第10話 「英雄は死んだ」と言い張る無精髭の男
カレンの急襲があった日から三日目の昼下がり。偏食が限界に達したオルソンは、ついに一歩を踏み出す決意をした。
シリンダーの膨張を修復し、ドアチェーンをかけたまま鍵を解錠、ドアをわずか三センチだけ開ける。隙間から見えたのは、目の下に濃い隈を作りながらも、青い眼光を鋭く輝かせるカレンの壮絶な顔だった。彼女は疲れ果てているはずなのに、その瞳には執念のような光が宿っている。
「オルソン様!」
「だから人違いだと言っているだろ。俺の名前は……そうだ、ノス……ではなく『オース』だ。ただの無精髭のおっさんだ」
「どれだけしらばっくれても無駄です! そのヨレヨレの部屋着、手入れの行き届いた指先、手加減なしの防犯技術、そして私を軽くあしらう身こなし……間違いなく世界を救ったSSS級冒険者オルソン様です! その佇まいは隠せません!」
色々とツッコミどころの多い内容だと思いつつオルソンは深々と溜息をつき、光の失われた死んだような目でカレンを見つめた。
「仮にだ。仮に俺がそのオルソンだったとして、今の俺に何が期待できる? 見てみろ、昼過ぎまで寝こけて、酒と干し肉で胃を痛めているただの敗残者だ。昔の面影なんてどこにもないだろ。英雄なんてものはな、都合よく作られた民衆の幻想の中にしか存在しないんだよ」
「そんなことはありません! あなたは私の、そして窮地に陥った人類すべての光です!」
「光はすでに消えた。彼はもう誰の期待も背負わないし、誰のケツも拭かない。過労で倒れる前に辞職したんだ。英雄とは何の関係もない俺は、この四畳半の布団と永遠の愛を誓って結婚したんだよ。頼むから現実を見て帰ってくれ」
「け、結婚……!? 冗談でもそのような軽薄な発言は許されません! 聖騎士団の長として、そのような堕落した婚姻関係は認められません!」
顔を真っ赤にして抗議するカレンに対し、オルソンは冷酷にドアを閉めようとした。
「なら諦めて帰れ。俺は新婚生活で忙しいんだ」
「待ってください! ならば提案があります! あなたが王都に戻り、再び陣頭指揮を執ってくださるなら……」
カレンは一瞬言葉を詰まらせ、耳まで赤くしながら甲冑の胸元を力強く握りしめた。
「わたしが……その……あなたの正式な婚姻相手として、生涯をかけてお仕えします! 四畳半の布団などより、私の方がよほど役に立つはずです!」
「……は?」
斜め上すぎる代償を提示され、オルソンは思わず扉を閉める手を止めた。真面目すぎるがゆえに明らかな迷走を始めた元部下の、決意に満ちた眼差しを受け部屋の中にいた元英雄の胃は、本日一番の激痛を訴え始めるのだった。




