第 2 部:囚われの姫と鉄の城
「ずいぶんと物分かりが良いではないか、スイ姫」
馬上でヴァルガが嘲笑うように言った。私は応えず、ただ前だけを見据えて歩き続けた。ここで私が取り乱せば、火の国の兵士たちは躊躇なく氷の国の民に刃を向けるだろう。
ヴァルガをはじめ、火の国の兵士たちは人に刃を向けることを何とも思っていないのだ。ヴァルガに至っては、戦いを求めるがあまり、凄惨な戦火の只中でさえ不気味な笑みを浮かべるのだという。
──私には、理解できない。斬られた者にだって、帰りを待つ温かい家族がいるというのに。
けれど、その命を軽んじる非情さこそが、彼らを「最強の軍勢」たらしめ、戦において無敗を誇っている理由でもあった。
私が静かに従うことだけが、みんなの命を守る唯一の盾だった。
一行が向かったのは、氷の国と火の国の境界に広がる『オオカミの森』だった。
一年中、不気味な遠吠えが響き渡り、人間を安易に寄せ付けないと恐れられる深い森。彼らは非常に縄張り意識が強く、人間を襲って食べるような真似はしないものの、家畜や馬は彼らにとって格好の標的だ。氷の国でも、貿易のための馬車が何度も彼らに襲撃されている。
だが──オオカミたちは、単なる凶暴な野獣というわけではない。
以前、貿易のために城門を開けていた際、門番の目をかいくぐって街の子供が森へ迷い込んでしまったことがあった。国中が大騒ぎになったのだが、なんとオオカミが傷ひとつない子供をそっと咥えて城門まで送り届けてくれたのだ。
『人間は食べない』
それが、彼らなりの仁義なのだろう。
そんなオオカミたちを率いるボス──『ハイド』が、森の奥から静かに姿を現した。
ハイドは私の父の代からずっと森のオオカミたちを束ねている主であり、その全身に刻まれた無数の傷跡が、彼が潜り抜けてきた熾烈な戦いの歴史を物語っていた。
ヴァルガとハイド。実は、このふたりは過去に一度戦ったことがあるのだという。ハイドの右足に残る大きな傷跡は、かつてヴァルガの剣によって切り裂かれたもの。そして、ヴァルガの赤い鎧の下にもまた、ハイドの鋭い爪痕が深く残っているのだ。
「……今日は森が騒がしいと思ったらお前か、ヴァルガ。なんだ、今度は人さらいか?」
ハイドが低く地響きのような声で鼻を鳴らす。
「人さらいとは随分だな、ハイド。平和的な三国の併合のためだ」
「どの口が平和など口にできるのか? 人間の政治とやらには興味がないが、そちらの嬢ちゃんは浮かない顔をしてるな」
「なぁに、いずれ我が妻となる女だ。今は緊張しているだけだ」
「ふっ、そうは見えんがな」
互いに一歩も引かず、刺々しい皮肉をぶつけ合う。森の空気が張り詰め、緊張感が一気に跳ね上がった。
「ハイド、これ以上邪魔をするなら、また一戦交えるか? 過去に勝負はついているがな」
ヴァルガが不気味な笑みを浮かべながら、腰の剣に手をかける。ハイドは鋭い眼光でヴァルガをひと睨みすると、短く鼻を鳴らした。
「ふっ……つくづく嫌な野郎だ」
そう吐き捨てると、ハイドは森の奥へと続く道を静かにあけた。
私は息をのんで、藁にもすがる思いでハイドの瞳を見つめた。
(お願い……たすけて……)
言葉にならない悲鳴を心の中で叫んだ。
けれど、ハイドは私に見向きもせず、ただ冷たく通り過ぎていく。そうだ……彼は野生のオオカミ。人間の言葉を解し、私に寄り添ってくれるスノウとは違うのだ。
一瞬の希望すら打ち砕かれ、私の足取りはさらに重くなった。もしスノウがここにいたら……。傷ついたスノウの体を思い出し、胸が締め付けられるような痛みに襲われる。
(どうか生きていて……お願いだから、無事でいて……)
オオカミの森を抜けると、空気は一変した。
澄み切っていた氷の国の風は姿を消し、肌を刺すような蒸し暑さと、黒炎石を燃やした嫌な煙の匂いが立ち込めてくる。
そこにそびえ立っていたのは、黒い鉄と石で築かれた巨大な要塞──火の国の城だった。
城へと続く大通りを進むと、火の国の民たちが皆、道路の両脇に整然と並び、行軍するヴァルガに対して静かに頭を垂れていた。
(……これは、一体……?)
整えられた街並みや身なりを見る限り、火の国の民が特別貧しいようには見えない。むしろ黒炎石の富のおかげで、食べるものにも住む場所にも不自由のない生活を送っているように見える。
なのに、私の胸の中に拭い去れない奇妙な異物感が広がる。この、鳥肌が立つような違和感は何だろう?
周囲を観察していた私は、ハッと息をのんだ。
……全員だ。頭を垂れる大人も、その隣に立つ者も、誰一人として表情がない。まるで心や感情を失ってしまったかのように、ただ機械的にそこに立っている。笑顔も、畏怖の念すらも浮かべない無機質な瞳。
その時だった。無邪気な子供が一人、民の列からふいに飛び出し、ヴァルガの隊列の目の前に出てしまった。
──カシャン!
次の瞬間、先頭を歩いていた兵士が、迷うことなく腰の剣を引き抜いた。相手が小さな子供であることなど、微塵も考慮していない無感情な動作。
「危ない!」
身体が勝手に動いていた。私は反射的に飛び出し、子供の元へ駆け寄ってその小さな身体を抱きかかえ、兵士を強く見据えた。
「子供に対して剣を抜くとは何事ですか! 恥を知りなさい!!」
怒りで震える声で叫んだ私に対し、抜刀した兵士は動じる様子もなく、ただ淡々と剣を鞘へと収めた。まるで障害物を排除しようとしただけの作業だったかのように。
私が何より衝撃を受けたのは、兵士の態度だけではない。
すぐ道端にいた民たち──自分の子供かもしれないその光景を目撃した大人たちさえも、顔色一つ変えずにただ静観していたのだ。悲鳴も、安堵の溜息も、怒りの声すらも上がらない。静まり返った街に、黒炎石を燃やす機械の駆動音だけが虚しく響いていた。
私はその光景に、胸を強く打ち据えられたようなショックを受けた。
富を受け取り、争いに勝ち続け、不自由のない暮らしをしているはずの国。これが……ヴァルガの言う「富を分かち合い、豊かにすることが国民の幸せ」だというの……?
(……火の国の民は、みんな本当に幸せなの……?)
絶望的な答えのない問いが、重く私の心にのしかかった。
城の奥深くへ連行された私は、昇降機に乗せられ、どんどん上へと運ばれていった。着いたのは、城の最上部にある塔の一室。
重々しい鉄の扉が開かれると、そこは豪華な絨毯や家具が仕立てられた部屋だった。けれど、窓には太い鉄格子が嵌められ、眼下には黒煙を吐き出す火の国の街並みが遠く広がるだけ。……紛れもない、手厚く優遇された「牢獄」だった。
「ここで大人しく過ごしてもらう。じきに我が妻となるのだ、不自由はさせん」
ヴァルガはそう言い捨てると、鉄の扉を重々しく閉ざした。ガチャン、と外から鍵がかけられる音が虚しく響く。
静まり返った部屋で、私はひとり、部屋の隅にある椅子に深く腰掛けた。怖くなかったと言えば嘘になる。だけど、私は氷の国の女王だ。民のために、ここで折れるわけにはいかない。
その時、部屋の脇にある控室の扉が静かに開き、ひとりの侍女が入ってきた。
黒い整った髪に、隙のない侍女服。手に温かいお茶のトレーを乗せた彼女は、私に向かって静かに頭を下げた。
「……スイ様。お召し上がりください」
その声には、一切の感情がこもっていなかった。まるで精密に作られた人形のように無表情で、その瞳は透き通っているのに、どこか冷たく、光を拒んでいるように見える。
本当は凄く美人なのだろうけれど、その顔には生気や感情といったものが一切見当たらない。
「……ありがとうございます。あなたは?」
「私はエマ。ヴァルガ様より、スイ様のお世話を言いつかりました。何かありましたら、何なりとお申し付けください」
エマと名乗った彼女は、淡々と作業をこなす。お茶を注ぐ手元にも、私と視線の高さを合わせようとする素振りすら見せない。街で出会った民たちと同じく、氷の国で出会ってきた温かく感情豊かな人たちとはあまりにも対照的だった。
「エマさん。……水の国のアレン様がどうされているか、何か知っていますか?」
藁にもすがる思いで尋ねてみた。すると、エマの指先が一瞬だけピクリと止まり、その瞳の奥がほんのわずかに揺れた気がした。
(……今、動揺した……?)
私はその微小な素振りを見逃さなかった。けれどエマはすぐにいつもの無表情に戻り、冷ややかな声で短く答えただけだった。
「……お答えできる立場にございません。スイ様は余計なことをお考えにならず、お体をお休めされるのがよろしいかと」
そう言い残すと、エマは一礼し、機械のような無駄のない動作で部屋を出ていってしまった。
再び訪れた静寂の中、私は冷めゆくお茶を見つめた。敵地の渦中、冷酷な王と、心の読めない無表情な侍女。
(……でも、私は絶対に諦めない)
あのほんの少しの破調に、何か希望の手がかりがあるかもしれない。私はドレスのポケットの中で、固く拳を握りしめた。
(第2部・完)




