1-20. 一族
「あら、おじいさまが降りてこられるわ」
「そうみたいね。ディック、シチューを運んでちょうだい」
俺は読みかけの小説を閉じて、ソファーから腰を上げた。ユリアが、コンロに掛けられた鉄鍋からシチューをよそう。
「はい、ディック」
「ああ、ありがとう」
階段をゆっくりと降りてくる音が聞こえる。一段一段、間を開けて、慎重に。
「母さん、やっぱりじいちゃんの部屋は一階に移動させた方がいいんじゃないか?」
「そうはいってもねえ。本人が動きたがらないから……」
「好きなようにさせておけばいいじゃないか。残り短い人生なんだから」
ノートパソコンを閉じながら、父が冗談めかして言った。母は顔を顰めそれをたしなめる。
「もう、あなた。そんな言い方……」
「聞こえておるぞ。まったく、失礼なやつだ」
古いドアが軋み、祖父が仏頂面でリビングに入ってくる。折りたたまれた夕刊をソファーに投げ捨てると、ダイニングテーブルの上座に腰かけた。
父も同じようにノートパソコンをソファーに移動させ、自分の父親を揶揄った。
「じゃあ、1階に移るかい? ぼくの子供部屋と交換しようよ」
家長はただふんと鼻を鳴らす。機嫌が悪いわけではない。いつも通りだ。
「はいはい、それじゃ晩御飯にしましょうね」
母とユリアがパンとサラダを食卓に運ぶ。俺は炭酸水を冷蔵庫から取り出して、ユリアの隣の椅子に座った。
全員が各々の席に着くと、ダイニングはしんと静まり返る。テーブルの上のキャンドルの灯が、家族の顔を照らした。
年老いた家長は、大きく息を吐いた。白い壁に映る影が、小さく揺れる。
「Bless us……」
祖父の白い口髭の奥から食前の祈りが零れ始めると、家族は俯き胸の前で手を組む。アイルランド訛りの英語が、主への感謝を紡いだ。
俺は、こっそり目を開けて、家族の顔を見渡す。
しゃがれた声、暖かいシチューの香り、サイドボードの上の色褪せた教会の絵。
昔から、この時間が好きだった。
真剣な祖父の顔。父と母は、いつも同じ姿勢で神に祈る。ユリアの愛らしい横顔を見て、俺も目を閉じた。
低い声は、窓の外の風と重なる。
「Amen……」
そう言って、祖父は祈りを終える。家族は、ゆっくりと顔を上げた。
「さあ、いただこうか」
堰を切ったように、食卓には音があふれ出した。
――――――
「……うまいな」
じゃがいものシチューを口に運び、祖父はそう漏らした。
「あら、本当に?今日のシチューはユリアが作ったのよ」
「うん、本当に美味しいよ。母さんのシチューそっくりだ。なあ、親父?」
「……そうだな」
羊肉と野菜の旨みが溶けだしたシチューは、優しいハーブの香りがした。
「おばあ様のお鍋のおかげですわ」
ユリアは、そう言って嬉しそうに俺に目配せする。微笑み返すと、彼女は得意そうにウインクした。
「そういえば――」
思い出したように、父はサラダを口に運ぶ手を止めた。
「会長が父さんを週末の試合に招待したいって言ってたよ」
「……行かん。どうせまた負けるんだろう」
いつも通りの返事に、両親はやれやれと顔を見合せる。
「そんなこと言って、この前もこっそり観に行ってたじゃありませんか」
「……」
テーブルの下で、ユリアに太腿をつつかれる。俺は、仕方なくシチューを口に運ぶ手を止め、両親に加勢する。
「じいちゃん、俺は負けるつもりはないよ。最近はチームの調子も良い」
「当然じゃろう。西のやつら――ヒーツなんぞに負けてはならんのだ」
祖父はパンをシチューに浸して口に運んだ。家は静かで、時々、大通りの笑い声が聞こえた。窓から見える向かいのアパートは、どの部屋にもまだ煌々と明かりが灯る。
「簡単なことだろうに。点を決められなければ負けんのじゃから……」
そう呟く祖父は、かつてハイバーズの選手だった。幼いころにこの街に移り住んだ祖父の代から、うちは3代にわたってこの街のチームでプレーしてきた。
ケルハーといえば、絶対的な守護神として長年ゴールマウスを守った祖父のことを思い浮かべる古いファンも多い。今の会長も、祖父がキャプテンを務めていた時代にプレーした選手だったらしい。
「父さん、それでいうと、キナードは絶好調だよ。なあ、ディック?」
「うん、そうだね。代表でもクリーンシートだった」
逆に父は、選手として大成することはなかった。ハイバーズでプレーした期間は5年だけで、スタメンだった年もない。今は、几帳面で人当たりの良い性格を買われてハイバーズの広報部長を任されている。
「あのキナードくんがとうとう代表にねえ。お父さん、昔からよく教えてたから嬉しいんじゃない?」
「……ふん、遅すぎるくらいだ」
祖父は俯いてスープをすすった。
「キナードの坊主も、やっと堂々とした感じが出てきおった。ゴールキーパーというのは、自信が見た目から伝わってくるくらいじゃなければ務まらん。それを、ようやっとあやつも理解したようじゃ」
小学生の頃、祖父はよくうちに遊びに来ていたキナードを熱心に指導していた。べそをかくまで練習させられているのも、何度も見た。怒鳴られながら練習させられることが分かっているのに、よく家に来るもんだと思ったことを憶えている。
「キナードに自信がなかったのは、じいちゃんが厳しく教えすぎたからだよ」
「……あれくらい、わしらの時には当たり前じゃった」
キナードは祖父のことをよく尋ねてくる。「じいさんの体調は大丈夫か」とか、「この前の試合について何か言ってたか」とか、しつこいくらいに。だから、キナードにとってはさほど嫌な思い出でもないのかもしれない。
「まあ、週末はディックやキナードたちが頑張ると思うから、父さんも体調が良ければ見にきたらどうだい」
「……考えておく」
俺たちが宿題もせずにボールを蹴っていたころ、祖父もまだ60過ぎで、老人と呼ぶには元気すぎるくらいだった。
あれから、20年近い月日がたった。俺もキナードも、ずっとハイバーズでプレーし続けている。スコットランド代表として、同じピッチに立つことだって増えてきた。
それはたぶん、奇跡みたいなことだ。
祖父が怒鳴ることも大声を上げることもなくなったのは、いつからだろうか。近頃は、短い外出さえ嫌がることが多い。
それでも、祖父は絆を重んじるアイルランドの男だ。ハイバーズへの、そしてフットボールへの情熱は変わっていない。クラブの試合や、俺が出る代表の試合は必ず母やユリアと一緒にテレビで見ているらしい。
――でも
俺は思う。
――祖父の見るエディンバラダービーは、あと何度あるだろうか。
――あと何度、俺は祖父に勝利を見せてあげられるのだろうか。
賑やかな食卓の中で、ふいに目の奥が熱を帯びた。
燃えるような思いがある。
これまでだってそうだった。でも、これからはもっと。
もう、負けるわけにはいかない。




