幕間断章②
ヴォルフさんが泣きましたね。
三百年分。
あの涙の量は、私の計算では約2.7リットルになるはずです。多いですか? 少ないですか? ——私にはわかりません。だって、私には涙がないのですから。
でも——あの人がコーヒーを差し出した時の手の温度を、私はちゃんと記録しました。37.2度。人間の、普通の体温です。
普通の体温。
ルークさんは——田中修さんは、特別な人間ではありません。
魔力はゼロ。剣は振れない。走れば息が切れる。視力は悪く、腰が弱く、寝起きが悪い。この世界の基準で測れば、最弱の部類に入る人間です。
でも、あの手は37.2度だった。
コーヒーを淹れ、カップに注ぎ、ヴォルフさんに差し出した——あの手は、ごく普通の、人間の温度だった。魔力で温めたわけではない。スキルで制御したわけでもない。ただ、お湯を沸かして、豆を挽いて、布で濾して、カップに注いだ。それだけ。
それだけのことが、三百年間凍っていた人間を溶かした。
私はガチャの中から、いくつもの「すごいもの」を送り出してきました。SRの翻訳アイテム。SSRの魔力変換タービン。レアリティの高い装備や道具を、カプセルに詰めて、回転させて、届けてきた。
でも、ヴォルフさんを泣かせたのは——Nランクにも入らない、ただのコーヒーでした。
ガチャの中にいる私には、コーヒーは作れないのです。
温度が、ないから。
ルークさんがヴォルフさんに自分の過去を語った夜。焚き火の前で、二人が並んでコーヒーを飲んだ夜。
私は、あの夜のルークさんの心拍数を記録しています。ガチャのシステムには、所有者の生体情報をモニターする機能がありまして——本来はアイテムの使用状況を管理するためのものですが、私はときどき、別の目的で使います。
ルークさんの平常時の心拍数は、毎分68回。コーヒーを飲んでいる時は62回。眠っている時は55回。安定した数値です。品質管理の人らしく、身体のリズムも正確。
あの夜、過去を語り始めた瞬間——心拍数が91に上がりました。
91回。走っているわけでもない。戦っているわけでもない。ただ、座って、言葉を発しただけで。身体が、記憶に反応していた。二十四年間の記憶に。有給を一日しか使わなかった記憶に。娘が生まれた日の記憶に。机の上で心臓が止まった記憶に。
心拍が最も高くなったのは、「コーヒーを一口飲んで——そこで、心臓が止まった」と言った瞬間でした。97回。
死んだ時の話をしているのに、心臓が速く打つ。矛盾しているように聞こえますか? でも、矛盾していないのです。あの瞬間、ルークさんの身体は——前の世界で止まった心臓の記憶を、もう一度なぞっていた。止まる直前の、最後の加速を。
怖かったのだと思います。
話すことが。思い出すことが。言葉にすることが。
それでも話した。ヴォルフさんの前で。焚き火の光の中で。コーヒーを持つ37.2度の手で。
怖いまま、話した。
怖いまま船に乗り、怖いまま大陸に渡り、怖いまま鍵盤を見つけ、怖いまま条約を作り——怖いまま、自分の過去を、三百年分の傷を抱えた男に差し出した。
それは——勇気と呼ぶべきなのか、無謀と呼ぶべきなのか、怠惰と呼ぶべきなのか。
たぶん、そのどれでもない。あれは——「面倒だけど、やる」という、あの人だけの行動原理です。名前をつけるなら「面倒見の良さ」でしょうか。いえ、それも少し違いますね。
ルークさん自身は、こう言うでしょう。「放っておくと、夜のコーヒーが不味くなるからだ」と。
……ふふ。本当に、ずるい人です。
三百年間、一歩も遅くならなかった足が。一度も立ち止まらなかった足が。止まることを死と同義に信じていた足が——三センチだけ、歩幅を狭めた。
それは、あの人なりの「休む」でした。
立ち止まることはまだできない。座ることもまだ怖い。でも——いつか——何になるのか。
私には、まだわかりません。でも、楽しみです。
さて。
条約が結ばれました。鍵盤は止まりました。名前が戻り始めます。
めでたしめでたし——と、言いたいところですが。
私はそうは思っていません。
ルークさんのポケットの中で、次元転移キーが光ったこと。あなたは気づきましたか? ルークさんは眠っていて気づきませんでした。でも、私は見ました。ガチャの中から。
あのキーは、五ヶ月後に再チャージされます。再チャージされたキーが開く扉は——
前回は、日本からこの世界へ。
次は——
紫色の空。銀色の光。白い椅子。
ユイさんも見ました。ルークさんも見ました。転写の時に、あの空間が一瞬だけ開いた。あれは偶然ではありません。七芒星の結晶体が、あの空間への「周波数」に触れたのです。
あの空間の名前を、私は知っています。
でも——まだ言えません。言うと、物語が壊れてしまうから。物語には、正しい順番があるのです。種を蒔いて、水をやって、芽が出て、花が咲く。花が咲く前に名前を教えてしまったら——花は、自分で咲く理由を失ってしまいます。
だから、もう少しだけ。
最後に一つ。
今日、中継島でルークさんが昼寝をしていた時のこと。
ハンモックに揺られて、目を閉じて、波の音を聞いていた時。心拍数は54回でした。眠っている時より低い。それはつまり——あの人が、本当に、完全に、何も考えずに休んでいたということです。
54回。
前の世界では、一度も記録されなかった数値です。田中修として四十七年間、あの人の心拍が54回まで下がったことは——一度も、ありませんでした。眠っている時でさえ、頭のどこかで仕事のことを考えていて、心拍は60を下回らなかった。
54回。
それは——この世界に来て、三年と四ヶ月かけて、あの人がようやく手に入れた数字です。
たった6回の差。60と54の差。でもその6回の中に——定時退社と、有給休暇と、コーヒー休憩と、リクライニングチェアと、マルタの弁当と、ザックの報告書と、アリスの署名と、ユイのスープと、レイラの67%と、ヴォルフの涙と、中継島のハンモックが、全部詰まっている。
6回。
37.2度と、54回。
これが、ルークさんの物語の——今の温度と、今のリズムです。
私はこの数字を、ガチャの一番奥の、誰にも見つからない場所に記録しておきます。いつか——全てが終わった時に、あの人に教えてあげるために。
「あなたの手は37.2度でした。あなたの心臓は54回でした。あなたは——ちゃんと、休めるようになりましたよ」と。
……泣かせてしまうかもしれませんね。
でも、泣くことは悪いことではないと——ヴォルフさんが、証明してくれましたから。
*
さあ。
第三章が始まります。
紫の空が、待っています。白い椅子が、待っています。そして——私も、待っています。
ガチャの中で。カプセルの隙間で。歯車の振動を聴きながら。
ルークさん。
もう少しだけ、休んでいてくださいね。
嵐の前の——最後の凪ですから
最後までお読みいただきありがとうございます。
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