第87話「ヴォルフの過去」
夜だった。
日常は、動いていた。
だからこそルークは——その夜を、選んだ。
場所は、プラント南側の溶岩台地。標高千二百メートル。空気は薄く、星が近い。
溶岩が冷えて平らになった岩の上に直接座り、携帯式の魔法火でコーヒーを淹れていた。豆はサンアンド領から持参した最後の一袋。残り三杯分。
その対面に、ヴォルフ・ディートリヒが座っていた。
巨躯が岩に腰を下ろすと、地面がわずかに軋んだ。灰白色の髪が夜風に揺れ、赤い残り火のような瞳が、コーヒーの湯気越しにルークを見ていた。
沈黙が、長かった。
先に口を開いたのは、ルークだった。
「——約束通りだ。プラントは稼働した。話を聞く」
ヴォルフは答えなかった。ルークが差し出したコーヒーカップを受け取り、一口含み、眉をひそめた。
「……苦いな」
「砂糖はない。甘いものが欲しければ、サンアンド領のマルタの食堂まで行け」
「ふん」
短い鼻息。それから、ヴォルフは夜空を見上げた。星の光が、彼の顔の皺を深く刻んでいた。三百年分の皺。三百年分の——疲労。
「——俺の番号は、0001だった」
* * *
それは、三百年前のシャングリア大陸の話だった。
大陸統一戦争の時代。七つの魔法家門が覇権を争い、大陸全土が戦火に包まれていた頃。魔力を持たない人間は「無力者」と呼ばれ、戦場では盾にされ、荷を運ばされ、そして——使い捨てにされた。
名前はなかった。
名前は、魔力を持つ者だけに許された特権だった。魔力を持たない者には、番号が与えられた。管理のために。識別のために。そして——「人ではないもの」として扱うために。
ヴォルフは、その最初の一人だった。
「0001号。それが俺の最初の——『名前』だ」
ヴォルフの声に、感情はなかった。三百年という時間が、感情の表面を削り取っていた。残っているのは、岩のように硬い事実だけだった。
幼少期の記憶は、ほとんど残っていないと彼は言った。覚えているのは、寒さと、空腹と、誰かに殴られた頬の熱さだけ。そして——鍵盤。
「十二の時だった。初めて鍵盤に繋がれた」
椅子に座らされ、腕に管を刺され、体の中から何かが——温かくて、大切な何かが——吸い出されていく感覚。痛みはなかった。痛みよりもっと悪いものだった。自分の中身が、少しずつ空っぽになっていく感覚。
「約四ヶ月分だ」
ルークが即答した。ザックの報告書の数値。
「……よく調べている。そうだ。月に四回。年間で約十四年。——俺は十二から十七まで、五年間繋がれた」
単純計算で、七十二年分の寿命が削られた。十七歳の身体に、八十九歳分の消耗が刻まれていたことになる。
「死にかけた。周りの奴らは——死んだ。0002から0030まで、俺と同じ時期に鍵盤に繋がれた二十九人のうち、五年後に残っていたのは俺だけだった」
ルークは黙っていた。コーヒーカップを持つ手が、わずかに震えていた。
転機は、十七歳の冬に訪れた。
鍵盤から外された日。理由は単純で、ヴォルフの身体がもう魔力を生成できなくなっていたからだ。搾り取るものがなくなった蜜柑の皮を、誰も絞り続けはしない。
廃棄される予定だった
そこに現れたのが、ダイコクだった。
「……ダイコク!?」
ルークの眉が動いた。
「そうだ。お前も知っているだろう。あの——魔王だ」
ヴォルフの口元が、初めてわずかに歪んだ。笑みとも苦笑ともつかない表情。
「ダイコクは俺を『拾った』。鍵盤で削られた寿命を、別の方法で補填した。何をされたのかは、正直よくわからん。気がついたら——身体が動いた。前よりも、ずっと。力が湧いた。寿命も、戻った。いや——戻った以上だった。三百年経った今も、俺は生きている」
しかし、とヴォルフは言った。
しかし——救われた先は、別の地獄だった。
「ダイコクは言った。『お前は強い。だから、もっと働け。もっと戦え。止まるな。止まった瞬間に、お前の時間は終わる』」
それが条件だったのか。契約だったのか。呪いだったのか。ヴォルフ自身にもわからなかった。わかっていたのは一つだけ。止まれない。止まったら、死ぬ。三百年分の借りた時間が、一瞬で返済を求めてくる。
だからヴォルフは戦った。統一戦争で前線に立ち、七つの家門を一つずつ屈服させ、「不死の将軍」と呼ばれるようになった。戦争が終われば、次は統治。統治が安定すれば、次は防衛。防衛が落ち着けば、次は——次の戦争を作った。
「……戦争を、作った?」
「そうだ。止まれないからだ。仕事がなくなれば——止まるしかない。止まれば死ぬ。だから、仕事を作り続けた。敵を作り続けた。三百年間、一日も——一時間も——休まなかった」
ヴォルフの声が、初めて揺れた。
「俺は——『休む』って言葉の意味が、わからないんだ」
沈黙が、溶岩台地を満たした。
風の音。遠くの火山の、かすかな地鳴り。コーヒーの湯気が、夜気に溶けて消えていく。
ルークは、ヴォルフの右腕を見ていた。袖から覗く前腕の内側。鍵盤の接続痕。三百年前に刺された管の跡が、いまだに消えずに残っていた。円形の瘢痕が、等間隔に五つ。
ルーク自身の記憶が、不意によぎった。
前の世界——日本。
休んだら、自分の存在意義がなくなる。
休んだら、誰かに追い抜かれる。
休んだら、自分が自分でなくなる。
その認識が、静かに、しかし確実に、ルークの胸に落ちた。
「休むことへの罪悪感」。それは、外から強制されるだけではない。内側から——自分自身が自分に課す鎖でもある。「止まったら終わる」「休んだら価値がなくなる」「自分がいなければ回らない」。そういう思い込みが、人間を——三百年の不死者すら——蝕んでいく。
心理学では、それを「学習性無力感」の変種と呼ぶかもしれない。休む方法を学ぶ機会を奪われ続けた結果、「休む」という選択肢そのものが認知の外に追いやられる。休めないのではない。休むという概念が、存在しないのだ。
ちょうど、下位民の老人——0041号が「名前とは何ですか」と問い返したように。知らないものは、欲しがることすらできない。
知っている。わかっている。これはシステムでは解けない。マニュアルにも載っていない。手順書にも、ISOの規格にも、どこにも——「三百年間休めなかった人間に、休み方を教える方法」は書かれていない。
巨躯の男は、冷めたカップを握ったまま、夜空を見上げていた。その目に映る星が、三百年前と同じ光を放っていることを、ルークは知らなかった。ただ——その目の奥にある、途方もない疲労だけは、見えていた。
「ヴォルフ」
「……なんだ」
「もう一杯淹れた。——飲め」
「苦い」
「苦い。だが、不味くはないだろう」
ヴォルフは答えなかった。ルークが差し出したカップを、しかし、受け取った。冷めた一杯目を岩の上に置き、温かい二杯目を両手で包んだ。巨大な手が、小さなカップを壊さないように、慎重に。
「お前に一つ聞く」ルークは言った。「お前は、疲れているか」
愚問だった。三百年間休んでいない人間に「疲れているか」と聞くことの滑稽さを、ルーク自身がよくわかっていた。しかし——聞かなければ、始まらない。
ヴォルフの指が、カップの縁をなぞった。長い間。
そして——不死の将軍が、初めて、声を震わせた。
「……疲れた」
たった三文字だった。
しかし、その三文字を口にするまでに、この男は三百年かかった。
「疲れた。……疲れた。もう——疲れたんだ。だが、止まれない。止まったら——」
「止まっても死なない」
ルークの声は、静かだった。断言でも、励ましでもなかった。ただ——事実を述べるように。
「……」
ヴォルフの目が、初めてルークを正面から捉えた。
ルークは、自分のカップを持っていなかった。最後の一杯を、ヴォルフに渡していたからだ。空の手を膝の上に置いて、夜空を見上げた。
「休め、ヴォルフ。まず——一杯のコーヒーを飲み終わるまででいい。その間だけ、何もするな。何も考えるな。ただ、温かいものを飲め」
「……それで、何が変わる」
「何も変わらない。——でも、それでいい」
ヴォルフは、カップを見下ろした。黒い液面に、星が映っていた。
一口。
苦い。確かに苦い。だが——温かい。腹の底に落ちていく温度が、三百年ぶりに、何かを溶かしていくような気がした。
二口目を飲む前に、ヴォルフの手が止まった。カップを持ったまま、微動だにしない。
——止まっている。
三百年間、一秒も止まらなかった男が、いま、止まっている。




