第44話:神、全知を拒む「黒い雫(バグ)」に戦慄する
宿の浴衣を無造作に羽織り、吾輩は独り夜の街へと滑り出した。
温泉街の夜風は涼しく、本来なら湯上がりの火照った身体には
心地よいはずだが、吾輩の背筋を撫でるのは不吉な悪寒だ。
深夜、静寂に包まれたはずの裏路地の奥から、不自然なほどに
押し殺した、ただならぬ人の気配が漂ってくる。
「ふむ。こんな時間に、随分と熱心なことだ。
観光客の夜遊びにしては、少々空気が張り詰めすぎているな。
……。あの男たちの様子、ただの密会ではあるまい」
吾輩は気配を消し、崩れかけた石壁の陰から様子を伺った。
そこには、地元の男と思われる人物と、外套を深く被った
商人風の男が、互いの顔を隠すように立っていた。
商人が懐から取り出した小さな瓶。それを見た地元の男の
目が、飢えた獣のようにギラついたのを吾輩は見逃さない。
男は震える手で、ずっしりと重たげな革袋を商人に差し出した。
中身は金貨だろうか。商人はそれを手際よく受け取ると、
代わりに怪しげな光沢を放つ小瓶を男に手渡した。
……。この切迫した空気、間違いなく良からぬ物の密売だ。
「ほう。あのような不気味な雰囲気で取引される品か。
まともな代物であるはずがないな。……。よし。
正体を暴かせてもらおうか。……。解析開始」
吾輩は精神を集中し、小瓶の中に詰められた流体の
データ構造を読み取ろうとした。……。だが。
次の瞬間、吾輩の脳内に響いたのは、乾いたエラー音だった。
「何だと!? 読み取れぬだと? そんな馬鹿な!
吾輩はこの世界の管理者だぞ! 全知の眼を以てしても、
中身の構成が一切不明だと? まさか、この世界の仕様外から
持ち込まれたバグなのか!」
驚愕に吾輩の思考が一時停止する。世界の理の外から
持ち込まれた何かが、この平和な温泉街で取引されている。
解析できぬなら、直接手に入れるまでだ。吾輩は取引を終えて
立ち去ろうとした商人の前に、堂々と姿を現した。
「おい、商人。その取引、吾輩にも混ぜてもらおうか。
その小瓶、吾輩にも一本、譲ってはくれぬか?」
商人はびくりと肩を震わせ、外套の奥から蛇のような
冷たい視線を吾輩に投げかけた。
「貴様、何者だ。誰の紹介でここへ来た。
この時間の裏路地に、浴衣姿で現れるなど、怪しい奴め。
消えろ。さもなくば……」
商人の手が、懐のナイフに伸びる。だがそれよりも、
小瓶から漏れ出す、あの正体不明のどろりとした波動が、
吾輩の神としての本能を激しく警告していた。
吾輩は神である。
そして、今日からはこの世界のルールであり――
自らの全知を拒絶する「暗黒のバグ」を前に、
浴衣一丁で路地裏の修羅場に足を踏み入れる、
最高に危機的な状況の創造主である。




