1-2. 根腐れフットボーラー
「ああ……終わった……終わった……」
弱々しい声に、私は思わずため息をついた。
大画面のモニターに、広々としたシート。まるでホテルのスイートルームのような内装。通路を挟んで反対側のシートには、機内にもかかわらず仕立ての良いスーツを普段着のように身に纏ったアラブ系のビジネスマン。たっぷりと蓄えたひげを撫でつけながら、何やら思索にふけっている。数時間前に運ばれてきた機内食のメインはソテーされたオマール海老で、その味は地上の一流レストランにも引けを取らない。これでファーストクラスではないというのだから驚きだ。やはり、石油の国はスケールが違う。
一人旅だったなら、どれだけ優雅な気分だっただろうか。私はもう一度、同行者に聞こえるように大きくため息をついた。彼の周囲からは負のオーラのようなものが湧き出ていて、隣にいるだけでこちらまで気が滅入ってしまいそうだった。
「あなた、いったい何時間そうしているんですか!?」
小さく丸まった体がびくんと跳ねて、彼はおそるおそる私の方を見た。
正直、驚きだった。空港で初めて会った時から目が虚ろで、何かぶつぶつと呪詛のようなひとりごとを漏らしていたが、まさかその状態が十時間近くも続くとは……。おかげで、寝ようと思っても寝られず、私のストレスはピークに達していた。
「もうドバイに到着してしまいますよ! 乗り換えも急がないといけないんですから、いい加減にしてください!」
「うう……だって……」
彼は子犬のような目で私を見る。
「まったく、少々SNSで炎上したことが何だっていうんですか。あんなもの気にした方が負けですよ!」
「しょ、少々じゃないですよ! 見てくださいこれ! こんな数のDM見たことありますか!?」
口ごもりながらも反論した彼が見せてきた画面には、この少年――名前を土井風太という――が、どこか不安げでありながらも、しかし誇らしげにピッチに立つ写真と、そして数百件のDMの通知。
「いつまで元のチームのユニフォーム姿をアイコンにしているんですか!? 未練がましいですよ!」
「そ、それはどうでもいいじゃないですか……。それよりほら、DMですよ、DM。生まれてからこんなひどい言葉掛けられたことないですよ……。裏切者とか、クソ野郎とか、根腐れ陰キャとか……」
「根腐れ陰キャは本当のことじゃないですか」
いつまでも弱気な姿に苛立ってそう呟くと、彼はまさに「ガーン」という擬音がお似合いの表情を見せて、涙を目に浮かべた。わかりやすい男だ。
「そ、そもそも僕は移籍なんてしたくなかったんだ……。サイダーズに勝ってチームだっていい感じだったのに……。それなのに、ギルバートさんが無理やり……」
「……まったく」
私は、もう一度大きくため息をついた。父からも一癖ある選手だとは聞いていたが、まさかこういう方向性の扱いにくさだとは思わなかった。
――とにかくネガティブで、煮え切らない男。
今更ながら、彼の欧州挑戦への同行を安易に引き受けたことを後悔しつつある私がいる。しかし同時に、彼がどういった人間かを理解して、心も決まった。遠慮していては、ずっとこのままだ。
ヒュッと彼は息を飲んだ。私が、おもむろに彼の顎を持ち上げたからだ。顔を思い切り近づける。
「な、なんですか……。ア、イイニオイ」
「いい加減にしてください」
できる限り低い声でドスを利かせる。
「ええ、な、なにぃ? なにされるの!?」
彼がガタガタ震え出したのが、指先から伝わってくる。
「父に唆されたとはいえ、あなたが決めたことでしょう? あの男はクソ野郎ですが、あからさまに怪しい人間に騙される方も超がつく馬鹿野郎です」
「え、騙されたの? やっぱり僕、騙されてるの? てかクソ野郎っていうけど、リサさんってギルバートさんの娘で……」
「わかったなら馬鹿は馬鹿らしく覚悟を決めなさい。いいですね?」
語気を強めて彼の言葉を遮る。反対側のシートのビジネスマンが心配そうにこちらを見ていた。
「い・い・で・す・ね?」
睨みつけて念を押すと、風太は涙目で、赤べこのように首を縦に振った。
「それにほら、こんなのもありますよ」
――Welcome to the HEATS! Good luck! (ヒーツへようこそ! 幸運を!)
「まだメディカルチェックも終わっていないのに気が早いことですが、現地のファンだってあなたに期待しているんです。応えないといけないでしょう? ね?」
そう言うと、彼はうれしそうに頷いた。私はその下にある
” Who? This guy is definitely overrated. (誰だよこいつ。どうせ過大評価だろ)”
というコメントを手早くブロックしてから、彼にスマートフォンを返した。彼は少し下を向いて、照れくさそうに笑っている。
「リ、リサさんって意外と優しんですね。全然表情変わらないから、もっと怖い人なのかと……」
口ごもりながらそう言うと、風太はあわただしく視線を動かした。そういえば、初めて出会ってから半日弱、一度も目が合っていない気がする。
「失礼ですね……。別にあなたを気遣っているわけじゃありませんよ。これからしばらくは一緒に過ごすのに、ずっとそんな顔をされると迷惑というだけです」
「あれ……これ……レ? テンプレのツンデ……」
彼は、小さな声でよくわからない独り言を唱えて、なぜか頬を赤らめた。
「そういえば、もう一つ言っておくことがあります」
「え? あっはい、な、なんでしょう?」
「落ち込んでいるくせにちらちらと私の胸を見るのはやめてください。不快です」
「ごめんなさい」
――――――
スコットランドの首都・エディンバラ。そこが、私たちの目的地だ。日本からの直行便はなく、ヨーロッパの空港か、今回のように中東を経由するのが一般的なルートとなる。
街全体が世界遺産でもある古都には、毎年500万人の観光客が訪れる。
しかし、観光に行くわけではない。
サッカーをプレイに行くのだ。それも、プロとして。
彼――土井風太が加入するヒーツは、スコットランド1部、スコティッシュプレミアシップに属する。このリーグは5大リーグには属さないし、スコットランドはFIFAランクでも日本に劣る。しかし、フットボールとともに歩んできた長い長い歴史、熱狂、そして地理的要因が、スコットランドのフットボールを特別なものにする。
この挑戦が成功するかは、誰にも分らない。
若くして“海外組”になった少年は、うかない顔でシートに収まっている。少し猫背なせいか、彼は実際の身長よりも少し小さく見える。伏し目がちな表情はどこか陰気で、その目線はスマートフォンのサッカーゲームに注がれていた。ドバイからエディンバラへ向かう飛行機の中で、隣に座る頼りないフットボーラーはやっと落ち着いたようにも見えた。
初めての海外、初めての挑戦。正直、不安になるのも理解できる。
父は言った。
「あいつは、世界一のドリブラーになれる」
本当だろうか? 今のところ、そうは見えないけれど。そんなことを思いながら、私はやっと微睡に落ちた。




