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1-13. コートの女神?(後編)

「ど、どういうことなんだ……」


1対1が始まってから、およそ10分が経過しようとしていた。息が上がり、動悸が激しくなる。一度きりの勝負は、まだ続いていた。


「もお、ふたりとも、そろそろどっちか勝負を決めてよー」

「……うーん、間合いがもうちょっとなんだけど……もっとギリギリでググっといかないと……」


いよいよ観戦にも飽きて集中力を切らし始めたマルティンとは反対に、フータは一層自分の世界に入り込んでいる。


 俺は、思わず声を上げる。


「ま、マルティン、どうなってるんだ!? 全然獲れないぞ!」


そう、フータから、全くボールを奪うことができない。逆に言えば抜かれてはいないということなのだが、俺はまるで練習用のNPCと対戦しているような、不思議な感覚に陥っていた。


確実にボールを獲れると思ったタイミングで、獲れない。脚の少し先に、するりとボールを転がされる。逆に、絶対に抜かれたと思ったタイミングで、切り返して元の対面に戻ることもある。俺は今有利なのか、不利なのか、それすらも曖昧だ。


「あれ? 気づいてなかったの? フータ、練習でも、たぶん一度も完全にはボールを奪われてないよ」

「……は?」


俺は、思わず動きを止めてしまう。


しかし、言われてみれば、そうかもしれない。ドリブル突破が少ないということばかりに目が留まっていたが、よく考えるとフータがボールを奪われているシーンは一度も見ていない。スライディングで触られたりすることはあれど、身体を入れられたりして相手ボールになったというような場面は記憶にない。


「まあ、チャレンジしたドリブルが少ないともいえるけどね」


マルティンはそう付け加える。


――まずいな……


汗が顎を伝った。マルティンの言うように相手を抜き去るドリブルが得意じゃないとしても、このままでは、不利になるのは俺のほうだ。この勝負には制限時間を設けていない。最終的にボールをキープし続け、俺の体力が切れたら、フータの勝利となる。


――まさか、そんなことはあり得ない……


1対1の状況では、ドリブルをし続ける方が体力的に厳しくなるに決まっている……。ただ、俺のスタミナが切れ始めていることも事実――。


 顔を上げると、フータはじっと自分の足元を見つめていた。およそ、次に繰り出すフェイントのアイデアでも練っているのだろう。


――いける


俺は、今日初めて自分からフータの足元に飛び込んだ。焦りもあったのかもしれない。


 しかし、これが悪手だった。足を伸ばした瞬間、フータはタイミングを計っていたかのように爪先でボールに触れた。


「しまっt」


ボールが両足の間を通る。反射的に足を閉じると、ボールは踵に触れてコースが変わる。そして、それは横を通り抜けるフータへのパスのように、彼の足元に吸い込まれた。


「くそっ!」


――まだ追いつける!


俺は倒れるように反転し、風太の背中に追いすがる。ペナルティエリアまでは、まだ距離がある。踵にやや厚く当たったおかげでボールはおそらくフータの想定よりも減速し、ドリブルの加速が遅れた。


 何とか前進を遅らせようとする俺の腕と、ハンドオフしようとするフータの腕が絡む。


 もう少し、もう少し――天然芝のピッチをスパイクが強く掴んだ。ボールとの距離が、少しずつ近づく。


 そして、ボールがペナルティエリアに入ろうとしたその瞬間、俺はフータの足元に滑り込んだ。ボールに触れた感触がある。俺とフータは、絡み合うようにしてピッチを転がった。背中に強い衝撃が走る。


「だ、大丈夫!?」

「……大丈夫か?」


マルティンが駆け寄ってくる。派手な転倒を見たパトリックも、隣のコートから様子を見に来た。でも、そんなことどうだってよかった。


「「どっち!?」」


声が重なった。俺とフータは目を見合わせる。


「ええ、難しいな……。ちょうどライン上に見えたけど……。パトリックは?」

「……すまない。俺は転んだ瞬間しか見ていない」

「じゃあ、俺の勝だな。フットボールはライン上ならノーゴールだ」


フータは慌てて抗議の声を上げる。


「ちょ、ちょっと待ってよ! 完全に抜いてたよ! せめて引き分けでしょ! もう一回! もう一回!」


しかし、俺は首を横に振った。抗議を聞き入れるいわれはない。


「駄目だ。一回きりだって言っただろ」

「ちょっと待ってよ! 後生だから! 土下座するからー!」

「ゴ、ゴショー? おい、や、やめろって! 何してんだ!?」


フータは必死の形相で腰に縋りついてくる。何とか引きはがしてクラブハウスに帰ろうとするが、練習でどんな選手にも当たり負けしているフィジカルの弱さからは想像できない異様なしつこさでフータは絡みついた腕を離さない。


「しつこいって! おい、マルティン、助けてくれ!」

「えー。せっかくだしもう1回やってあげたら?」

「無茶言うな! もう一歩も走れねえよ!」


 クラブハウスの方からコートに歩いてくる人影に気づいたのは、その時だった。少し低めで、しかし芯の通った声が響いた。


「風太、何してるんですか? 遊んでるなら、先に帰ってしまいますよ?」

「あ、リサさん。ちょっと待って! もう少しで終わるから」


そこに、アフロディーテがいた。風にたなびく美しい金髪に、意志の強そうな美貌。クラブハウスでは珍しいスーツの下に隠された、しかし、隠しきるなどできない豊かなプロポーション。ダウナーな声とクールな流し目に、感じたことのないときめきが走る。


「わかりました。それはそうと、やっとチームメイトと打ち解けたのですね」

「え、あ、そ、それは……」

「僕はもう友達だよ! ね、フータ」


美しい少女が、俺に視線を送る。心の中を春風が吹き抜け、凪の水面に泡を立てた。青々と茂る芝生、小鳥のさえずり、クラブハウスから聞こえる陽気な笑い声、切磋琢磨する仲間たち。なぜだろうか、すべてがかけがえのないものだと思える。エディンバラの暖かい光が、コートを囲む木立をやさしく照らす。


「こちらの方も、お友達ですか?」

「えっと、ショーンは……」

「もちろんさ。ブラザー」


マルティンとフータが目を見開く。パトリックは相変わらず無表情のままだ。俺は、親友のフータに紹介を求めた。


「フータ、こちらの方は?」

「あ、えっと……通訳をしてくれてるリサさんだけど……」

「風太の通訳のリサ・中田と申します。今後とも、風太をどうぞよろしくお願いします」


リサさんは、そう言って深々と頭を下げた。なんて礼儀正しい女性なんだ……。俺は心の中で感涙する。


「もちろんです。任せてください。ぼくはこの街で生まれ育った男ですからね。クラブ内外問わず、様々な面でフータをサポートすることができると思います。リサさんも、何か困ったことがあればいつでも私に連絡を下さい」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」


頭を上げ口だけで微笑むリサさんに、俺の心はまた切なく締め付けられる。クールな上目遣い……なんて破壊力なんだ。


俺はブラザーの肩に腕を回して、親指を立てる。風太。任せてくれ。俺がエディンバラのすべてを教えてやるからな。


「きゅ、急になんなの……。」

「まあ、一件落着……なのかな?」

「気持ちの悪い男だな」


その日、俺の日常に女神が舞い降りた。

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