1-29. フィジオのマリアさん
「フータ、最近少し筋肉がついてきたんじゃない?」
フィジオのマリアさんは、ぼくのふくらはぎをマッサージしながら言った。
「ほ、ほんとですか? あ痛っいててて!」
「本当よ。毎日触ってたら一目瞭然」
うつ伏せで悶絶するぼくを気にも留めず、彼女は細い指で筋肉のコリを容赦なく揉み解す。
激闘となったハイバーズ戦の翌日、試合に出たメンバーのメニューは調整のみで終了した。軽く汗を流した後、セラピー室で順番にマッサージを受けていく。
クラブハウスには数名のフィジオが在籍しているが、ぼくを担当してくれているのはこのマリアさんだ。ヒーツの女神とも呼ばれるゆるふわ系お姉さんの彼女だが、マッサージやトレーニングは意外と容赦ない。でも、そこが良いという人もいる。
「うらやましいぞフータ……。なんでいっつもお前はマリアさんなんだ……。俺なんて毎日ボビーなのに……」
「なんだ? 嫌なのか?」
「んほぉぉぉぉぉ♡ き、気持ちいいぃぃぃぃ♡」
その代表例であるショーンは、隣のマッサージ台で筋骨隆々の黒人のおじさんからマッサージを受け、謎の嬌声をあげている。
ボビーはヘッドフィジオセラピスト、つまりヒーツのフィジオチームのトップだ。見た目はジムで生活していそうな感じで繊細さは皆無だけど、界隈ではゴッドハンドと言われるほどの腕前らしい。
「うわあ、ショーン、すごい顔してる。僕、こんな声聞いたの初めてだよ……」
順番待ちのダンソとともに入り口の横に置かれたベンチに座るマルティンの独り言が聞こえた。どんな風になってるんだろう……? 見てみたいような、見たくないような……。
「もう。マルティンは早く帰るのよ。ドクターの診察は終わったんでしょう?」
「だ、大丈夫ですよ。そ、それに、帰りは、ショーンに送ってもらうことになってるんです……」
マリアさんに注意されて、マルティンは口ごもりながら反論する。
「脳震盪を軽く見ちゃだめよ。それで死んじゃう人だっているんですからね」
昨日の試合で頭を地面に打ち付けて途中交代になったマルティンは、今日はドクターの診断を受けるためにクラブハウスに来ていた。
絶対安静を言いつけられており、FIFAのプロトコルによりすでに週末の試合は欠場が決まっているが、スマホやテレビも見てはいけないらしく暇そうにしている。もちろん油断はできないが、今のところ大事には至らなそうで、ぼくとショーンは胸をなでおろした。
「そ、そういえば、フータは最近ご飯をリサに作ってもらってるんでしょ。もしかしたら、それがトレーニングにもいい影響を与えてるんじゃないかな!?」
マルティンは、マリアさんの言葉を遮って、やや強引に話を変える。
「え、ま、まあそうだけど……」
「それ、私も聞いたわ! 本当だったのねー」
マリアさんは、思いのほか勢いよくその話題に食いついた。そんなに面白い話かな?
「な、なんだって!? お前、そんなことが許されんほぉぉぉぉぉ♡」
「いいわねー。とってもいい。若い子たちのそういう話をきいてると、なんだか私まで若返る気がするわー」
「ま、マリアさんだってまだ若いじゃないですか」
「もう! そんなこと言って揶揄わないの!」
「あだだだだだだ!」
マリアさんの強烈な指圧に、ぼくは思わず仰け反る。どうやら返事を間違えたらしい。マリアさんもまだ20代だから本当に若いのに……。
「でも、食生活を改善してパフォーマンスが上がったって話はよく聞くよね。フータも最近絶好調だしさ」
「そうそう。初先発でMOMなんて、すごいじゃない」
「そ、それほどでも……」
そう。昨日の試合では、なんとぼくはMOMに選出された。点を取ったパトリックかショーンが選ばれるかと思っていたけど、ドリブルの調子は良かったし、それが要因だろうか。
リサさんも珍しく「よくがんばりましたね」と褒めてくれた。相変わらず無表情だったけど……。
「俺だってリサさんほぉ♡ にご飯を作ってもらえればそれくらい……」
「ショーンもかっこよかったわよー。点を取ったシーン、よくあそこに詰めてたってトーマスも褒めてたわ」
「そうそう! スーパーサブって感じでかっこよかったよ!」
「お、お前ら褒めすぎだ! まあ、確かに決勝点のシーンはちょっといい感じだったかもだけどな!」
見なくてもショーンの顔が緩み切っているのが分かる。もうちょっと強めにマッサージされた方がいいんじゃないだろうか。
「ち、ちなみにだけど、リサさんはあのゴールについて何か言ってたか?」
「いや、特に何も言ってなかったけど」
「……」
ショーンは急に元気を失って押し黙り、セラピールームに若干の気まずさが漂い始める。しまった……。嘘でも褒めていたと言っておくべきだった。
「でも、ショーンもフータも次の試合もスタメンに選ばれるんじゃないかな? ニコラス監督はあんまりメンバーを固定するタイプじゃないし」
「そ、そうだよな! 俺たち今結構いい感じだし、このままスタメン奪取なんてのもあり得ちゃうかもだよな!」
マルティンの言葉に、ショーンは再び元気を取り戻す。しかし、その和やかな雰囲気は、長くは続かなかった。
「おいショーン、お前、あんまり調子に乗ってんなよ」
マリアさんの手が止まる。
「フータはともかく、昨日の試合、お前のプレーはそんなに褒められた出来だったか?」
「ちょ、ちょっとダンソ。どうしたの急に」
声の主は、マルティンの横でマッサージの順番を待っていたダンソだった。
「さっきから聞いてれば、お前、そんなに自分のプレーが良かったとでも思ってんのか?」
室内の雰囲気が一気に張り詰めた。ダンソは長い足を組み、不機嫌そうにため息をついた。そして、淡々と言葉を並べる。
「ボールを受ける位置も悪い、パスもミスする。ディフェンスでは抜かれまくる。俺が何回お前のケツを拭いたと思ってる? お前がしたことなんて、コーナーキックの時にゴール前に突っ立ってただけじゃないか」
「ああ?」
ショーンはマッサージ台から身を起こす。しかし、ダンソは相変わらず表情を変えずに続けた。
「本当のことだろう? こんなプレーで調子に乗られたら、アカデミーのレベルが低いと思われるからやめてくれないか」
「はあ? そりゃたしかにミスはあったかもしれないけど、点を取ったことを喜んで何が悪いんだよ」
ショーンの眉間には皴が寄り、口調は明らかに苛立っていた。誰か止めてくれ……と思うが、マルティンも急に始まった口論に驚いている様子だった。
「そんなことだから、お前はいつまでたっても控えなんだよ。少ししか出てないんだから、マッサージを受けている暇があれば少しでも練習しとけよ」
「てめぇ!」
その言葉に、ショーンの糸が切れた。ダンソを睨みつけ、マッサージ台から飛び降りてつかみかかろうとする。
「おい、やめろ」
しかし、ショーンの動きはボビーによって止められた。片腕でショーンの動きを制止し、マッサージ台に押さえつける。
「ショーン、落ち着け。暴力はだめだ。ダンソも、そういう話はチームミーティングでしてくれ。ここは言い争いをする場所じゃない」
「……すみません」
ダンソは、立ち上がるとマッサージルームの出口から歩き去った。
「ちょ、ちょっと! マッサージはいいの?」
マリアさんが呼びかけるが、ダンソは振り向かない。あとには沈黙だけが残った。




