1-14. 歓声と高揚
くぐもった、大きなブザー音が部屋に鳴り響く。この国のインターホンの、防犯ブザーのような音はいまだに慣れない。
「今出ます!」
聞こえているのかはわからないが、ぼくは大声で玄関に呼び掛けた。スパイクを急いで鞄に詰め込むと、出し忘れたゴミ袋から目を逸らしてスニーカーを履く。シューズボックス横の鏡には、グレーの練習着に身を包んだぼくが写っている。頭のてっぺんから元気に飛び出しているアホ毛を撫でつけ、前髪を少しだけ整えた。うん、悪くないだろう。
ドンドンと、強めに扉がノックされた。彼女の機嫌を損ねるのはまずい。ぼくは慌てて扉を開ける。
「遅いですよ。もうショーンは下で待っているそうです」
「ご、ごめん」
お揃いのトレーニングウェアに身を包んだリサさんが冷たい目でぼくを睨みつける。寝不足でぼんやりした頭が、一気に覚醒した。いつもタイトなスーツだから、少し大きめに羽織ったジャージが新鮮に映る。
リサさんは同じアパートの向かいの部屋に住んでいる。2部屋同時だとお得に借りられたのだとギルバートさんが言っていた。家電や食器はロバートが準備してくれたらしい。
アパート下の街路から、ぼくたちを急かすようにクラクションが鳴った。ショーンだ。ぼくとリサさんは毎朝一緒にタクシーで練習場に向かっていたのだが、そのことを話すと、なぜかショーンが毎朝車で迎えに来てくれるようになった。ありがたいのだが、なんだか親切すぎて気持ち悪い。リサさんはというと、
「まあ、利用できるものは利用した方がいいですから」
と友人を最大限活用するつもりのようだ。
特に話すべきこともなく、無言で共用階段を下りる。ぼくとリサさんの住むマレーフィールドはヴィクトリア朝期の古い石造りの邸宅が立ち並ぶ地域だ。ギルバートさんが手配してくれたアパートも例にもれず古い建物だが、手入れが行き届いており不都合は感じない。こちらでは、築100年以上の民家が当たり前らしい。
階段を降りると、横付けされた淡いシャンパンゴールドのSUVの中からマルティンが手を振っている。運転席のショーンも、ハンドルに手を添えたまま気障に指を立てた。日本人のぼくにはベジータにしか見えない。
「毎朝送迎ありがとうございます」
「あ、ありがとう」
「気にしないでくれ。俺のこのレンジローバーは、一人で乗るには大きすぎるからな」
ショーンは、得意げに鼻を鳴らした。助手席のマルティンは苦笑いを浮かべる。
「10年ローンだけどね」
「マルティン! それは言うなって言っただろ!」
相変わらず、ユースからの盟友であるふたりは仲が良い。ショーンは、以前からマルティンを乗せて練習場に来ていたらしく、最近は僕とリサさんを含め4人で移動することが多い。
……そういえば、海外移籍が決まったのにユースのチームメイトから連絡来てないな。みんな忙しいんだろうか……?
「ていうか、お前は後ろに乗れよ……! リサさんに助手席に乗ってほしいんだよ!」
「いやだよ。ここは僕の席だもん」
何やらにぎやかな前列シートに比べて、基本的に後部座席に会話はない。あるとしても、その日のスケジュールや、リサさんの通訳が必要なタイミングなどの事務連絡だけだ。当初は何か話さなければと焦っていたが、最近ではもはやこの沈黙が心地よくなってきている。慣れとは恐ろしいものだ。
ショーン自慢のレンジローバーがゴーギー通りに近づく。普段より賑やかな歩道脇では、移動販売の物売りが店の準備を始めている。いつもすいているパブの窓越しに人影が見えた。気の早い男たちの歌声が、窓越しに小さく聞こえる。
8月初週の週末。ぼくたちにとっても、この街にとっても、重要な日だ。
「ねえ、僕たちスタメンに入っているかな」
「さあな……」
街並みの向こうには、ワインレッドの旗が靡くスタジアムがそびえる。心地よい始まりの予感が、胸を騒めかせた。
――――――
観客のボルテージが一気に上がったのは、キックオフ5分前のことだった。歓声に、ぼくは思わず身体を仰け反らせる。びりびりと鼓膜が揺れて、まるでスタジアム全体が揺れているような感覚に襲われる。
「熱っ!」
中央のトンネルから3人の審判が現れると、両脇に配置された筒が空に向けて巨大な炎を吐いた。ベンチの端に座っていたぼくは、その熱波にやや肝を冷やす。続いて、両チームの選手たちが入場する。ヒーツの先頭はキャプテンのウィーバー。歓声は、一層熱を帯びていく。
DJのコールに呼応し、スタジアムに陽気な旋律が流れ始めた。観客は歌声で応える。要塞に木霊するのは、パブから漏れ聞こえたあの歌だった。遠くから小さく漏れ聞こえた歌声が、何百・何千倍にもなって響いている。
ヒーツが優勝を狙うシーズンの開幕戦。対戦相手は、東部の名門・ダンディー。スタジアムには、満員の1万9000人が詰めかけた。人数自体は、Jリーグでも平均的な数字だ。しかし、観客席からの音圧。これが、圧倒的に違う。急勾配の観客席はピッチから手が届きそうな距離に壁のように聳え立ち、ファンが歌うチャントは唸るように反響する。
ぼくの隣では、ショーンが目を瞑りアンセムを口ずさむ。
スターティングメンバーは、試合開始の1時間前に発表された。ニコラス監督が発表したリストに、ぼくとショーンの名前はなかった。同期組でスタメンに入ったのは、予想通りマルティンだけだ。
トンネルからマルティンが出てくる。手を引くエスコートキッズとは、ほとんど身長が変わらない。ハの字の眉が、いつもよりいっそう不安げに見えた。
「が、がんばれ!」
大声で叫ぶと、マルティンはベンチを見て小さく笑った。後ろの剛さんも親指を立てる。あなたに言ったわけではないですけどね……。
スタメンの選手たちは前後のサポーターの声援に手を叩いて応えたのち、審判・対戦相手とタッチを交わし健闘を誓い合う。アンセムは終わり、再びスタジアムはざわめきに包まれる。期待と不安に満ちた、巨大なざわめきに。
円陣を組んだ選手たちは、各ポジションに散った。それぞれが自分の持ち場に移動する中、剛さんは一時的にウィーバーの横に位置取り、入れ替わるようにセンターバックのダンソがピッチの中央付近に立っている。
スタメンの選手たちの様子は多様だ。平然と声援に応える者、周囲のチームメイトに檄を飛ばす者、ストレッチで気持ちを落ち着かせる者。それぞれがそれぞれの方法で、この90分にすべてを懸けようとしている。
隣に座るショーンの足が震えていることに気が付いた。その視線の先には、ピッチの最奥に立つマルティンがいる。19歳のサイドバックは、両手を胸の前に組み祈りをささげる。歓声の中で、自分の心臓の音だけがはっきりと聞こえた。プロ1年目で開幕戦のスタメン――マルティンは、どれだけ緊張しているだろう。ぼくは、大きく息を吐いた。
審判がホイッスルを咥え、腕時計のスイッチに指を添える。スタジアムに静寂が訪れた。そして、高音の号笛がスタジアムの空気を切り裂く。とたんに、爆発音にも似た歓声が、スタジアムを満たした。
センターサークルにボールをセットしたフォワードがGKまでボールを戻す。GKは、一呼吸おいて、敵陣深くに大きくボールを蹴りだした。キックオフ直後のロングボール――まるで、自分たちのボールを捨てるようなプレー。
しかし、そうではない。このロングボールは、完全に計算されたファーストプレーだった。
ボールの落下地点に入ったのは、ダンディーの左サイドバック。運動量が売りの、小柄なプレイヤーだ。ボールをトラップする体勢に入った瞬間、彼は気づく。その場所に猛烈な勢いで走り込んでくる巨大な影に。
巨体の持ち主――ダンソは、サイドバックを吹き飛ばしながらロングボールを胸トラップで収める。
「ファールッ!」
ダンディーの選手たちは、一斉に審判に怒鳴る。しかし、審判は首を振った。
ヒーツのスターは、その隙を見逃さなかった。誰よりも早くサポートに入った右ウイングのジュリアーノがダンソからボールを引き取る。
相手のディフェンスは、猛烈なプレスで何とか距離を詰める。しかし、未来のイタリア代表は、その類まれなるスピードでいとも簡単にフォローに来たセンターバックを振り払うと、そのまま加速してサイドを抉る。
開始早々、ヒーツにビッグチャンスが訪れた。GKと1対1。しかし、角度はない。ゴール前の味方はセンターフォワード1枚のみ。
「打てっ!」
コーチのトーマスが声を張り上げた。ベンチメンバーが一斉に立ち上がる。
同時に、ジュリアーノは右足を振りぬいた。ボールは、GKの肩口を抜け、クロスバーを叩く。
――どうだ……!?
息を呑む間もなく、弾丸は突き刺さるように地面にバウンドし、ネットを揺らした。
主審がセンターサークルを指さし、ホイッスルを鳴らす。その音は地鳴りのような歓声にかき消された。
電光石火のゴラッソ。
長いシーズンは、ジュリアーノのスーパーゴールとともに幕を開けた。




