1-16. パトリックという男
想像する。目の前に、屈強なドリブラーがいる。強くて速い選手。たとえば、ウィーバーにしようか。ぼくは、全体練習後のコートで、ひとり目を閉じた。
1-1で硬直した試合の後半30分、カウンターの場面。相手はできるだけ時間をかけて対応し、味方の帰陣を待ちたい状況。逆に、ここで突破できれば大チャンス。
タイミングを測りゆっくりとボールを動かす。そして、両足が地面から浮いた瞬間を狙い、一気に縦。
しかし、ウィーバーは反応してくる。だから、インサイドで触れたボールを舐めるようにして、アウトサイドに持ち替え、切り返す。逆エラシコ。
すかさずボールを中に動かし、脚を振る。
大きく弧を描いたボールは、右ポストの内側にあたり、足元に転がってきた。
――だめだ。今の角度だと、切り返しのタイミングで体を当てられる。
再び最初の位置に戻り、ドリブルを始める。
シンプルでいい。シンプルでいいから、もっと懐に潜り込んで、もっと深く切り返す。
また、目の前にウィーバーを想像する。彼は注意深く距離を取っている。
――一気に懐へ……!
僕は急加速し、距離を縮める。今までよりも、ずっと近く。ぶつかるくらい近く。
そして、中。潜り込むように深い体勢から、足首が潰れるくらいの角度で切り込む。ディフェンスは、体重移動が追い付かない。
シュートモーションに入ると、何とか態勢を立て直したウィーバーの長い脚が伸びてくる。腰を大きくひねって、その股下を通す。
ボールは鋭く芝生の上を滑り、今度はニアポストを叩いて足元に帰ってきた。
今のは、いい感じだった。日に日に感覚はよくなっている。
――もう一度……
再び開始位置にボールを運ぼうとした時、背中から低い声が聞こえた。
「おい、フータ」
ぼくは、思わずびくんと跳ねて、恐る恐る振り返る。そこには、隣のコートでいつものように自主練をしていたパトリックの姿があった。
「そのポストにあてるやつは、わざとやっているのか?」
195cmの体躯は、ふたりしかいない広いコートの中で威圧的な存在感を放っている。精悍な顔の中の透き通るような碧い目が、ぼくを鋭く見下ろしていた。
「う、うん。ひ、ひとりで練習してるときに、わざわざボールを拾いに行かなくていいように編み出したんだけど……」
な、なにを言われるのだろう。ぼくは、しどろもどろで答える。
「……そうか」
パトリックは、いつも最後までグラウンドに残って練習している。一人で黙々とゴールに向かってシュートしていることが多く、同じくいつも一人で練習しているぼくに話しかけてくるようなことはない。もちろん、ぼくからパトリックに話しかけることもない。怖いからだ。
「……」
「……」
緊張が走る。
パトリックはチームの中でもひときわ寡黙な男だ。同い年のはずだが、ユース出身ではないため、ショーンやマルティンともやや距離がある。
――な、何を考えてるんだ……
無言の威圧感に、心臓がバクバクと跳ねている。頭は、練習のときよりもフル回転している。しかし、先に口を開いたのはパトリックだった。
「……よかったら、クロスを上げてくれないか。合わせる練習がしたいんだ」
「お、お金ならいくらでm……あ、クロスね」
――――――
「……じゃあ、ラスト1本頼む」
「う、うん!」
ぼくはパスをパトリックにリターンして走り出す。パトリックがダイレクトで斜めに出したスルーパスは、やや膨らんでボールを待つぼくの足元に想像通りのタイミングで合流した。
ノルウェー代表のホープは、まるで野生の獣のような迫力でゴール前に走り込む。あの巨体でこのスピード。今まで見たことがないスケールのプレイヤーだ。
ぼくはワントラップして、左足でクロスを供給する。いつもの感覚より、頭3つ分は高い。
しかし、ミスキックではない。数十本蹴って、ようやく確信した。これが、ドンピシャだ。
巨体がミサイルのように宙に舞った。パトリックのジャンプは、ゆうゆうと高すぎるはずのラストパスに到達する。鈍く大きな音とともに、ボールはバレーボールのスパイクを思わせる角度でサイドネットに突き刺さった。
圧倒的な跳躍力とヘディングのシュートスピード。それを支える巨大な背筋が、汗で濡れたトレーニングウェアの下から隆起していた。
パトリックはゴールネットからボールを回収すると、小さな声で言った。
「……ナイスボールだ。試合でもその高さに頼む」
「あ、う、うん」
パトリックはボールをケースに詰め始める。再び、沈黙が流れた。
「……」
「……」
――な、何か言わなきゃ……
正直、この時間はかなり気まずい。ぼくもお喋りではないが、パトリックはそれ以上に喋らない。
「ま、まあ試合って言ってもいつ出られるか分からないけどね!」
ぼくは苦し紛れにそう言った。実際、僕はまだリーグ戦の出場はないし、パトリックも試合終盤での投入が中心だ。二人が同時にピッチにいるタイミングは現状かなり少ない。
「……自信がないのか?」
パトリックは、ぴたりと動きを止めた。
「え、じ、自信? しょ、正直、そんなにないかも……」
「……でも、お前はドリブルができるじゃないか。キック精度も高い」
「そ、そんなことないよ! ぼくより上手い人なんてたくさんいるし――」
ぼくは思わぬ高評価に驚いて、首を振って否定する。
「それは誰だ?」
「え?」
パトリックは、僕の言葉を遮った。その鋭い視線に、ぼくは思わず息を呑む。コートの上を風が通り抜けて、施設を囲む広葉樹林の木々を揺らした。
「お前より上手いやつってのは、誰だ? お前には、絶対に勝てない相手がいるのか?」
「そ、そんなの……」
ジュリアーノ、ウィーバー、剛さん、ダンソ、深雪……頭の中を、ぼくがすごいと思うプレイヤー達のイメージが流れて行った――
パトリックは何を言ってるんだ? みんな、僕よりうまいに決まってる。残している結果を見ると、ぼくなんて足元にも及ばない。
その時、心のどこかで誰かが言った。
――……いや、ぼくのほうが上手いな
「フータ、嘘をつくな」
視線が、ぼくを射抜く。パトリックは、微動だにせず直立している。その全身には、強い力がこもっていた。
「自分に嘘をつくのはやめろ」
背中を、冷たい汗が伝った。僕は何も言うことができず、ただ目の前の男の瞳を見つめる。
「……俺は、世界一のストライカーになる。その権利がある」
いつになくはっきりと、パトリックは言い切った。
「だからここにいるんだ」
権利。世界一になる、権利。その言葉が、フーガのように頭の中に反響した。ぼくは、パトリックから目を逸らすことができない。
ふいに、仁王像のような体から力が抜けた。そして、一言、ぼくに問いかける。
「そうだろう?」
パトリックは踵を返し、クラブハウスに戻っていった。その日、僕は初めてパトリックという男の笑顔を見た。




