1-23. 耳うち
風太は細かくボールを触りながら、ゆっくりと前進する。
2枚のDFは、ボールを晒すその誘いには乗らない。
飛び込んだらやられる。
彼らだって、それはわかっている。ドリブラーとのデュエルは、我慢強さが試される。
ハイバーズは11人全員が自陣に引きこもり、守りを固めている。この状況では、おそらくカットインからのフィニッシュは難しい。狙いは、クロスになる。
こぼれ球を回収するために、俺はバイタルエリアのやや後ろにポジショニングを取る。
前半の短いアディショナルタイムは、既に表示された時間を過ぎた。
先に仕掛けたのは、風太だった。
しかし、風太が選択したプレーはクロスではなかった。
相手に正対した体勢から、右足のインサイドでボールを素早く動かし、縦に仕掛ける。
対峙するブラームスも、良い反応で走り合いのスタートを切った。
俺をマークしていたケルハーはカバーのため自陣側へ下がる。目の前のバイタルエリアには、ぽっかりとスペースができた。
次の瞬間、風太は左足の足首をひねる。相手のリアクションを予期していたように、ボールが自分の懐から出る前にコースを変えたのだ。
意表を突いたパス。
ブラームスは逆を取られる。ボールは、ややプレスバックが遅れたサイドハーフとの間を抜け、誰もいないバイタルエリアに転がった。
そう、俺の前に。
ゆっくりと助走を取り、俺は足を振り上げた。
ディフェンスラインに吸収されかかっていたハイバーズの2枚の中盤が、同時に体を投げ出す。
ピッチ上の選手たち、スタジアムの観客、カメラ。あらゆる視線が、俺に向くのを感じた。
千載一遇のチャンス。得点につながってしまったミスを帳消しにするチャンス。
俺は、シュートを打つつもりだった。いや、打つ気しかなかった。
だから、その判断をしたのは、単純にパスが持っていたメッセージの力だ。足を振り切る直前、パスに込められた風太のイメージに、身体が反応した。
俺は、脚を振らなかった。
ディフェンダーたちは呆気にとられたように、バイタルエリアを抜けていくパスの行方を目で追う。
走り込んできていたのは、右サイドに張っていたジュリアーノだった。
ゴール正面、やや右。ジュリアーノが最も得意とするエリア。
鞭のようにしなった左足から放たれたシュートは、ゴールの左上角に向かって、大きな弧を描いて落下した。
誰も、一歩も動けない。
ボールは左ポストの外側でブレーキがかかったようにコースを変える。
ゴール裏の観客たち――アウェースタンドに足を運んだヒーツのサポーターたちが、一斉に立ち上がる。
抑えの効いたシュートは、うなりを上げてゴールを襲い――
そのままサイドネットに突き刺さった。
外側のサイドネットに。
そして、前半終了の笛が鳴った。
――――――
「ツヨシ、膝は問題ない? スパイクは緩めておかないとだめよ?」
「大丈夫だよ。俺はいいから、風太にケアするよう言ってやってくれ」
ドレッシングルームでは、それぞれの選手がマッサージを受けるなど回復に努めている。あらゆる場所で相手選手の特徴や打開策が話されていて、雰囲気は悪くない。
選手のコンディションを聞いて回っていたトレーナーのマリアは、興奮冷めやらぬ様子の風太にドリンクを渡しに行った。
入れ替わるように、マッサージを終えたジュリアーノが隣に腰を下ろす。
「よう。さっきは惜しかったな」
「いやぁ、もう少し曲げるつもりだったんだけどね」
ジュリアーノは、平然とした様子で言った。
「まあ、今日はボクの日じゃないのかもしれないね」
部屋の隅では、風太がマリアからふくらはぎのマッサージを受けている。だらんと体の力が抜け、瞳孔が開いたまま1点を見つめ続ける様子は、虚ろにも、むしろ研ぎ澄まされているようにも見えた。
「なあ、ジュリアーノ」
「なんだい?」
イタリアの新星は、ボトルを片手に微笑んだ。細い首筋から汗が滴る。
「後半は、もっと左サイドにボールを集めようと思うんだが、いいか?」
俺は思い切ってそう口にした。
ジュリアーノは少し目を見開いて、俺を見た。
一瞬の沈黙に、緊張を覚える。ジュリアーノがいつもの微笑を崩すのは想像できないが、選手によっては怒りを覚えてもおかしくない質問だ。
ジュリアーノは視界の端に風太を捉える。その顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。
「もちろんさ。今日は、きっと彼の日だろうからね」
いつもと変わらない口調で、ジュリアーノはそう言った。俺は胸をなでおろす。
「実は、彼の初めての先発を個人的に祝おうかと思っていてね。フータが気兼ねなく応じてくれるよう、君が活躍させてやってくれよ」
「お、おお。わかった……」
その時、監督のニコラスが扉を開けて入ってきた。後ろにトーマスも続く。
「おい、聞け!」
ウィーバーが声を張り上げると、騒がしかった部屋の中は水を打ったように静まり返る。
部屋全体に緊張感が走った。
格下にリードされる苦しい展開を、監督はどうとらえているのか。選手たちは、固唾をのんでニコラスの言葉を待った。
「……悪くない前半でした」
ニコラスは、静かに話し始める。その一言目で、ドレッシングルームの雰囲気が少し安らいだのが分かった。
「確かにリードはされていますが、決して内容は悪くない。攻撃の形は作れています」
同調するように、何人かの選手が頷いた。
「後半も狙いは変わりません。両サイドからのクロス。相手のCBはカウンターのクロス対応でマーカーを見失う傾向にあります。早い段階で中に入れて構いません」
ニコラスの後ろに立つトーマスが、風太とジュリアーノに視線を送る。ジュリアーノは、分かっているとばかりに鼻を鳴らして足を組みなおした。
「引き続き、ツヨシは8番を警戒してください。彼にボールが入った時、CFがサイドに流れることがあるので、CBとSBは裏のカバーリングの連携を怠らないように」
指揮官は、CFがSBの裏に抜ける動きを戦術ボードの緑のマグネットで再現した。そして、選手たちの顔を見渡す。
「いいですね。勝たなければならない試合です。後半は圧倒してきてください」
そう言うと、彼は踵を返す。
「しゃあ! 行こう!」
俺は声を張り上げた。
選手たちは一斉に立ち上がり、ドレッシングルームのいたるところからチームを鼓舞する声が上がる。
「セカンドボール集中だぞ!」
攻撃陣に対するウィーバーの檄に、親指を立てて応える。
選手たちは鳥の群れのようにグラウンドへ向かい始めた。
「まあ、そろそろ決めないとね」
ひとりまだベンチに腰を下ろしていたジュリアーノは、ゆっくりと立ち上がる。
彼は、マルティンに続いてドレッシングルームを後にしようとする風太を呼び止めると、何かを耳元で囁いた。
「■■■■……」
ひとことふたこと言葉を交わした後、風太は頷く。
後半開始間際のざわめきの中で、彼らが話す言葉は、俺の耳には届かなかった。




