1-10. クラブハウスの亡霊
「!」
俺は、背中に視線を感じて振り返った。
「どうかした?」
「い、いや。何でもない」
周囲に人影はない。並んで歩くマルティンが、心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
近頃、クラブハウスにいると不意に誰かに見られているような感覚に陥る時がある。そのたびに辺りを見渡すが、誰かが俺を見ている様子はない。
ユースの頃から長年利用している施設だが、最初に視線を感じたのは1週間ほど前のことだった。その時はさほど気にしていなかったが、ここ数日、どうも視線が近づいて来ているような気がするのだ。マルティンは気にしていないようだし、シーズン開幕まで1週間を切って少し過敏になっているのだろうか。
「ショーン、最近ちょっと疲れてるんじゃない?」
「あ、ああ。言われてみればそうかもな」
俺を気遣ってくれているのだろう。マルティンは、困ったような八の字の眉をさらに下向きにして笑ってみせた。
「練習しすぎだよ。トーマスも、もう少し休んだ方がいいって言ってたよ」
ヘッドコーチのトーマスは、一昨年までユースの監督を務めていた。だから、数少ないユース上がりの俺やマルティンのことをいつも気にかけてくれる。
「わかってる。でも、やっと昇格できたんだ。あいつらの分も頑張らなくちゃ」
俺は、プロ契約できなかったチームメイト達の顔を思い出した。小さい頃から苦楽を共にしてきた仲間たち。U-21に昇格できたやつもいるけど、多くはチームを退団せざるを得なかった。サッカーをやめた奴だっている。
思わず握りしめた手に力が入る。たくさんの屍の上に、俺は立っている。それなのに、毎日トップチームの選手たちについていくだけで精一杯の自分が情けない。思わず、僻みのように呟いてしまう。
「すげぇよな、マルティンは。このままいけば、開幕スタメンだって有り得るんじゃないか?」
「そ、そんなことないよ! 今はたまたま調子がいいだけだって」
マルティンは慌てて謙遜する。でも、現状チームの左サイドバック1番手がマルティンであることは間違いない。虫も殺すことができなそうな見た目とは裏腹に、こいつの運動量とクロスの質は国内のユースでも飛び抜けていた。左サイドバックに絶対的な存在がいないヒーツにおいて、プレシーズンから絶好調のマルティンは救世主のような存在だ。
「僕の場合はチーム状況もあるから……。その点、ショーンは大変だよね」
「……」
そう、俺が置かれている状況はマルティンとは正反対だった。センターミッドフィールダーのポジションには絶対的な存在がいる。ツヨシ・タカトウだ。彼からポジションを奪い取らない限り、俺がレギュラーになることはできない。
しかし、正直なところ彼からポジションを奪うのは難しい。展開力、守備力、空中戦、センターミッドフィールダーに求められるあらゆる点で、俺はまだツヨシに及んでいない。
そもそも、認めたくはないが、ツヨシはこの国のリーグにいるような選手ではない。実現には至らなかったものの、オフシーズンには移籍の噂もいくつかあった。
押し黙ってしまった俺を気遣って、マルティンは話を変えようと手を叩いた。
「そ、そうだ! あの噂、知ってる?」
「噂?」
「そう。実は、このクラブハウス、出るらしいよ」
「で、出るって何が?」
俺は思わず動きを止めた。マルティンは笑顔を絶やさないまま答える。
「何って、出るといえば幽霊に決まってるじゃない」
背中に脂汗が浮かんでくるのがわかった。俺は、あの視線を思い出す。
「ゆ、幽霊って……。冗談だよな?」
「さあね。でも、結構有名らしいよ。僕はここの出身じゃないから詳しくないけど、マクリー大隊の伝説ってあるんでしょ?」
「あ、ああ」
マクリー大隊の伝説。それは、エディンバラ出身者なら誰もが知る英雄譚だった。伝説とはいっても、それほど昔のものではない。時は、第一次世界大戦が始まった1914年に遡る。
冬の初めにドイツとの戦争が始まると、軍人だったマクリー大佐は若者たちに志願を呼びかける。この年のヒーツは開幕から圧倒的な強さで勝利を重ね、優勝を目前に控えていた。そんな状況にもかかわらず、大佐の呼びかけに真っ先に応えたのが、当時のヒーツの主力選手たちだった。そして、祖国の名誉のために立ち上がった選手たちに続いて、多くの若者が軍への入隊を決意し、選手とファンを中心としたマクリー大隊が結成された。
しかし、彼らが投入されたのは、第一次世界大戦最大の会戦となったソンムの戦い。数千万発の砲弾が飛び交う激戦は凄惨な消耗戦となり、多くの若い命が散っていった。
それはマクリー大隊も例外ではなかった。戦闘開始からわずか3日で大隊は壊滅的な被害を受け、500人近くの将兵が戦死・負傷または行方不明となる。その中には10名のヒーツのプレイヤーも含まれていた。
数多くのファンや選手が帰らぬ人となったこの事件はクラブ史上最大の悲劇であると同時に、誇りでもある。この街の人間なら、誰しもが1度は耳にしたことのある伝説だ。
マルティンは、まるでアフリカのシャーマンのように声を潜める。
「その時犠牲になった人たちの霊が、まだヒーツのクラブハウスやスタジアムの周りに彷徨っているんだって」
まさか、と言おうとした声は、掠れて言葉にならなかった。
「彼らは、目にすることの出来なかったヒーツの優勝に未練があるんだって。霊感のある人は、かなり強い思念を感じるらしいよ……」
心当たりはあった。たしかに、あの視線は、ぞっとするほどの昏い感情を孕んでいた気がする。
嫉妬、羨望、そして恐怖。強く仄暗い怨念のような何か。
これらが、戦場で無念にも散っていった戦士たちの胸に残ったものなのだとしたら──
その時だった。
――ま、まただ……。
背後から、あの視線を感じる。
今までよりも、ずっと近く。
全身に寒気が走る。マルティンは、いつものように微笑んだままだ。視線を感じているのは、どうやら俺一人らしかった。
──くそ……! いままでオカルトの類には縁はなかったはずなのに……!
心の中で毒づいてみるが、喉はからからに乾き、足の震えが止まらない。恐怖に染まる俺の顔は、マルティンにはどう見えているのだろうか。
「……ネ……ロウ……ロウヨ……ダチ……」
小さく、掠れた声が背後から聞こえる。俺は息を呑んだ。破裂しそうなくらい動悸は速くなっているのに、俺は逃げ出すことも、振り向くこともできない。
──助けてくれ、マルティン。
──助けてくれ、誰でもいいから。
出かかった声は、恐怖で喉につまる。
ぴとり
冷たい感触。誰かの手が、首筋に触れた。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「うわぁぁぁ! な、なにぃ!?」
俺は断末魔のように叫んだ。記憶は、そこで途切れている。




