1-8. スランプ
「ああ……終わった……終わった……」
「ど、どうしたんだよ」
多くのプロサッカーチームでは、試合がない日は午前中に練習が行われ、その後カフェテラスで昼食をとる。それは、ここヒーツでも同じだ。食事は栄養価の高い料理がバイキング形式で提供され、その他にはリカバリードリンクなども提供される。
シーズン開幕まであと数週間となり、練習強度も次第に上がっている。しっかりと食事をとることは、回復を促進し怪我を防ぐうえで最も重要なことだ。しかし、同じテーブルの少年は、うなだれたまま食事に手を付けようとしない。覇気のない表情で、ネガティブな言葉をひとり呪詛のように唱え続けている。
一応尋ねてはみたものの、その理由は明らかだった。
「す、スランプだ。完全にスランプだ……」
そう、チームに合流してから約2週間、風太は完全にスランプに陥っていたのだった。パススピードや練習強度には次第に適応してきているものの、本来の武器である(そうギルバートさんが言っていた)ドリブルが、どうも冴えない。スコットランドの選手のフィジカルや手足の長さに苦戦しているのか、1対1になった時にどうしてもDFを抜ききることができないのだ。
「ウィーバーだけじゃなくほかのDFも抜けないし、もう終わりだ……。おめおめ日本に帰ってまた炎上の火の海に焼かれるしかないんだ……」
「そ、そうネガティブになるなよ。俺だって1年目は苦戦したんだぜ」
しかし、その言葉は逆効果だった。風太は、さらに拗ねてしまう。
「嘘つかないでください。1年目からレギュラーで7ゴールくらいとってたくせに……。日本でもちゃんと報道されてたんですからね……」
「い、いや、それでも俺なりには苦労してたんだよ」
まあ、確かに開幕からレギュラーで出してもらっていたし、そこそこゴールには絡んでいたが、苦労していたのは本当だ。「世界一難しい英語」ともいわれるスコットランド特有のアクセントや単語は慣れるのには時間がかかったし、初めての海外挑戦で食事でも試行錯誤していた。チームメイトとのコミュニケーションが改善し、本調子と言えるパフォーマンスが戻ったのは、シーズン最終盤のことだった。
「まあ、俺はドリブルのことはそこまでわからないが、トレーニングや食事のことはアドバイスできる。わからないことがあれば何でも聞いてくれよ」
「あ、ありがとうございます」
風太の顔は晴れない。何とか助けになってやりたいが、正直俺は展開力で勝負するタイプで、風太のように1対1で突破を図るドリブルは苦手だ。
「そうだ、このあともう少し自主練していくか? ドリブルの相手くらいはしてやるよ」
「あ、ありがとうございます。ぜひお願いします……」
もちろん、俺のディフェンス能力なんてウィーバーとは比較にならないが、もし何か復調のきっかけをつかんでくれたら……
「ひぃぃっ!」
その時、風太が素っ頓狂な声を上げた。
「ど、どうしたんだ!?」
顔を上げると、まるで少女漫画の王子様のような美しい顔の青年が、椅子に座る風太を後ろから抱きすくめている。
「おっと、すまない。驚かせる気はなかったんだ」
「じゅ、ジュリアーノ! 何してるんだ!? 風太が硬直しちゃってるじゃないか!」
ジュリアーノは風太を腕から解放し、爽やかな笑みを湛えながら髪をかき上げた。滑らかなブロンドの金髪をかき上げるのは、彼のいつもの癖だ。キザなルーティンだが、イケメンってのは何かと得なもので、ジュリアーノの場合は様になる。一方、風太は引き続き驚きで硬直している。……狸みたいな習性だ。
「失敬、失敬。遠くから君たちが喋っているのが見えてね。ボクのフータは、今日もとってもかわいらしいね。ツヨシ、君もそう思わないかい?」
「あ、ああ。そうだな。ジュリアーノは風太ともう仲良くなったのか?」
「愚問だね」ジュリアーノはそう言って首を振った。目にかかる前髪がさらさらと揺れると、それだけでも絵になる。
「彼がボールに触れた瞬間分かったよ。ボクたちは分かり合えるってね。こんな風に思うことはめったにないんだ。これは運命さ」
ジュリアーノは風太の後ろ髪を指先で弄びながら語る。その表情は、どこか官能的だった。
「そ、そうだ。ジュリアーノは、風太のドリブルについてどう思う? 最近調子が上がらないみたいなんだが」
「そのことかい。うーん、そうだね」
ジュリアーノは少し考えこんだ。口に手を当てて目を閉じた姿は、まるでギリシャの彫像のような神々しさをまとっている。
風太とは異なるスタイルだが、この男はチーム随一のドリブラーだ。スピードに乗った縦への突破からの正確無比なセンタリングと、稀に見せる強烈なミドルシュート。これらの武器を活かして数多くの得点に関与してきた。まだフル代表でのプレー経験はないにもかかわらず、Instagramのフォロワーも500万人を超え、名実ともにチームの顔ともいえる存在だ。俺よりは何か風太にアドバイスできることもあるだろう。
「たしかに、今のフータのドリブルはひどいね。冷めたエスプレッソみたいなものさ。せっかくの才能が台無しだ」
イタリア人らしい、ストレートな表現。かろうじて前半部分は聞き取れたらしく、風太は絶句し、壊れたロボットのように震えている。
「何かアドバイスはないか? 俺はドリブルのことはあまりよくわからないんだが……」
ジュリアーノはやれやれというように鼻を鳴らした。
「いいかい、正しいドリブルっていうのは、リアクションなんだ。ディフェンダーのアクションに反応するのさ。でも、相手がどう出るか観察しようなんて考えていたらうまくいくわけがないんだ。もっと攻撃的にリアクションしなくちゃいけない」
「攻撃的にリアクション?」
俺は、うまく彼の言っていることが理解できなかった。おそらく、これは感覚の問題なのだろう。風太が英語ができていれば理解できたのかもしれないが……。
ジュリアーノは、首をかしげる俺と風太を見て言った。
「まあ、気落ちせず頑張っておくれよ。ボクからいえることは、自分の才能を信じればいいってことだけさ。そうすれば結果はついてくる」
風太はしきりにその言葉に頷いている。こいつ、たぶん聞き取れてないだろ……。
ジュリアーノの白魚のような細い指が、風太の首筋をなぞる。
「わっ、くすぐったいですって!」
そう言いながらも、風太はジュリアーノにされるがままになっている。
「ふふ、初心な反応だね。風太、もし本当に落ち込んだらボクの家に来るといい。ボクたちにしかわからないこの苦しみを、果てるまで慰め合おうじゃないか。最高の夜を約束するよ……」
……そこはかとない危険な空気を感じる。
風太を猫のように撫でまわすと、ジュリアーノは満足そうに笑い、人差し指と中指を立てて爽やかに去っていった。俺は唖然としてジュリアーノの後姿を見た。
「……いつの間にジュリアーノと仲良くなったんだ?」
「え、いや、そんなに仲良くなった記憶は……。いつも喋りかけてくるんですけど、何言ってるか分からないので適当に頷いてます」
ジュリアーノに手を振る風太は、きょとんとした表情を浮かべた。……あまりにも純粋な瞳をしている。
「そうか……。今後、あまり更衣室とかで一人にならない方がいいかもな……」
風太はいぶかしげな表情を見せたが、とりあえずといった様子で俺の言葉に頷いた。
い、一応、リサさんにも報告しておこう……。




