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第91話「シャングリア条約と、ルークの欠席」

シャングリア大陸滞在、四ヶ月と三日。地熱タービン二号基が安定稼働に入ったのは昨日の午後二時。実測変換効率66.3%。一号基の64.8%と合わせて、浮遊都市の総魔力消費量の九十七%を代替する数値に達した。


鍵盤は、今朝八時をもって全面停止された。


B区画の二十八人の子どもたちの管が外され、A区画の成人労働者百四十二名の管が外され、C区画以下の全施設の電源が落とされた。三百年間、一日も止まらなかった装置が沈黙した。


停止の瞬間、浮遊都市がわずかに揺れたという。上位民の何人かが悲鳴を上げた。しかし、都市は落ちなかった。地熱タービンの送電線が、鍵盤に代わって都市を支えている。何事もなかったかのように、噴水は流れ、花は咲き、結晶の街路は光を反射し続けた。


変わったのは——その光の源が、人の命ではなくなったということだけだ。


* * *


鍵盤停止から三日後。浮遊都市の白鳳の間。


二つの大陸の代表者が、長い机を挟んで向かい合っていた。


片側に、シャングリア大陸。レイン・シャングリア宗家当主が中央に座り、その左右に七大家門の代表が並ぶ。保守派の席は三つが空席だった。鍵盤停止に反対した三家門は、署名を拒否して欠席している。残る四家門と宗家の計五名が、シャングリア側の署名者だった。


もう片側に、エンドレア大陸。中立都市群の外交代表カイゼル・ヴェーバーが中央に座り、赤牙艦隊の頭目ガルド・レッドファング、ドワーフ鍛冶師代表ギムリ、そして——アリス・クラウディアが、サンアンド領の全権代理として着席していた。


机の上に、羊皮紙の束が置かれている。


「シャングリア条約」全三十七条。



第一条から第十条は基本的人権と労働条件。一日の労働時間上限は八時間、週休二日、有給休暇年二十日。サンアンド領と同じ基準だ。これに加えて、シャングリア固有の条項が続く。


第十一条。生体魔力の搾取の全面禁止。いかなる装置、方法、名目においても、人体から魔力を強制的に抽出することを禁ずる。違反者には大陸間合同裁判所による裁きを適用する。


第十二条。番号制度の段階的廃止。全下位民に対し、十二ヶ月以内に本名または自選名を登録する権利を保障する。番号による呼称は、条約発効日から二十四ヶ月以内に全面廃止する。


第十三条。地熱エネルギー管理機構の設立。タービンの運用・保守・拡張を、上位民・下位民の共同組織が管理する。技術指導はレイラ・ヴォルフスタッドが統括し、サンアンド領から品質管理の手法を導入する。


第十四条。教育権の保障。全ての子どもに読み書きと基礎魔法の教育を無償で提供する。教育施設の建設費用は、七大家門が均等に負担する。


ザックが書いた。全三十七条。レイラが技術条項を監修し、アリスがカイゼルと交渉して外交条項を詰め、ユイがシャングリアの文化と制度に関する注釈を加えた。


* * *


署名式は午前十時に始まった。


白鳳の間の天井は空に開かれ、シャングリアの青空が条約の証人となっていた。レインが最初にペンを取り、宗家当主として署名した。続いて四家門の代表が順に名を記し、エンドレア側はカイゼル、ガルド、ギムリが署名した。


最後に、アリスがペンを取った。


サンアンド領全権代理。ルーク・サンアンドの名代として、アリス・クラウディアが署名する。ペン先が羊皮紙に触れる瞬間、アリスの手がわずかに震えた。しかし、文字は震えなかった。


「——署名、完了しました」


白鳳の間に、静かな拍手が響いた。


レインが立ち上がり、条約の発効を宣言した。言葉は短かった。


「本日をもって、シャングリア条約は発効する。この大陸の歴史が、今日から変わる。——変えるのは、我々自身だ」


拍手が大きくなった。カイゼルが頷き、ガルドが豪快に笑い、ギムリが石の拳で机を叩いた。レイラは末席で涙を拭いていた。ユイは——ユイは泣かなかった。ただ、右腕の刻印を左手でそっと押さえていた。紫がかった白い光が、祝福するように一度だけ瞬いた。


ザックは最前列で、羊皮紙に議事録を書いていた。ペンが止まらなかった。書くべきことが多すぎた。


式が終わり、参列者が退場する中、アリスはレインに歩み寄った。


「レイン殿。一つ、お伝えしなければならないことがあります」


「なんだ」


「本日の署名式に、ルークは出席しておりません。全権代理として私が署名しましたが、ルーク本人は——」


「知っている」


レインの表情が、わずかに変わった。三ヶ月前、ルークを「魔力のない男」と見下した時の冷たさは消えていた。代わりにあるのは——困惑に近い何かだった。


「あの男は、どこにいる」


「中継島です。——昼寝をすると言っていました」


レインは三秒ほど沈黙し、それから、小さく息を吐いた。


「……変わった男だ」


「はい。——ですが、あの人はいつもそうです。自分が作った仕組みを、自分の手柄にしない。署名式のような場には出ず、他人に任せる。そして——任せた相手を、信じる」


「信じる、か」


「いえ——本人は『信じた覚えはない、確認しただけだ』と言うと思います」


レインは何も言わなかった。ただ、条約の羊皮紙に目を落とし、アリスの署名を見つめていた。


* * *


同時刻。中継島。


航海七日目に発見した、あの無人島だ。白い砂浜と珊瑚礁、椰子に似た木々、透き通った海。ザックが基礎工事だけ済ませた桟橋と、三棟の小屋の骨組みがある。リゾートの完成にはほど遠いが、ハンモックだけは吊るしてある。


ルークはそのハンモックに揺られていた。


ハンモックの方が、風を通す。シャングリアからの帰路、単身で中継島に寄った。他の四人は浮遊都市に残した。署名式のために。


目を閉じている。波の音が聞こえる。風が椰子の葉を揺らす音。遠くで海鳥が鳴いている。


何も考えていなかった。


条約のことも。鍵盤のことも。タービンのことも。——何も。


これが「休む」ということだと、ルークは三年かけて学んだ。頭を止めること。未来を計算しないこと。過去を検証しないこと。ただ——今、ここにいること。波の音を聞いて、風を感じて、ハンモックに揺られること。


前の世界の田中修には、これができなかった。布団の中で天井を見つめながら、来週の会議のことを考えていた。目を閉じても頭が止まらなかった。止められなかった。


今は——止められる。


完全にではない。時々、思考の断片が浮かんでくる。ザックの報告書の誤字。アリスの署名の筆跡。レイラの始末書がまだ提出されていないこと。ユイの刻印の色の変化。ヴォルフが最後に見せた、少しだけ遅い足取り。


しかし、浮かんでは消える。消えるに任せる。

「……面倒だ」


呟いた。誰に向けたわけでもない。条約が面倒なのか、昼寝が面倒なのか、自分でもわからない。たぶん、全部だ。全部面倒で——全部、終わった。第二章が終わった。鍵盤は止まった。条約は結ばれた。名前が戻る。子どもたちが笑う。


やるべきことは、やった。


「……でも、いい天気だな」


目を開けた。


中継島の空は、どこまでも青かった。雲一つない。太陽が真上にあり、海面がきらきらと光を反射している。白い砂浜に波が打ち寄せ、引いていく。その繰り返し。


ポケットの中で——何かが、光った。


ルークは目を細めた。ハンモックから手を伸ばし、ポケットに手を入れる。指先に触れたのは、小さな金属片。転移した日から、ずっと持っている。ガチャのカプセルの中に入っていた次元転移キー。


再チャージまでの残り時間が、


——残り五ヶ月。


ルークはキーを指先で弾いた。くるりと回転し、太陽の光を受けて一瞬だけ虹色に光った。それから、ポケットに戻した。


五ヶ月。あと五ヶ月で——このキーは再び使えるようになる。


使えるようになったとき、何が起きるのか。どこに繋がるのか。元の世界に戻れるのか。あるいは——紫色の空に、飛ばされるのか。


白い椅子。誰も座っていない、白い椅子。


考えるのは——明日にしよう。


ルークは目を閉じた。ハンモックが揺れている。波の音が子守唄のように、規則正しく繰り返されている。


眠りに落ちる寸前、ポケットの中で次元転移キーがもう一度——かすかに、光った。


ルークは気づかなかった。



最後までお読みいただきありがとうございます。


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