第 3 部:凍てつく意志と決意の灯
胸の奥を刺すような激痛とともに、僕は目を覚ました。
「スノウ! 意識が戻ったか!」
駆け寄ってくる家臣の声すらどこか遠く感じられるほど、僕の意識はあの最悪の瞬間へと一気に引き戻される。
スイが……僕の目の前で、あのヴァルガに連れ去られてしまったんだ。
僕らは身分の差なんてなくて、ただのパートナーとして、ずっと対等な目線で寄り添ってきた。だからこそ、彼女がどれだけの覚悟をもってあの男の手を取ったのか、痛いほどよく分かる。
身体の痛みを忘れるように弾かれたように起き上がると、城の広間から割れんばかりの怒号と怒鳴り声が響いていた。慌てて覗き込むと、街の人々と家臣たちが互いに胸ぐらを掴み合わんばかりに揉めている。
「スイ様が連れ去られたんだぞ! 兵を出さないでどうするんだ!」
「そうはいっても、我が国には他国と戦えるような軍隊なんて……!」
街の若者たちは、農具や手製の刃物を握りしめて『スイ奪還隊』なんて即席の兵隊を結成し、今すぐにでも火の国へ乗り込もうと息巻いていた。
対する家臣たちは、ただ顔を蒼白にしてオロオロと右往左往するばかりだ。
みんな、スイのことが大好きで、どうしようもなく心配なんだ。その気持ちは痛いほどよく分かる。だけど──
(ダメだ……こんな勢いだけで行っても、みんな傷つくだけだ……!)
そもそも、この氷の国にはまともな軍隊なんて存在しない。城門の管理や、オオカミの森を通る貿易馬車の護衛にあたる最低限の警備兵がいるだけで、他国を攻撃するような自衛の兵力すら持ち合わせていないんだ。
でも、それはこの国が平和ボケしていたからじゃない。他でもないスイが王位に就いたとき、一番こだわって決めたルールだったからだ。
『誰かを傷つけたり、私を守るために誰かが犠牲になることは絶対に許しません。皆がそれぞれの幸せのために生きるべきです。……もし他国に攻め込まれるようなことがあれば、私が先頭に立ちます』
あの澄んだ瞳で、まっすぐに僕らを見つめて言い切っていたスイの姿が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
スイは言葉通り、民や僕を守るために、自ら犠牲になって火の国へ連れ去られてしまった。彼女のその優しさと強さを、僕は一番近くで知っていたはずなのに……守れなかった悔しさが胸を締め付ける。
「みんな、やめるんだ!!」
喉を焼き切るような声で叫ぶと、広間の騒然とした空気が一瞬で静まり返った。全員の視線が、負傷してボロボロな僕に集まる。
「気持ちは痛いほどわかる! でも、ただ飛び出していっても全滅するだけだ!」
僕らの住む氷の国は、少し特殊な地理に守られている。一年の半分以上が深い雪と氷に閉ざされていて、その手前にはあの『オオカミの森』が大きく立ちはだかっているんだ。
あの森を抜けるには、火の国みたいに圧倒的に強い兵士を揃えるか、あらかじめ何頭もの家畜をオオカミたちに献上して道を開けてもらう覚悟がないと絶対に不可能だ。
丸腰の人間が馬に乗って入ろうものなら、あっという間に馬が全滅しちゃう。
この雪深い気候と、獰猛な群れ。これこそが氷の国を外敵から守ってきた『天然の要塞』だった。だけど……スイを取り戻しに行こうとする今の僕たちにとっては、それがそのまま、あまりにも絶望的な壁になって立ち塞がってしまう。
「とにかく、喧嘩をやめて城の広場に集まってくれ。……これからのことを話そう」
静まり返った人々にそう頼み込むと、僕は深く息を吐き出した。熱くなった頭を冷やすように、氷の国の冷たい風が肌を刺す。
広場には、本当にたくさんの人が集まってくれた。
でも、僕は一つだけ強くお願いをしておいたんだ。子供たちだけは、絶対にこの場に来させないでほしい、と。
スイは火の国へ連れ去られる直前、泣き出しそうな子供たちに向かって言っていた。
『大丈夫よ、すぐに帰ってくるからね』
……スイの、精いっぱいの嘘だった。
本当の理由なんて知ったら、子供たちはどれほど悲しむだろう。自分のために大好きな女王様が連れていかれてしまったと知ったら、どれだけ傷つくだろう。
だから僕たちは、そのスイの優しい嘘に最後まで付き合うことに決めたんだ。
「スイ様は……少しの間、遠くへお仕事に行かれただけだ。だからみんなで、笑顔でお帰りをお待ちしよう」
親たちはそう言って、子供たちを家に残して集まってくれた。
集まった大人の顔はみんな硬く、不安と焦りに満ちていた。そんなみんなの前に立ち、僕は深く、深く頭を下げた。
「……スイを守れなくて、本当にごめんなさい」
まずは、それしか言えなかった。それから、僕はこれまでの事の顛末をすべてみんなに説明した。
水の国と火の国が併合したという知らせが突然届いたこと。挨拶に来たのはアレンではなく、ヴァルガだけだったこと。そしてヴァルガはスイを嫁にすると宣言し、強引に連れ去ってしまったこと。
僕がそれを止めようとして戦闘になり、ヴァルガの剣に倒れてしまったこと──。
僕が話し終えると、広場には一気に動揺と怒りの声が広がった。
「アレン様は無事なのか!?」
「スイ様は……僕らを守るために自ら犠牲になったっていうのか……!?」
「ヴァルガとスイ様が釣り合うはずがないだろう!」
アレンは優しく高潔な人で、この国でもすごく慕われていた。彼の安否が分からないと知って、泣き出してしまう女の子も出てくるほどだった。
「みんな、静かに聞いてくれ!」
僕は声を張り上げた。
「まず、この国の全員で火の国と戦ったとしても、僕たちは絶対に勝てない。……これは悔しいけれど、絶対にひっくり返らない事実なんだ。それに、水の国の詳しい状況も今は分からない。アレンが無事かどうかも含めてね」
僕の言葉に、広場の空気はいっそう重く沈み込む。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
「黙って火の国の言いなりになれって言うのか!?」
絶望と苛立ちの混ざった声が次々と飛んでくる。そこで、僕は決めていた提案を口にした。
「ハイドに会いに行こうと思ってるんだ」
その瞬間、広場が大きくざわついた。
「ハイドって……あのオオカミの森のボスか!?」
「おいスノウ、人間は食わないって言うが、犬のお前は食われてしまうぞ!」
「そうだぞ、ハイドたちは先代の王様の時代から一貫して、人間との関わりを拒絶してきたんだぞ!」
みんなが止めるのも当然だった。オオカミたちは孤高の存在だ。他の生き物や、ましてや人間たちとなれ合ったりすることなんて、これまで一度もなかった。
「とにかく、僕に少しだけ時間をちょうだい。ハイドに会えるかは分からないけど、とにかく行ってみるよ」
僕はまっすぐにみんなを見つめ返した。
「……それで、もし1週間経っても僕が戻らなかったら……多分、もう僕はオオカミたちに食べられちゃってると思う」
「そん時は……どうするんだよ?」
肉屋のおじさんが、心配そうに、でも少し眉をひそめて尋ねてきた。
「……どうしよう……」
「「「考えてねぇのかよ!!!」」」
広場に、みんなからの大ツッコミが響き渡った。さっきまでの重苦しくて押しつぶされそうだった空気が、一瞬で弾け飛ぶ。
(あ……みんな、笑ってる)
その瞬間、みんなの顔に少しだけいつもの笑顔が戻ったんだ。やっぱりこの国の人たちは、怒ったり怯えたりしているより、笑っている方がずっといい。
「あ! そうだ、僕なんだかお腹空いちゃった! みんなでご飯食べようよ!」
僕がそう提案すると、みんな一斉に呆れ顔をしながらも、どこか嬉しそうに頷いてくれた。
みんなで集まって、一緒にご飯を食べる。これは、スイがよくやっていたことだ。国の記念日なんかには決まって城の中庭にみんなを招いて、大きなテーブルを囲んで美味しい料理を食べるんだ。
そもそも、この氷の国には貴族みたいな偉そうな人たちは一人もいない。みんなが対等で平等で、貧富の差なんてものも存在しない。決まっているのは、スイがこの国のリーダーだってことくらいだ。
本当はね、スイは「女王」なんて堅苦しい肩書きすら無くしたいって言っていたんだ。でも、さすがにそれだと他国と交渉する時に問題が出るからってことで、形式上の肩書きとしてだけ残した経緯がある。
だから街の人はみんな、スイのことを好きに呼んでいる。子供たちは「スイ姉さま」って呼ぶし、おじいちゃんやおばあちゃんたちは「スイちゃん」って呼ぶ。スイ自身も、そうやって名前で親しく呼んでもらえるのが一番嬉しいって言っていた。
この温かい空気こそが、スイがずっと大切に守ってきた「氷の国」なんだ。
温かいスープやパンを囲みながら、作戦会議が進むにつれて、みんなの目から迷いが消えていった。
この氷の国が、圧倒的な軍力を持つ火の国に対して唯一優っているもの。そして、あのヴァルガが喉から手が出るほど狙っているもの──それは紛れもなく、どれだけ温めても絶対に溶けない氷『氷晶石』だ。
(……なら、話は簡単だ。火の国に氷晶石を渡さなければいいんだ)
火の国は一年を通して季節が夏と盛夏しかない。黒炎石のおかげでどんなに裕福でも、あの氷晶石がなければ、盛夏の時期なんてとてもじゃないけれど暑すぎて人が過ごせる環境じゃないんだ。
氷晶石は熱では溶けないけれど、雨や水に当たれば少しずつ小さくなって削れていってしまう。だから火の国は、定期的に氷の国から氷晶石を買い取って補充し続けなきゃいけないってわけ。
「でもスノウ、もし仕返しに火の国から黒炎石の輸入を止められたらどうするんだ?」
誰かがそう不安そうに口にしたけれど、僕たちはそれだって織り込み済みだった。
蒸気機関を使った最新の暖房システムが止まったって、氷の国の城や民家には、どの家にも昔ながらの暖炉がちゃんと設置されている。
これは先代の王様が『もしもの有事の際、エネルギーを他国に依存しすぎないように』って、全戸への設置を義務付けてくれていたものなんだ。普段は子供たちのかくれんぼの隠れ場所にしか使われていなかったけれど、ついに日の目を見る時が来た。
燃料の薪だって、こんな時のために城の備蓄庫に山ほど積み上がっているし、氷の国の領土には至るところに丈夫な松林が生い茂っている。
昔、実際に暖炉を使っていた時代を知るおじいちゃんやおばあちゃんたちは、「わしらの出番じゃな!」なんて言って、すごく張り切って薪の割り方を若者たちに教え始めてくれた。
(攻めることは無理でも、守りを固めることなら僕たちにだってできる……!)
そう、次は『守り』の作戦だ。城門の補強はもちろん、街の周りにはいくつもの罠を仕掛けることにした。特に『雪の落とし穴』は強力だ。一面の銀世界に隠された深い穴なんて、上から一見しただけじゃ外の人間には絶対に見分けがつかない。
「スイ様は絶対に無事に帰ってくる」
みんながそう強く信じて、それぞれの役割に向かって動き出した。だって、こんな時にただじっと泣いているだけじゃ、心が沈んでいくだけだもんね。
(すごいな……この分だと、一週間もあれば国全体が守りに特化した完璧な要塞になりそうだ)
活気を取り戻した街の様子を見渡して、僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。みんなが国を守るために動き出してくれた。
──じゃあ、僕は僕のやるべきことをやろう。
「みんな、行ってくるね!」
僕は振り返り、集まってくれたみんなに向かって元気いっぱいに手を振った。重々しい城門をくぐり抜け、冷たい雪原を踏みしめて前へ進む。
目指すは、あの恐ろしいオオカミたちが潜む『オオカミの森』。スイを取り戻すための、僕だけの最初の戦いが始まろうとしていた。
(第3部・完)




