1-3. 砦の街
「すず……いや、ちょっと寒い?」
8時間のフライトで凝り固まった体を伸ばしながら、ぼくは思わずそう呟いた。
「当然です。緯度で言えば北海道よりずっと高いのですから」
リサさんは相変わらずの無表情だ。同じ時間の飛行機に乗っていたはずなのに、疲れた様子を一切見せない。タイトなスーツに身を包んだ彼女は、まさに鉄仮面という言葉が似合う。
「あ、そ、そですよね。すいません。へへ……」
リサさんの高圧的な言葉と威圧感に、ついへりくだってしまう。少しくすんだブロンドはショートカットに整えられ、ゲレンデのような鼻筋と碧眼の視線がぼくを射抜く。驚くほど綺麗な人に睨まれることが驚くほど恐ろしいということは、ここ数時間で学んだことだ。
そもそも、ただでさえ年上の人は苦手なのに、話すたびにギロリと睨みつけるのはやめてほしい。土井家では、小さいころから年長者を敬うように厳しく躾けられるのだ。父親にも敬語、母親にも敬語、兄にも敬語、祖父母にはもちろん敬語。そんな環境で育った僕が、年上の人に過度に遠慮してしまうことは仕方のないことだろう。中学生のころにユースの友人たちが先輩のことを「~くん」なんて読んでいるのは衝撃だった。あんなことをしたら、うちの父親ならまず間違いなく鉄拳が飛んでくる。
「あと、いいかげん敬語で話すのはやめてもらっても大丈夫ですよ。同い年なのですから」
「なぁぁぁぁぁぁーーーーんだぃ! だぃぃ! 同い年かい! 大人びすぎてて年上かと思ったわ! てかその感じで18や19なんかい! ハーフの年齢わかりづら! 同い年なら最初に言ってy」
「調子乗んな。殺しますよ」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
今日一鋭い眼光に、体中の毛穴という毛穴が収縮する。そのまなざしは、常闇の崖よりも暗く、死神の鎌よりも鋭利に光っていた。近くでスマホを片手に写真を撮って騒いでいた観光客らしい若者の集団も、水を打ったように押し黙って、そのうちの数人はぼくと同じように硬直して震えている。
「あ、悪魔だ……悪魔を見た……」
「失礼な。誰が悪魔ですか。少し睨まれたくらいで大袈裟ですよ」
「す、少し……? あれが少し……?」
――――――
同い年だった通訳さんの殺気に怯えながら入国審査ゲートを通過すると、茶髪の青年がぼくたちを見て手を振っていた。彼の首には暗い赤のハートがプリントされたプラカードがかかっていて、駅前の募金活動のスタッフのようにみえる。
「クラブから迎えが来ると言っていたので、おそらく職員の方でしょう」
リサさんはそう言って彼の方に歩み寄った。
「やあ、すぐに分かったよ。ぼくはロバート。フータ・ドイで間違いないかな」
「ええ、彼は土井風太。私は通訳のリサ・中田と申します」
「あ、ど、どうも。土井です」
ロバートは、会えてうれしいよ、というようなニュアンスの言葉を口にして、ぼくたちの手を順番に握った。
「あの、そ、それは……」
「ああ、これかい? これはうちのクラブのエンブレムのモチーフである“心臓”をイメージして作ったプラカードさ。エンブレムをそのまま書いちゃうと目立ちすぎるだろ?」
そう言うと、彼は黒縁の眼鏡の奥の柔和な目を細めて笑った。
「早速で悪いんだけど、クラブハウスに向かおうか。車は用意してある」
「あの、父も契約には同席するはずですが、ここには来ていないのですか?」
「父? ああ、ギルバート氏か」
ロバートはリサさんをまじまじと見つめた。
「ギルバート氏はすでにクラブハウスに到着しているよ。おおかた、うちのSD(※スポーツディレクター:チーム編成の最高責任者)と情報交換でもしてるんじゃないかな」
「……そうですか。ありがとうございます」
リサさんは丁寧にお礼を言って、小さく舌打ちした。怖い。ギルバートさんと仲良くないのだろうか。
「それにしても、ギルバート氏の娘さんか。正直、全く似ていないね。」
「光栄です」
リサさんはそう即答する。たしかに、彼女がクールでさっぱりした顔立ちなのに対して、ギルバートさんはとても顔が濃い。俳優の阿部ヒロキくらい顔面の圧がある。そもそもかなりヨーロッパよりの顔立ちにくらいブロンドヘアのリサさんと、まるで野武士のような髭面のギルバートさんが親子だとは、ぼくもいまだに信じられない。
「OK. 貴女が父親に厳しいということはよく理解できたよ。まあ、そのほかの話はクラブハウスでしようか」
ロバートは爽やかな笑顔を見せて、ぼくたちを車に案内した。
――――――
「クラブハウスがあるテーンカッスル・スタジアムまでは15分くらいさ。日本からの旅路と比べたら、一瞬みたいなものだろう?」
ロバートは窓枠に肘をついて、ビートルズを口ずさみながら軽快に車を走らせた。空港を出た道の両側には広大な農園が広がっていて、夏らしい青々とした草の匂いがした。木陰では、茶色い牛が横たわって草を食んでいる。日本の牛とは少し違って、毛が長くて山羊に似ている。広々とした草原に転々と建つ古い小屋と涼しい風。自分が海外に来ているんだという実感が、今になってじわじわ沸き起こってくる。
そしてそのたびに、キジバード岡山のファンの前で言ったことを思い出して、胃がキリキリ傷んだ。うう……なんであんなこと言ってしまったんだろう……。
しばらく農園の間の道を走っていると、次第に住宅が増えてきて、少しずつ街に近づいているようだった。遠くに、ポンプの蛇腹を横たえたような巨大な建造物が見えた。
「あ、あれ。スタジアムかな?」
「そのように見えますね。ロバート、テーンカッスル・スタジアムとは、あの建物ですか?」
「あれはうちのスタジアムじゃない。マレーフィールドスタジアムと言って、ラグビーのスタジアムさ」
彼は小さく”Jesus”と呟く。
「スコットランドでは、ラグビーとフットボールは別の信仰みたいなものだよ。そしてフットボールの中でも、グラスゴーとエディンバラじゃ信じる神が違う」
「神、ですか?」
「そう、覚えておくといい」
戸惑うぼくを見て、ロバートは楽しそうに笑った。
5分ほど走ると、途端に町の密度が上がった。石造りの住宅が道の両脇に迫り、空が狭くなる。古い建物の1階には様々な店のテナントが入り、人通りも多い。
「街の中心部に近づいてきた感じがしますね」
「ここまで来たら、もうすぐだよ」
信号で止まり、ロバートは窓を閉めた。当たり前だが、交差点を行き交う人々の中に日本人は見当たらない。まるで映画の中の世界に入ってきたようだった。
「日本じゃ、どのくらいの人がフットボールを好きなのかは知らないけど、ここを歩いている人たちはみんなフットボールのファンさ」
バックミラー越しに、ロバートと目が合った。
「フータがもしヒーツでゴールを決めたら、この通りの人達はみんな君の名前を叫ぶよ」
ぼくは、その光景を想像した。日本で聴いた、スタジアムの歓声を思い出しながら。
「逆に、ミスでもしようもんなら、しばらく町は歩けないと思った方がいいけどね」
「うう……嫌なこと言ってきた……」
「冗談だよ。ほら、そこを曲がれば、スタジアムさ」
古いアパートメントの影から、突如として巨大なスタジアムが現れた。
「こ、こんなところに……」
思わずリサさんの口からそんな言葉がこぼれる。ぼくも全く同じ気持ちだった。そのスタジアムは、完全に街と同化していた。住宅の隣、本当の意味での隣に、スタジアムの壁がそびえたつ。
「わかるかい? サッカーは、この街の“心臓”なのさ」
ロバートは、慣れた様子で車を停めた。スタジアムの正面は全面がガラス張りで、中央には、巨大なハートのエンブレムが掲げられている。
「ようこそ、ぼくたちの砦へ」
ぼくとリサさんの旅は、ここから、本当の意味で始まったのだった。




