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第89話「レイラの覚醒と、壁を超えて」

深夜二時。プラント管理棟。


管理棟と呼んではいるが、実態は溶岩を削った三畳ほどの穴蔵だ。机と椅子と棚を押し込んだだけの空間に、結露が浮き、魔法灯が薄暗く揺れている。


レイラ・ヴォルフスタッドは、その机に突っ伏していた。


「——23%。23%。23%」


広げた羊皮紙の上に、七年分の数式が敷き詰められている。地熱エネルギーから魔力への変換理論。結晶体の角度を0.1度単位で調整し、蒸気量を変え、回路の抵抗値を削り、あらゆる改良を尽くした。結果——23.1%。一度だけ23.2%に触れたが、すぐに戻った。


壁だった。


七年前、三度目に却下された論文の最終章に、レイラ自身がこう書いていた。「結晶体単体を媒介とする場合の理論上限は約23%。これを超えるには、結晶体の構造そのものを変革する——あるいは、まったく異なる媒介系を導入する必要がある」


七年前の自分は正しかった。正しかったが、「異なる媒介系」が何なのかは書けなかった。わからなかったからだ。


ルークの就業規則では二十二時以降の作業は禁止。チーム加入時の条件「一日八時間の睡眠」も、すでに四時間破っている。


それでも、やめられなかった。


鍵盤B区画の子どもたち二十八人。月四回の接続で、一回あたり0.3年の寿命が削られる。タービン七基の建設には八ヶ月かかる。八ヶ月で約十年分の寿命消耗。五歳のリュカは——計算したくなかった。計算したくなかったが、レイラは研究者だ。数字から目を逸らすことが、できない。


壁を越えなければ。


レイラは顔を上げ、数式を睨んだ。六面体の結晶構造。内部の魔力回路は放射状に六本。エンドレア大陸の標準的な魔法結晶と同じ、六芒星の対称性。


六。この数字が壁の正体だった。六本の回路が同時に振動すると、特定の周波数で共鳴し、エネルギーが熱として再放出される。偶数対称が生む構造的な限界。


では——七なら、どうか。


ペンが止まった。


七面体。七本の回路。七芒星の対称性。エンドレア大陸には存在しない構造。文献にも登場しない。ただ一つを除いて——ザックが模写した、ユイの右腕の刻印。


棚の奥から四部目の模写を引き出す。七つの頂点。中心の七つの点。外側が開いた構造。頂点間の角度、約51.4度。中心からの距離比率。線の傾斜角。これらをパラメータとして、六面体の方程式を七面体に組み替える——


手が止まらなかった。七年間バラバラだったパズルのピースが、七芒星を軸にして次々とはまっていく。六では成立しなかった式が、七に置き換えた瞬間に解ける。歯車が噛み合うような感覚。


結果が出た。


理論変換効率——67%。


三度やり直した。67.2%。67.4%。66.8%。誤差範囲内。平均67%。鍵盤の4%の約十七倍。現行タービンの約三倍。一基で浮遊都市の約半分を賄える。二基あれば——鍵盤は完全に不要になる。建設期間、百二十日。四ヶ月。


レイラは椅子から立ち上がり——そのまま膝から崩れた。七年間の重圧が一気に溶けて、足が身体を支えることを拒否した。


床に座り込んだまま、涙が出た。悔しさではなく、安堵だった。三度却下された論文。凍結された研究費。異端と呼ばれた日々。間違っていなかった。足りなかったのは、七芒星だけだった。


三度目の挑戦で、ようやく立ち上がった。


* * *


午前四時半。作業小屋。


リクライニングチェアで毛布にくるまっていたルークが、片目を開けた。


「何時だ」


「四時半です。就業規則違反です。すみません。——でも、23%の壁を越えました」


ルークの両目が開いた。


「数値は」


「67%。理論値です。結晶体を六面体から七面体に変える必要があります。鋳型にはユイさんの刻印のパラメータが要ります。——ただ、転写の過程で刻印に負荷がかかる可能性があり、最悪の場合、刻印が消失します。ユイさんの身体への影響は——正直、わかりません」


「—ただし、決めるのはユイだ。リスクを全部説明した上で、ユイが自分で選ぶ。それが俺のやり方だ」


「はい」


「就業規則違反の始末書は後で出せ。それと今日は半休。午前中は寝ろ」


「……始末書と半休が同時に来るんですね」


「67%を出した直後に倒れられたら困る。頼むから寝てくれ」


* * *


午後一時。管理棟に五人が集まった。


レイラが三十分かけて説明した。数式も、リスクも、何一つ隠さなかった。


説明が終わると、ユイが左腕の袖をまくった。青白い七芒星が浮かんでいる。


「この刻印は、シャングリア宗家の直系にだけ受け継がれるものです。何の鍵かは誰にもわかっていませんでした。——でも今、少しだけわかった気がします。この大陸を、鍵盤から解放するための鍵だったのかもしれません」


「ユイさん、リスクが——」


「知っています」ユイの声は揺るがなかった。「B区画にリュカという子がいます。五歳です。今朝、スープを届けたら初めて笑ったんです。名前を呼ばれるのが嬉しいって。——あの子の笑顔を守れるなら、腕の刻印一つで迷う理由がありません」


ルークだけが、表情を変えなかった。


「確認する。強制されていないか」


「されていません」


「後悔しないか」


「わかりません。——でも、選ばなかった後悔の方がきっと重いです」


三秒の沈黙。頷き。


「わかった。——レイラ、七芒星結晶体の製作工程表を三日で作れ。ザック、スケジュール統合。アリス、高純度魔石の調達ルートを最低三箇所確保。ユイ、明日から刻印の詳細計測を開始。ただし一日四時間が上限、体調に異変を感じたら即中断。これは命令だ」


「「「「はい」」」」


「それとザック、明日からB区画のスープ配達を引き継げ」


「……了解であります。作り方はユイ殿に教わります」


* * *


夕方。見晴台。


ノルドゥスの稜線に夕日が沈みかけている。蒸気が夕焼けに染まり、空に橙と紫の境界線が引かれていた。


ルークは一人でコーヒーを飲んでいた。


67%。この数字が実証されれば、鍵盤は不要になる。搾取は根拠を失い、番号制度は存在理由を失い、名前が戻る。0041号の老人に。リュカに。二十八人の子どもたちに。


その全てが、レイラの七年とユイの右腕とザックの報告書とアリスの外交の上に乗っている。


俺がやったのは——机と椅子とコーヒーを用意しただけだ。


それがマネジメントだと、前の世界の田中修は知らなかった。


コーヒーを飲み干し、カップを置いた。定時退社の時間だ。明日は朝のコーヒーから始める。いつも通りに。いつも通り——一歩ずつ。

最後までお読みいただきありがとうございます。


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