1-7. ニコラス案件
ボールの位置を確かめるように、足の裏でボールを転がす。ウィーバーは慎重にぼくとの距離を測っている。
感触は悪くない。ぼくは、躊躇せずウィーバーの間合いに入る。ここからは、一瞬の勝負になる。
細かくボディフェイントを入れるが、熟練のセンターバックは動じない。やや後ろ重心の態勢を保ったまま、細かく体の向きを調整している。相手のサイドバックが猛スピードで帰陣してくる気配を感じた。
――カットインは警戒されてるか……。
ウィーバーはやや縦を開け、利き足とは反対側のドリブルを誘導している。
それでも、行く。縦方向に素早く跨ぎを入れると、ややウィーバーのステップが乱れる。
――今!
低い体勢から、相手の懐に入り込むように右足のアウトサイドでボールをずらす。その瞬間、餌にかかった獲物に襲い掛かるように、ウィーバーの右足がボールに伸びた。
いや、伸びようとした。巨体が切り返しに反応したタイミングを見切り、ぼくはもう一度深く切り返す。
視界からウィーバーが消える。完全に逆を突いた。
芝生を蹴り、縦方向に一気に加速する。脳から快楽物質が一気に放出される。ゴール前のフォワードの位置は……
しかし、刹那、ぼくの体は宙に浮いていた。ボールが、足元にない。そのかわり、足元には固い腓腹筋が鎖鎌のように滑り込んでいた。大きくバランスを崩し、地面にたたきつけられる。
――何が起こった……?
「ちっ、コーナーキックか。フータ、なかなか悪くない切り返しだ」
グラウンドに横たわり唖然とするぼくの前に、黒い手が差し出される。その手を握ると、すごい力で引き上げられ、ぼくは大根が引き抜かれるように一気に立ち上がらせられた。ウィーバーはすぐにゴール前に戻り、味方にコーナーキックのポジショニングを指示する。相変わらず男らしい笑顔を見せるウィーバーが、出会った時よりずっと大きく見えた。
「反則だろ……」
ぼくは、思わずそう呟いた。完全に逆を突いていたし、感覚的には完全に振り切れるタイミングだった。しかし、足が伸びてくる。
これが、元ドイツ代表。これが、世界……。
――――――
Bチームの左サイドにボールが渡る。ピッチサイドに設けられた観客席から見ていると、ボールの流れがよくわかる。Bチームの攻撃は基本的に高藤選手を経由して始まる。高藤選手は、意識的に風太にボールを配球しているようで、左サイドによくボールが集まる。
風太は果敢にドリブルを仕掛ける。内側にフォローに入ったサイドバックを囮に、アウトサイドでパスを出すモーションからエラシコで一気に加速。彼のドリブルには、独特のリズムがある。ウィーバーは、一瞬対応が遅れる。
しかし、そこから抜ききることができない。身体をぶつけられ、大きくバランスを崩すと、かろうじてボールをキープし、フォローに入ったサイドバックにパスを戻す。
「さすがに、元ドイツ代表は伊達じゃないな」
父は、他人事のようにそう言ってにやにやと笑った。
「暢気なものですね。自分が移籍を斡旋した選手が苦戦しているのですよ?」
「たしかに、今のところドリブル成功数は0だな」
リターンパスを受けたサイドバックは、戻ってきた敵方のサイドバックをいなすようにもう一度風太にボールを預け、タッチライン際を駆け上がる。風太はセンターバックを背負い、倒れながらもダイレクトでボールをはたく。絶妙なスルーパスがペナルティエリアとゴールラインの交点に転がった。
「だが、あの左サイドバック――マルティンとのコンビネーションでチャンスは作れている。評価はそこまで悪くないと思うがな……」
たしかに、Aチームのゴール前の強固な守備もあり得点にはつながっていないものの、左サイドバックの選手とは息があったコンビネーションで何度かサイドを攻略している。ここからでも分かる風太の焦り切った表情とは裏腹に、チャンスには関与できているのだ。
マルティンのクロスはゴールキーパーとディフェンスラインの間のきわどいスペースに転がるが、またも間一髪でセンターバックがクリアする。バックラインにレギュラークラスを揃えたAチームは、やはり守備が固い。特に、センターバックの2人の活躍は目立つ。
「今のクロスもダンソがクリアしましたね」
「ああ。サイズと機動力を兼ね備えたまさに現代型センターバック……。純粋なディフェンス能力だけでいうと、ウィーバーを超えているかもしれないな」
ウィーバーの相方のセンターバックを務めるダンソは、オーストリア代表の若手選手だ。父が言うには、高藤選手、ウィーバーを含むヒーツの「4人の絶対的中心」の一人だという。この二人のセンターバックの連携を攻略するのは、なかなか難易度が高そうだ。
しかし、試合が動いたのは、私がそんなことを考えていたまさにその瞬間だった。
蹴りだされたボールは、ペナルティアーク前のバイタルエリアやや後ろに上がった。そこに、Bチームの右サイドハーフが反応する。彼は、美しい金色の長髪をたてがみのように靡かせ、ゆっくりとボールの落下地点に走る。ワインレッドのチームシャツに身を包んだ男の姿は、どこか高貴さすら感じさせる。彼は、その美しい相貌を風太のいる左サイドに向け、にこりと笑った。
ゴール前にはコーナーキックの流れで味方センターバックも攻め上がっている。風太につなぎ、もう一度センタリングを上げて空中戦。私は、そのアイコンタクトから、そんな展開を予想した。
しかし、そんな悠長な打開など、彼には必要なかった。ボールが地面に落ちるその瞬間、地雷が爆発するような鈍い音が練習場に響いた。ダイレクトでボールを振りぬいた男の美しいフォロースルーに誰もが見とれる中、ボールは空気を切り裂く。
キーパーは一歩も動けない。
20メートル越えの強烈なミドルシュートが、ゴールに突き刺さった。
一瞬の静寂の後、Bチームの面々は興奮気味にスコアラーのもとに集まる。彼は両手を大きく広げ、目を閉じて、その祝福を全身で楽しんでいた。
ワンプレーですべてを変えてしまう強烈な“個”。彼こそが、「4人の絶対的中心」の最後の一人。
「ロレンツォ・ジュリアーノ……。イタリアで最も将来を嘱望される男……」
父の瞳は、興奮のあまり震えて見えた。U-23イタリア代表・ジュリアーノが決めたゴールは、それほどのゴラッソだった。
――――――
「結局、ドリブル突破は0ですか……」
「スーパードリブラーってのは、ちょっと言い過ぎたかな」
そう口にした父の顔は、しかしさほど暗くはなかった。そして、それは私も同様だった。
「でも、やっぱりあいつは特別なものを持ってる。俺は確信した」
グラウンドでは、クールダウンのランニングが行われている。おそらく今日の自分のプレーに満足していないのだろう。風太は、浮かない顔で列の最後尾を走っている。
「足元の技術がうまいやつなんていくらでもいる。ただ、あの柔らかいボールタッチ。あれは天性のものだ」
そう、風太がボールに触れた瞬間、空気が変わる。ボールを蹴るでも、転がすでもない。ありきたりな表現だが、まるで体の一部のようにボールが足元に吸い付く。異様なまでの、ボールタッチの“質”。ウィーバーはそれを察知し、他のプレイヤーに対峙するときとは、明らかに異なる間合いで風太へのディフェンスを行っていた。一歩でも対応を誤ると簡単に抜き去られてしまう。そんな緊張感が、その間合いからは感じられた。
「あれだけウィーバーを警戒させただけでもたいしたもんだ。あの男を単騎で突破できるプレイヤーなんて、ヨーロッパを探してもほとんどいない」
父は、「ジュリアーノはできるかもしれないが……」と付け加える。
明らかに落ち込んでいる様子の風太を見て、私は少し心配になった。
「気落ちしすぎていないと良いのですが」
「まあ、風太はああ見えて案外図太いところもある。大丈夫だとは思うが、しっかりサポートしてやってくれよ」
「……わかりました」
正直、他人のメンタルケアは苦手だが、仕方ない。私だって、この貴重な機会を失うわけにはいかないのだから。
「しかし心配なのは……現場が風太をどんな風に起用するかだな……」
「起用、ですか? マシューSDは期待しているとおっしゃっていましたが」
父は神妙な面持ちで声を潜める。その視線の先には、ピッチの横で話し込むニコラス監督とマシューSDの背中があった。
「……これは風太には言うんじゃないぞ」
父は、そう言って声を潜めた。
「風太は、“ニコラス案件”じゃないんだ」
聞きなれない言葉だった。
「ニコラス案件?」
「ああ。風太は、おれがマシューに売り込んで移籍を成立させた。だが、ニコはこの移籍に難色を示していたんだ」
「まさか……」
当然だが、昨日の契約の席でニコラス監督は全くそんな素振りは見せなかった。少し、心臓の鼓動が速くなる。エディンバラの冷涼な風が、汗の滲む額から温度を奪った。
「ニコは選手を贔屓したりする男じゃない。だが、彼も人間だ。大きな差がなければ、当然ニコ自身が移籍に関わった“ニコラス案件”の選手が起用される。だからこそ、風太はニコラスという男に信頼されなくちゃいけない」
私は、昨日のニコラス監督の朗らかな笑顔を思い出した。何の気ない、柔和な笑顔だった。
「それこそ、あの4人のように、絶対的に」




