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第88話「コーヒーと沈黙——」

溶岩台地の、同じ岩の上だった。


ルークは前回と同じ場所に座っていた。違うのは、隣にリクライニングチェアを置いていることと、手元にコーヒー豆があることだった。ザックが「最優先補給品目」として手配した豆は、中立都市群の商船に載って、今朝プラントに届いた。サンアンド領産ではない。シャングリア南部の火山灰土壌で育った、見知らぬ品種。


ルークは届いた袋を開けて匂いを嗅ぎ、三秒間黙り、「悪くない」とだけ言った。


今、その豆を挽いている。


携帯式の魔法火は安定して燃えている。湯が沸く音。豆を潰す音。それ以外は、風の音だけ。


ヴォルフは、約束通り来た。


前触れはなかった。足音だけが、夜の溶岩台地に低く響き、巨大な影が焚き火の光の中に滑り込んできた。前回と同じ灰色の外套。同じ灰白色の髪。同じ赤い残り火の瞳。


違うのは——武器を持っていないことだった。


あの巨大な戦斧を、今夜は置いてきていた。


ルークはそれに気づいたが、何も言わなかった。視線を豆に戻し、挽き終わった粉を布で濾す準備を始めた。


「座れ」


「……ああ」


ヴォルフが岩に腰を下ろす。前回と同じ軋み。前回と同じ距離。焚き火を挟んで、二人分の影が溶岩台地に伸びた。


ルークはコーヒーを淹れた。二杯分。一杯をヴォルフに差し出し、もう一杯を自分の手に取った。今夜は、自分の分もある。


「——飲め」


「……また苦いのか」


「品種が違う。試してみろ」


ヴォルフがカップに口をつけた。一口含み、眉をわずかに動かした。


「……前と違うな。少し——丸い」


「火山灰の土壌で育った豆だ。酸味が弱くて、後味に甘みが残る。——サンアンド領の豆より、お前には合うかもしれない」


「コーヒーに詳しいな」


「詳しくはない。ただ、長く飲んでいるだけだ」


沈黙が降りた。


焚き火が爆ぜる。小さな火花が舞い上がり、夜空に溶けて消えた。遠くで火山ノルドゥスの地鳴りが低く響いている。地熱タービンに蒸気を送り続ける、大地の脈動。


二人は黙ってコーヒーを飲んだ。


一分。三分。五分。


ルークは焚き火を見ていた。炎の揺らぎを目で追いながら、何を考えているのか、自分でもよくわからなかった。隣に座っている男の呼吸が聞こえた。深く、重く、規則正しい。三百年分の肺活量が、夜気を吸い込んで吐き出していた。


ルークが口を開いた。


「——ヴォルフ」


「なんだ」


「前回、お前の話を聞いた。だから——今夜は、俺の話をする」


ヴォルフはカップを持ったまま、視線だけをルークに向けた。


ルークは焚き火を見つめたまま、話し始めた。


* * *


「——俺は、前の世界で『田中修』という名前だった」


声は平坦だった。報告書を読み上げるような、いつもの調子。感情を乗せない話し方。それがルークの——田中修の、身を守る方法だった。感情を出さなければ、傷つかない。平坦でいれば、壊れない。そうやって生きてきた。


「メーカーに勤めていた。——この世界で言えば、工房の品質管理の担当だ。製品に欠陥がないか検査し、手順書を作り、報告書を書く。地味な仕事だ。剣も魔法も使わない。ただ、書類の山と向き合い続ける」


ヴォルフは黙って聞いていた。


「入社したのは二十三歳の時だ。最初の三年は、まだ——悪くなかった。先輩がいた。教えてくれる人がいた。仕事の意味も、なんとなくわかっていた。品質を守ることで、誰かの安全を守っている。そう思えた」


コーヒーを一口。


「変わったのは、四年目からだ。先輩が辞めた。上司が代わった。新しい上司は——数字だけを見る人間だった。製品の品質ではなく、コスト削減の数字。検査時間の短縮。人員の削減。報告書のページ数を減らせと言われた。品質の話をすると、『それは売上に貢献するのか』と聞かれた」


焚き火の炎が、ルークの横顔を照らしていた。四十七年分の疲労は、この世界に来て三年経っても消えていなかった。消えるものではないのだろう。身体は若返っても、記憶は若返らない。


「俺は——何も言わなかった。言えなかった。反論すれば角が立つ。角が立てば評価が下がる。評価が下がれば、窓際に追いやられる。——いや、追いやられたところで、俺はすでに窓際だったんだがな」


自嘲。しかし、笑い声にはならなかった。


「朝の八時に出社して、夜の十一時に退社する。毎日。月曜から金曜。土曜も、だいたい出ていた。日曜は——日曜は、書類を家に持ち帰っていた。まだパソコンが普及する前の時代はそうだった。パソコンが普及してからは、家のパソコンで仕事をした。同じことだ。場所が変わっただけで、仕事は終わらなかった」


「……」


ヴォルフの指が、カップの縁で止まった。


「たった一日。娘が生まれた日だ。——まあ、正確に言えば、その日も午後から出社したから、半日だな。妻が陣痛で苦しんでいる間も、頭の中では午後の会議の資料のことを考えていた。最低の夫で、最低の父親だった。自覚はあった。自覚はあったが——止まれなかった」


止まれなかった。


「理由はお前と同じだ、ヴォルフ。止まったら終わると思っていた。何が終わるのかは、具体的にはわからなかった。クビになるのか。評価が下がるのか。同僚に馬鹿にされるのか。——いや、違うな。本当に怖かったのは、そういうことじゃない」


ルークは初めて、焚き火から目を離した。夜空を見上げた。シャングリアの星は、日本の星より近い。手を伸ばせば届きそうなほど、近い。


「止まったら——自分が何者でもなくなる気がした。田中修という人間は、書類を処理し続けることでしか存在を証明できない。止まったら、誰でもない、何でもない、空っぽの——ただの疲れた中年になる。それが、怖かった」


沈黙。


長い沈黙。


焚き火が爆ぜた。


ヴォルフが、初めて自分から口を開いた。


「……同じだ」


低い声。三百年分の重みを持った、しかし、たった二文字の言葉。


「俺も——止まったら、0001号に戻ると思った。名前のない、番号だけの、空っぽの——燃え殻に。戦い続けている間だけ、『ヴォルフ・ディートリヒ』でいられた。不死の将軍。それが俺の——存在証明だった」


「ああ」


「お前が書類なら、俺は戦斧だ。お前が会議室なら、俺は戦場だ。場所が違うだけで——鎖は同じだった、ということか」


「同じだ」


ルークはコーヒーを飲んだ。半分ほど残っていた液体が喉を通り、胸の奥に落ちた。まだ温かかった。


「二十四年目の冬だった。——十二月。年末の棚卸しの時期だ。書類の処理が終わらなくて、三日間、ほとんど寝ずに会社にいた。四日目の朝、立ち上がろうとしたら——立てなかった」


「……」


「足が動かないんじゃない。立つ、という動作の手順がわからなくなった。身体が拒否していた。脳は『立て』と命令しているのに、身体が『もう無理だ』と答えていた。——その日、初めて早退した。家に帰って、布団に入って、三十六時間眠った。目が覚めたとき、妻が隣に座っていた。何も言わなかった。ただ、座っていた」


ルークの声が、わずかに——本当にわずかに——震えた。しかし、すぐに平坦に戻った。


「医者に行った。過労だと言われた。休めと言われた。——休み方がわからなかった。布団の中で天井を見つめながら、ずっと考えていた。来週の会議のことを。月末の報告書のことを。身体は横になっているのに、頭が止まらなかった」


「わかる」


ヴォルフの声が重なった。小さく、しかし確かに。


「わかるんだ、それは。——俺も、戦がない夜でも、頭の中では次の戦の陣形を考えている。目を閉じても止まらない。三百年間、一晩も——一晩も、何も考えずに眠ったことがない」


「ああ。——同じだ」


二人は同時にコーヒーを飲んだ。偶然だった。しかし、その偶然が、二人の間の空気を少しだけ——ほんの少しだけ——柔らかくした。


* * *


「結局、俺は二週間で復帰した」


ルークの声が続いた。


「医者は一ヶ月休めと言った。妻も休めと言った。でも——復帰した。会社に行かないことの方が、行くことより苦しかったからだ。おかしな話だろう。身体を壊した原因に、自分から戻っていく。——中毒と同じだ。仕事という名の中毒。働き続けることでしか、自分を保てない」


「……そして、死んだのか」


「すぐにじゃない」


ヴォルフの眉が動いた。


コーヒーを一口飲んで。


その言葉が空気に残った。


ヴォルフは、自分の手の中にあるカップを見下ろした。黒い液面に、焚き火の光が揺れていた。



四十七年。


自分の三百年に比べれば、短い。短いはずだ。しかし——その四十七年の中身の密度が、ヴォルフの三百年とまったく同じ色をしていた。灰色。出口のない灰色。止まれない灰色。休めない灰色。自分の価値を証明し続けなければ消えてしまうという恐怖の灰色。


同じだった。


規模が違う。時間が違う。世界が違う。しかし——同じだった。


「お前……も、だったのか」


「ああ」


「お前も——休めなかったのか」


「休めなかった。休み方を知らなかった。——お前と、同じだ」


* * *


焚き火に、薪を足した。


新しい炎が立ち上がり、二人の影が大きく揺れた。溶岩台地の夜は寒い。標高千二百メートルの空気は、焚き火から離れた肌を容赦なく冷やす。


ルークは二杯目のコーヒーを淹れ始めた。ヴォルフのカップはすでに空になっていた。


「だから——この世界で、俺は『怠ける方法』を作った」


湯を注ぎながら、ルークは言った。


「前の世界では作れなかった。作る余裕がなかった。作ろうという発想すらなかった。怠けることは悪だと——弱さだと、思い込んでいた。上司にも、社会にも、そして自分自身にも、そう教え込まれていた」


布フィルターを通して、黒い液体がカップに落ちていく。


「やったのは定時退社の宣言だ。朝は九時に始めて、夕方五時に終わる。残業はしない。休日は休む。有給は使う。——周りの連中は笑ったよ。」


二杯目を、ヴォルフに渡した。


「怠けることは、弱さじゃない。生き延びるための、最強の戦略だ」


ヴォルフはカップを受け取った。しかし、口をつけなかった。両手でカップを包んだまま、ルークの顔を見ていた。赤い残り火の瞳が、焚き火の光を反射して、かすかに揺れていた。


「戦略……だと?」


「そうだ。前の世界で俺が学んだことは一つだけだ。——『壊れたら終わり』。どれだけ優秀な機械でも、メンテナンスをしなければ壊れる。どれだけ強い兵士でも、休息を取らなければ倒れる。俺の前の世界には、品質管理という学問がある。その基本中の基本は——『予防保全』だ。壊れてから直すのではなく、壊れる前に休ませる」


「……」


「お前の軍はどうだ、ヴォルフ。兵士に休息を与えているか」


ヴォルフは答えなかった。答える必要がなかった。


「お前は自分が三百年間休まなかったことを、強さだと思っているだろう。——俺も、四十七年間休まなかったことを、勤勉だと思っていた。だが違う。あれは強さでも勤勉でもない。ただの——壊れ方だ。ゆっくりと、自覚なく壊れていく、最も残酷な壊れ方だ」


ルークはコーヒーを飲んだ。三秒。目を閉じ、肩の力を抜く。あの三秒。


「怠けることを覚えろ、ヴォルフ。休むことを覚えろ。それは——お前自身を、メンテナンスするということだ。三百年間メンテナンスされていない機械を、俺は見たことがない。よく持ったと言ってやりたいところだが——もう限界だろう」


「——限界、だと」


ヴォルフの声が低くなった。怒りではなかった。怒りに似た何かだった。しかし、その正体は——恐怖だった。図星を突かれた恐怖。


「限界じゃない。俺は——まだ」


「お前の目を見れば、わかる」


ルークは静かに言った。


「中身が壊れかけている時の——目の奥の光の消え方を、俺は知っている」


「…………」


沈黙。


長い沈黙。


焚き火の爆ぜる音だけが、溶岩台地に響いていた。


ヴォルフの手が——震えていた。


その手から——カップが滑り落ちた。


岩の上に落ちたカップが横倒しになり、黒い液体が溶岩の表面を伝って流れていった。ヴォルフは拾わなかった。拾えなかった。両手が膝の上に落ち、拳が握られ、開かれ、また握られた。


「……お前も、だったのか」


同じ言葉を、もう一度。しかし、今度はまったく違う響きだった。確認ではなく、嘆きだった。


「お前も——同じだったのか。止まれなかったのか。休めなかったのか。怖かったのか。空っぽになるのが怖かったのか。——俺と——同じだったのか」


「ああ」


「お前は——俺のことが、わかるのか」


「わかる」


「わかるんだ、ヴォルフ。お前の三百年を、全部わかるとは言わない。俺には俺の四十七年しかない。だが——止まれない恐怖は、わかる。休めない苦しみは、わかる。空っぽの自分と向き合う怖さは——痛いほど、わかる」


ヴォルフの肩が、震えた。


「だから」ルークは言った


焚き火の向こうで崩れかけている巨人に向かって、静かに、しかしはっきりと。


「怠けることを覚えろ。休むことを覚えろ。怠けることは弱さじゃない。——生き延びるための、最強の戦略だ」


「最強の——」


「お前は三百年間、一度も負けなかったんだろう。だが——自分自身との戦いには、三百年間負け続けている。休むことから逃げ続けている。それは、敗走だ。怠ける勇気を持て。止まる勇気を持て。それが——本当の意味での、最初の勝利になる」


ヴォルフの呼吸が乱れた。


深く吸い、震えて吐き、また吸い、また震えた。巨体が——三百年間一度も折れなかった巨体が、小さく、丸くなった。肩が落ち、頭が垂れ、拳が開いた。


そして——


ヴォルフ・ディートリヒの頬を、一筋の光が伝った。


涙だった。


焚き火の光を受けて、橙色に光る、一筋の涙。


それは、三百年ぶりの涙だった。最初の下位民0001号として鍵盤に繋がれた十二歳の冬以来、一度も流さなかった涙だった。泣くことは弱さだった。泣くことは止まることだった。だから泣かなかった。三百年間。


一筋が、二筋になった。二筋が、頬を越えて顎に達し、顎から岩の上に落ちた。


落ちた涙が、先ほどこぼれたコーヒーの染みの上に重なった。


三筋目は、声を伴った。


「——ぅ」


短い、押し殺された声。呻きとも嗚咽ともつかない、壊れかけた音。三百年間使っていなかった感情の回路が、錆びた蛇口のように、軋みながら開いていく音だった。


ヴォルフは両手で顔を覆った。巨大な手が、戦場で何千もの命を奪ってきた手が、今は自分の涙を隠すために使われていた。


「……すまない」


搾り出すような声。


「すまない——泣き方を——忘れていた。こう、すればいいのか——これで——合っているのか——」


「合っている」


ルークは動かなかった。立ち上がりもしなかった。背中を叩きもしなかった。肩に手を置きもしなかった。


ただ、座っていた。


同じ焚き火の前で。同じ夜空の下で。三百年分の涙が枯れるまで——ただ、座っていた。


それだけが、田中修にできる——ルークにできる、唯一の正しい行動だった。


泣いている人間に必要なのは、言葉ではない。助言でもない。解決策でもない。


隣に、誰かがいること。


その人が、逃げないこと。


ただ——それだけだ。


* * *


どのくらい時間が経ったか。


焚き火の薪が半分ほどに減っていた。おそらく、三十分。あるいはそれ以上。


ヴォルフの嗚咽が、少しずつ静まっていった。波が引くように。三百年分の波が、ゆっくりと、ゆっくりと引いていった。


やがて、ヴォルフが顔を上げた。


目が赤かった。赤い残り火の瞳が、涙で潤んで、焚き火の光を反射して、今までとは違う——温かい赤に変わっていた。


「……ルーク」


「ああ」


「俺は——まだ、お前の側には立てない。三百年かけて作ったものを壊す覚悟は、まだ——」


「知っている。前にも聞いた」


「充分だ」


三杯目をヴォルフに渡した。


「朝食三十分の延長は、いい判断だ。——兵にとっては、三百年ぶりの有給休暇に等しい」


「大袈裟だ」


「大袈裟じゃない。——変化は、いつも小さなところから始まる。サンアンド領もそうだった。それだけで、街が変わり始めた」


ヴォルフは三杯目を飲んだ。今度はこぼさなかった。一口ずつ、ゆっくりと。味わうように。


「……悪くない」


「ああ。悪くない」



* * *


夜明け前。


あの一日——娘が生まれた日。午前中だけ病院にいて、午後から出社した。しかし、あの午前中の数時間。新生児室のガラス越しに、小さな手を握ったり開いたりしている娘を見たあの時間。


何も考えなかった。何も心配しなかった。ただ、小さな命を見つめて、立っていた。


今夜、ヴォルフの隣に座っていた時間は、あの時間に少しだけ似ていた。


ルークは目を閉じたまま、眠りに落ちた。珍しく——何の夢も見なかった。



最後までお読みいただきありがとうございます。


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