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1-1. プロローグ①

ワールドカップの熱にあてられて書き始めました。

楽しんでいただけますと幸いです。

 後半アディショナルタイム。残りは30秒。おそらく、次がラストプレーになる。スタジアムに詰めかけたサポーターたちは、息を吞んでピッチを見つめている。


 シーズンの前半戦も終わりが見えてきている中、J1昇格初年度のキジバード岡山は依然として降格圏の18位に甘んじていた。しかし、チームの状態は明らかに上がっている。17位までの勝ち点差はわずかに1。


 そんな中で、チームは前半戦最大の山場を迎えていた。安定して好成績を残し、J1でも強豪の地位を確固たるものとしている隣県のサイダーズ広島とのリーグ初対戦。中国ダービーとして注目された一戦は、岡山が広島の猛攻を耐える形で電光掲示板には依然として2つのゼロが刻まれていた。


 広島は、前線に身長の高い外国人フォワードを配置してパワープレーの構えだ。そこをめがけて相手ゴールキーパーがボールを大きく蹴りだした。しかし、足を滑らせ、軌道がややずれる。センターバックの鉄生さんは余裕をもってそのボールをトラップした。


 左サイドのタッチライン際めいっぱいに開いて、ちらりと鉄生さんを見る。


――目が合った。


そう思った瞬間、鉄生さんの左足が振り子のように動いた。足元を離れたボールはわずかに横方向にスピンして、まるで空中で糸を引くようにぼくに向かって飛ぶ。大工の親方みたいな風貌には似合わない、美しいフィードだった。


 相手のサイドバックが、紫のユニフォームをなびかせて猛烈な勢いで突っ込んでくる。まだ若い――といってもぼくよりは年上だけど――絶賛売り出し中の23歳。走力が自慢で、試合終盤でも、まだまだ元気だ。タイミングは微妙だった。少しでもトラップが長くなると、一瞬で刈り取られる距離。ミスらないように、丁寧にいかないと……。


 たしかあの瞬間まで、そんなことを考えていた気がする。


 でも、そのとき――ボールが右足のアウトサイドに触れた瞬間、あらゆる思考は炭酸の泡のように溶けた。


 足首はフィードの軌道を受け流すように動いた。あくまで自然に。まるで、そう動くことがずっと前から決まっていたかのように。ボールは大きく前方に転がる。サイドバックの選手は虚を突かれ足を伸ばす。その足の指先をかすめ、ボールがタッチラインぎりぎりを滑ると、前方には広大なスペースが拡がっていた。歓声が大きくなる。視界の端で、立ち上がったサポーターがゆっくりと跳ねた。世界は緩慢に動く。思考は驚くほどクリアだった。


――これは、いけるやつだ。


最近、たまにこういうときがある。


 カバーに入っていたセンターバックが並走する。もう1枚のセンターバックは、やや遅れて帰陣している。バイタルエリアに近づくにつれ、徐々にセンターバックとの距離が近づく。彼はボールをぼくの足元のボールを凝視している。


 1回、2回、3回、4回。ボールを跨ぐが、対峙するDFは動じない。しかし、そのときは確実に近づいてきていた。リズムを感じる。目の前の敵がステップを踏むリズム。

 

 そのリズムと同期するように、距離はさらに近づく。1メートル、90センチ、80センチ……そして裏拍の瞬間、考えるよりも先に体が動いた。鋭角の切り返し。対峙していた紫の戦士は、何かにぶつかられたかのようにバランスを崩し前方に吹き飛ぶ。


 そのまま、ぼくはシュートモーションに入る。視界の隅で、戻ってきたセンターバックの選手がスライディングの態勢に入ったのが見えた。ゴールキーパーの意識は、ニア2:ファー8。


 大丈夫。打たないから。


 ぼくはボールに触れる直前でモーションを止める。目の前を滑っていくディフェンスを尻目に、すれ違うようにもう一度アウトサイドで中に切り込む。咄嗟に足に縋ろうとしたセンターバックの手は空を切り、爪が微かにソックスの繊維に触れた。


 ゴールキーパーの意識が前がかりになったのが分かった。良い判断だ。距離を詰められればコースが無くなる。確かこのゴールキーパーも、この前は日本代表に選ばれていたっけ。


 チップキック気味に回転がかかり、ボールは芝を離れた。スタジアムはしんと静まり返る。ゴールキーパーをあざ笑うように、シュートはゆっくりと弧を描く。代表選手は、一歩も動かず、頭上に描かれるその軌道を見つめていた。


 轟音。歓声が爆発する。ゴール裏で、赤いユニフォームを身に纏ったサポーターが雄叫びを上げた。自陣からチームメイトの先輩たちが駆け寄ってくる。その様子はまだゆっくりと見えた。喜びに身を任せて、彼らは芝生を疾走する。


 巨体を揺らして先頭を走ってきた鉄生さんのラグビータックルで体が宙に浮いた瞬間、世界は再び高速で動き出した。ぼくはいくつもの手にもみくちゃにされながら、鉄生さんの拘束から逃れようと暴れたが、太い腕はびくともしない。唸るような歓声の中で、鉄生さんはぼくを抱えてサポーターの前に走った。


 一面の真っ赤な波。エンブレムの描かれた巨大な旗がうねり、歓声はもはや地響きのように聞こえた。だれもが、ぼくの名前を呼んでいた。その光景に、鳥肌が立った。


「優勝してくれ!」


波の中から、誰かが叫んだ。


「ぼくが! 優勝させます!」


ぼくも、夢中で叫んだ。寒気がするほど、興奮していた。


「おいおい、降格圏のチームの選手が言うセリフじゃねえだろ」


鉄生さんはそう言って笑った。でも、ぼくたちはその日、降格圏のチームではなくなったのだった。

 

 このとき、ぼくは想像してもいなかった。わずか数時間後に、あんなこと恐ろしいことが起こるなんて。


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