っているアレンは、他国の平和や民の痛みに寄り添える、誰よりも高潔な人だった。目の前にいるこの男は、姿形こそアレンだけれど、中身は完全に別の『何か』に成り果ててしまっている。
言葉を失い、崩れ落ちるようにその場へへたり込む私に背を向け、アレンは去り際に言い放った。
「二人の婚姻の儀は10日後だそうだ。無論、私も同席させていただくよ。その時は笑顔で会おう、スイ女王」
悪夢のような宣告だった。10日後──私がヴァルガの妻となり、氷の国が完全に踏みにじられるまでのタイムリミット。けれど、もうそんな言葉すら、今の私の耳には残らなかった。
「そうそう、侍女のキミ、エマ……だったかな? これが水の国からの出席者リストだから、準備しておいてくれ」
アレンは控えめに立つエマに紙きれを押し付けると、振り返ることもなく部屋を出て行った。
扉が閉まり、静寂が戻る。……涙は、出なかった。あまりのショックに、胸の奥が完全に凍りついてしまったみたいだった。
氷の国と深い絆で結ばれ、いつも私の味方でいてくれた優しいアレンは、もうどこにもいない。
心の支えを失った私は、完全に抜け殻のようになってしまった。あれほど夢中になっていた刺繍にも、運ばれてくる食事にも、全く手を付ける気になれない。ただ呆然と、部屋の隅で膝を抱えて立ち尽くすことしかできなかった。
そんな私を、エマは静かに、けれどずっと心配そうに見つめていた。
「スイ様が……悲しんでいると、私も悲しいです」
感情を表に出すのが苦手な彼女が、小さな声でそう紡いでくれた。口数は多くないけれど、エマは私の輪郭をなぞるように、ずっと傍に寄り添い続けてくれた。
「スイ様、今日はもうお休みになられたほうがよろしいかと」
日が沈み、部屋が暗闇に包まれ始めた頃、エマがそっと布団を整えながら声をかけてくれた。私は小さく震える声で、彼女にお願いをした。
「エマ……ごめんなさい、今日は……一緒に寝てくれませんか……?」
エマは一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、嫌な顔ひとつせず、一つのベッドの中に一緒に入ってくれた。そして、冷たくなっていた私の身体を、優しく、包み込むように抱きしめてくれたのだ。
国を追われ、大切な仲間と引き裂かれ、信じていた人に裏切られ……これまでずっと張っていた気の糸が、ぷつりと音を立てて切れた。
私はエマの胸に顔をうずめ、子供のように声を上げて大泣きした。
そんな私を、エマは何も言わずに、ただ強く、強く抱きしめ続けてくれた。彼女の胸の温もりと、規則正しい鼓動だけが、私の壊れそうな心を繋ぎ止めてくれていた。
どれほどの時間、泣き続けていたのだろう。やがて涙も枯れ果て、しゃくりあげながら私は呟いた。
「エマ……ありがとう……ごめんなさい……」
すると、エマは私の顔を優しく見つめ、ほんの少しだけ口元を緩めて微笑みかけてくれた。
「良いのです。……だって、私とあなたは友達ですから」
その温かい言葉が、暗闇の中で途方に暮れていた私の心に、小さな灯火を灯してくれたのだった。
涙を拭い、息を整えようとしたその時、エマが私の耳元にそっと唇を寄せ、消え入るような小声で囁いた。
「ここでの会話は、誰に聞かれているか分かりません。このまま静かに聴いてください」
私の背中を優しく撫でる彼女の腕に、ほんの少しだけ緊張した力がこもる。私はエマの胸の中で、悟られないよう小さく小さく頷いた。
「スイ様にお伝えしたいことがございます。……アレン様は、あなたを助けるため、そしてヴァルガ殿を欺くために、先ほど演技をしておられたのです」
「えっ……?」
思わず声を漏らしそうになり、私はエマの瞳を凝視した。彼女の無機質だったはずの瞳には、強い意志と真摯な光が宿っていた。
エマは私の耳元で、さらに静かに言葉を続けた。
「火の国には黒炎石という絶大な資源がございますが……実はここ一年ほど前から、ほとんど採掘ができなくなってしまっているのです。ヴァルガ殿はその事実を隠し、『互いの繁栄のため』と偽って水の国へ併合を持ちかけました。突然の提案を不審に思ったアレン様が詳しく事情を調べようとしたところ、ヴァルガ殿は軍勢を率いて一気に水の国を占領してしまったのです」
エマの語る事実は、私の想像を遥かに超えていた。
「国民を人質に取られてしまったアレン様は、やむなく併合の文書にサインをさせられました。現在、水の国は火の国の軍勢の支配下に置かれ、過酷な食料の増産を強いられています。水の国の軍勢は戦闘で半数を失いましたが……生き残った半数は国外へ逃亡し、水の国と火の国との間に広がる『緩衝地帯』に身を潜めています」
(……アレン殿は、国民を守るために一人で耐えていたんだ……!)
アレンのあの冷酷な笑顔と不自然な態度の裏にあった、苦汁の決断と孤独な戦い。胸を刺していた氷のような痛みが、一気に解けていくのが分かった。
「アレン様は現在、火の国の支配下にある水の国と、火の国との連絡役を務めておられます。ですがその道中、緩衝地帯に残った水の国の軍勢と密に連絡を取り合い、水の国奪還の機会をじっと窺っておられるのです」
「エマ……あなたはこれほどの情報を、どうやって知ったのですか……?」
私は驚きを隠せないまま尋ねた。エマは静かに私の手を取り、アレンから渡されたあの紙切れに指を走らせた。
「アレン様より預かった紙の縁取りに、私とアレン様だけに通じる暗号が記されているのです」
「エマ、あなたは一体……?」
私の問いかけに、エマはほんの少しだけ視線を泳がせ、耳までほんのり朱に染めながら小さな声で明かしてくれた。
「私とアレン様は、数年前より密かに連絡を取り合っておりました。私は……アレン様をお慕いしております。今までお伝えせず、申し訳ございませんでした」
(エマと、アレン殿が……!)
驚きと同時に、胸の奥から温かい愛おしさがこみ上げてきた。冷徹な侍女として自分を殺して生きてきたエマが、初めて見せた一人の女の子としての素顔。
「いいえ、いいのですエマ! 私、とっても嬉しい……!」
私はたまらず、エマの身体をぎゅっと強く抱きしめた。
エマは私の背中を優しく撫で返しながら、きっぱりとした声で言った。
「私とアレン様で、必ずスイ様をお助けいたします。どうか私達を信じてください」
「でも……そんな危険なことをしたら、あなたが……!」
「いいのです。私にはその覚悟ができております。スイ様は、氷の国で民と共に生きるべきお方ですから」
命を捨てるような彼女の言葉に、私は首を強く横に振った。
「ダメです! 私のために誰かが犠牲になるなんて、絶対に許しません! もし逃げる時には、エマ、あなたも一緒です! 私はあなたを、必ずアレン殿のもとへ送り届けます! ……だから明日から、私にもその暗号を学ばせてください。それと……これから毎晩、一緒のベッドで寝てくれますか?」
私の言葉に、エマは一瞬呆気にとられたような顔をした後、今日一番の柔らかい微笑みを浮かべた。
「……承知いたしました、スイ様」
固く閉ざされた鉄の城の中で、私はエマというかけがえのない存在に、その絆に、深く心を救われたのだった。
(第6部・完)
次回の更新は8月27日17:20です




