第 5 部:咆哮の森と誓いの足跡
門番の人に「行ってくるね」と声をかけ、僕は重い城門をくぐり抜けた。
背後で、ギギギ……と音を立てて門が固く閉ざされる。重厚な金属音が雪原に響き渡り、僕は思わず足を止めそうになった。
けれど、僕は一度も振り返らずに前だけを見て進んだ。
もし今振り返って、住み慣れた温かい街やみんなの顔を見てしまったら、そのまま泣きながら逃げ帰ってしまいそうだったから。
怖いかって?
そりゃあ、怖いよ。怖くて怖くて、足がガクガク震えて今すぐにでも引き返したいレベルだ。
みんなを安心させるために「行ってくるね!」なんて大見得を切ってみせたけれど、ハイドに会える保証なんてどこにもない。
運よく会えたところで、交渉を聞いてもらう前に僕がパックリ食べられちゃう可能性だって十分にあるんだから。
ヒュウ、と冷たい地吹雪が吹き抜け、遠くの山影から「ウォーーーッ!」という低く尾を引くオオカミたちの遠吠えが聞こえてきた。空気を震わせるその声に、ぞくっと背筋が凍りつく。
(うぅ……やっぱり怖いよ……!)
逃げ出したい気持ちで胸がいっぱいになる。だけど、僕には帰る場所があって、守りたい笑顔があるんだ。国のみんなのため、そして何よりスイを取り戻すため、僕はここで立ち止まるわけにはいかない。
震える胸を押さえながら、僕は先代の王様が僕とスイに教えてくれた大切な言葉を思い出していた。
『壁にぶつかって苦しい時や、心が折れそうな辛い時はな、みんなで笑い合っている未来を強くイメージしなさい。もうダメだ、と諦めて決めるのはいつだって自分自身だ。そう思った瞬間に、本当に全てがダメになってしまう。だから絶対に下を向かず、温かい明るい未来を頭に描いて、前を向いて進むんだよ』
(そうだった……スイも、みんなも、笑っている未来を僕が諦ちゃダメだ)
深く息を吐き出すと、白い吐息が風に消えていった。
国と森を隔てる無人の『緩衝地帯』を抜け、僕はいよいよ『オオカミの森』の入り口へと足を踏み入れた。
一歩足を踏み入れた瞬間、あたりの空気が一変する。
鬱蒼と生い茂る針葉樹が太陽の光を遮り、森の中は昼間だというのに薄暗く、不気味な静寂に包まれていた。頭上を覆う黒々とした枝組みは、まるで侵入者を閉じ込めようとする巨大な檻のようだ。
足元の踏み固められていない深雪からは、時折『ガリッ』と硬いものを踏みつける嫌な感触が伝わってくる。雪の下に覗くのは、過去にこの森に迷い込み、オオカミたちの犠牲になった野生動物たちの白骨だった。
木々の隙間から刺すような視線を感じる。
ひとつやふたつじゃない。闇の奥から、幾重もの鋭い『気配』が僕を取り囲み、今か今かと喉笛を噛み千切る機会を窺っているのが分かった。
ふと気づけば、僕は周囲を10頭ほどのオオカミのグループに隙間なく囲まれていた。
……ここまでは想定内だ。
僕は冷や汗が背中を伝うのを感じながら、先代の王様から教わった知識を必死に頭の中に思い浮かべていた。
『スノウ、オオカミというのはな、基本的には10頭ほどのグループで作戦を立てて狩りをする生き物なんだ。彼らはまずじっと相手を観察し、自分たちが勝てると踏んだ瞬間に容赦なく襲いかかってくる。犬とオオカミは姿こそ似ているが、オオカミの噛みつく力は犬の何倍も強い。だから、少しでも隙を見せたり、怯えた素振りを見せたりしたら……その瞬間に喉笛を噛み千切られて終わりだぞ』
(ビビるな……ビビったら負けだ……!)
唸ることも、吠え立てることもなく、オオカミたちは静かに、殺気を含んだ瞳で僕を品定めしている。
僕は恐怖で跳ね上がりそうな心臓を必死に抑え込み、努めて平然を装いながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ハイドに、会わせてほしい!」
その瞬間──「オオオオォォン!」と、僕を取り囲んでいたオオカミたちが一斉に空を仰いで遠吠えを響かせた。
次の瞬間、死角から一匹のオオカミが牙を剥いて飛びかかってくる!
「くっ……!」
僕は身を翻してその跳躍を間一髪で避け、すれ違いざまに体当たりで蹴散らした。
(落ち着け……僕は戦いに来たんじゃない。だから、こちらから傷つけるような攻撃は絶対にしちゃダメだ)
倒れ込んだオオカミが体勢を立て直すより早く、僕は再びまっすぐに前を見据えて叫んだ。
「ハイドに会わせてほしい!」
あれこれと事情を説明したって、興奮した彼らには届かない。
とにかく落ち着いた口調で、自分がここへ来た用件だけを簡潔に、繰り返し伝えるんだ。
「ガルゥッ!」
「ハッ!」
その後も、次々とオオカミたちが鋭い爪と牙を向けて飛びかかってきた。
僕は鋭い攻撃を最低限の動きでかわし、時には受け流しながら、どれだけ体力を削られようと淡々とその言葉だけを繰り返しつづけた。
「ハイドに……会わせて……ほしい……!」
身体中を襲う激痛に耐えながら、僕はそれだけをただ愚直に訴え続けた。
その時──
10頭の群れがすっと左右に分かれ、森の暗闇から一匹のオオカミが静かに姿を現した。
僕を取り囲んでいたオオカミたちが、一斉に一歩下がって恭しく頭を低くする。
月明かりに照らし出されたその姿は、他のオオカミたちよりも一回り引き締まった体躯をし、その瞳には冷徹な知性と圧倒的な強者の余裕が宿っていた。
何も語らず、ただ鋭い眼光で僕を見下ろす圧倒的な存在感。
他のオオカミたちとは明らかに違う。言葉を話せるほどの知性を持ち、この群れを率いている特別な存在だと一目で分かった。
「キミは誰? 僕は氷の国のスノウ! 僕は戦いに来たんじゃない、ハイドに会わせてほしい!」
僕がそう叫ぶと、目の前の若いオオカミは鼻を鳴らし、鋭い眼光で僕を射抜いた。
「それを決めるのはお前じゃない! 大体、人間に飼い慣らされた出来損ないに指図される覚えは無い!」
吐き捨てるような言葉とともに、若いオオカミが雪を蹴って跳ね上がった。
(──速い……!)
思考が追いつく前に、反射だけで身体を捻る。スレスレで鋭い噛みつきはかわしたものの、すれ違いざまに伸びてきた爪が僕の胸元を深くかすめた。
「くっ……!」
痛い! 焼けるような激痛が走る。
だけど、ここで弱気な素振りを見せようものなら、一瞬で喉笛を噛み千切られて終わりだ。
僕は必死で歯を食いしばり、夢中で襲いかかる攻撃をかわし続けた。
俊敏な動きで翻弄され、鋭い爪が何度も何度も僕の体を切り裂き、白い雪が僕の血で赤く染まっていく。
「ハイドに……会わせて……ほしい……!」
身体中を襲う激痛に耐えながら、僕はそれだけをただ愚直に訴え続けた。
けれど、若いオオカミの攻撃に容赦なんて微塵もなかった。
視界が真っ赤に染まり、だんだんと意識が朦朧としてくる。
膝が笑い、僕はもう立っているのすらやっとの状態だった。
(あ……ダメだ……)
若いオオカミじっと僕に照準を定め、次の一撃で仕留めるべく、低く身をかがめて足を縮めている。飛びかかる直前の溜めの体勢だ。
(僕……ここで殺されるんだ)
先代の王様が言っていた。『ダメだ、と思った時点で負けなんだ』って。
だけど……今の僕には、自分に「大丈夫」って言える要素が何一つとして残っていなかった。
さすがに、もうダメかもしれない──。
死を覚悟し、朦朧とした意識のなかで視線を落とした時だった。
僕を狙っていた若いオオカミを含め、周囲を取り囲んでいた全てのオオカミたちの動きが、ピタリと止まった。
(……ん? 一体、どうしたんだろう……?)
静まり返った森の空気。
オオカミたちが恐怖と敬意の混ざった様子で耳を伏せ、道を開ける。
その静寂を切り裂くように、森の奥深くから重々しく低い声が響き渡った。
「うるせえなぁ……呼んでもいねえのに、最近いろんな奴が来やがる」
木々の影から、ゆっくりと歩み出てきたその姿。
全身に刻まれた無数の歴戦の傷跡、圧倒的な圧迫感、そして本物の王者にしか纏えない冷徹な貫禄。
間違いない……!
(……ハイドだ……)
「あなたが……ハイド……? 僕は……氷の国の……スノ……ウ……」
そこまで言ったところで、僕の緊張の糸はぷつりと切れ、視界が真っ暗になった。
……どれくらい時間が経ったのだろう。
「……ん……」
痛む体をかばいながら目を開けると、そこは冷たい岩肌に囲まれた洞窟の中だった。
目を覚ました僕の顔を、何頭ものオオカミたちが無言で覗き込んでいる。僕が起き上がったのを確認すると、そのうちの一頭が洞窟の奥へと走っていった。ハイドに知らせに行ったんだ。
やがて、重厚な足音が洞窟内に響き渡り、ハイドがゆっくりと歩み寄ってきた。
「シドと戦って死なないとは、お前はただの犬じゃなさそうだな。……まずは話を聞こうか。ただ、話の内容によってはお前をこの場で殺す」
ただならぬ殺気に息をのむ。
話を聞いてくれる姿勢は見せてくれたけれど、これは一筋縄ではいきそうにない。だけど僕には後がないんだ。今、スイを助けるために頼れるのは、このオオカミたちしかいない。
僕は覚悟を決め、これまでに起きた出来事を嘘偽りなく、正直にすべて話した。
水の国と火の国が不自然に併合してしまったこと。
火の国の王ヴァルガが押し入ってきて、氷の国の女王スイを強引に連れ去ってしまったこと。
そして僕が立ち向かったけれど、覚醒したヴァルガの圧倒的な力の前に敗れてしまったこと──。
僕の話を静かに聞いていたハイドは、低く鼻を鳴らした。
「ほう、それで?」
僕は自分の胸に手を当て、食い殺される覚悟を胸に、ハイドの目をまっすぐ見つめてお願いした。
「……力を、貸してほしい!」
静寂が洞窟を包み込む。ハイドの鋭い瞳が、僕の魂の奥底まで見透かすように射抜いてくる。
「では、ひとつ聞こう。ヴァルガを倒しスイを奪還できた場合──スノウ、お前は人間に飼いならされた犬ではなく、オオカミとして生きる覚悟はあるか?」
言葉に詰まりそうな重い問いかけだった。人間とともに生きる生活を捨て、誇り高きオオカミとして生きろ、と彼は言っているのだから。
けれど、僕の答えは最初から決まっていた。
「ハイドがそれを望むのであれば、それに従います。スイを助け出せるなら、僕はなんだってします!」
僕の迷いのない答えを聞くと、ハイドの口元がわずかに歪んだ。
「ふっ、大した覚悟だ。まあ仮にお前が一瞬でも躊躇していたら、その場で噛み殺していたがな」
背筋に冷や冷やとした汗が流れる。ハイドの言葉は冗談じゃなく、本気だった。
「覚醒したヴァルガを見たことがあって生きている奴が、俺とシド以外にいたとはな。……明日からシドのグループに加わり、行動を共にしろ。いいか、シド!」
「承知しました、ハイド」
物陰から進み出てきたのは、さっき森の中で僕と死闘を繰り広げたあの若いオオカミだった。
「狩りで足手まといになるようだったら、お前も狩られる側になるから覚悟しておけよ」
シドは僕を見下ろし、冷たく言い放った。
(シドって……僕と戦ったあのオオカミのことだったんだ)
どうやらハイドがこの森を統率する絶対的なボスで、シドは若くして群れを率いるナンバー2の中ボスらしい。
「お前は今日ここで寝ろ。明日の早朝に狩りに出る。今日のケガを言い訳にするなよ」
「はい、シド! よろしくお願いします!」
僕には一刻の猶予もない。
全身の傷は痛むけれど、とにかく今は体を休めて明日の厳しい訓練と狩りに備えなければ。
冷たい洞窟の隅で丸くなりながら、僕は遠い火の国にいるスイの姿を思い浮かべた。
待っていて、スイ。僕はどんな試練だって乗り越えて、強くなってみせるから。
僕は深く息を吐き出し、オオカミたちの気配に包まれながら静かに眠りについた。
(第5部・完)
次回の更新は8月26日17:20です




