第86話「ルークの仕掛け——『求人票』の矢」
プラント防衛戦から三日後。
ヴォルフの鉄火旅団は撤退したが、保守派は諦めていなかった。第二波の攻撃が来る。ルークの事なかれ主義スキルが予測していた。
四日目の夜明け前、ユイの刻印が南東の山道に大規模な魔力反応を感知した。
「前回と同規模。三百名前後。先頭にヴォルフの反応あり」
ルークは安楽椅子の代わりの岩に座ったまま、コーヒーを飲んでいた。レイラが見つけた野生のコーヒー豆。火山帯の土壌で育った品種で、酸味と苦味のバランスが絶妙だった。悪くない。この豆は持ち帰ろう。
「ルーク殿。防衛配置は前回と同じで?」アリスが剣に手をかけている。
「いや。今回は違う」
「違う?」
「戦わない。前回も戦わなかったが、今回はもっと戦わない」
アリスの眉が上がった。ザックが首を傾げた。ユイの刻印が困惑するように明滅した。レイラだけが計測機器から目を上げず、背中で会話を聞いていた。
ルークはポケットから一枚の羊皮紙を取り出した。
「ザック。これを三百枚複製しろ」
「三百枚⁉ 何ですかこれ——」
ザックが羊皮紙を受け取り、目を走らせた。
十秒間の沈黙。
「……求人票?」
ルークが書いた羊皮紙には、こう記されていた。
【求人のご案内】
雇用主:サンアンド領統治府
募集職種:領地防衛・建設・農業・手工業、その他各種
勤務条件:
一、一日の労働時間は八時間とする。八時間を超える労働は禁止する。
二、七日のうち二日を休日とする。休日の労働は禁止する。
三、年間二十日の有給休暇を付与する。取得に理由は不要。
四、住居を提供する。個室。窓付き。寝具付き。
五、一日三食の食事を提供する。温かい食事とする。
六、希望者には読み書き・計算の技能訓練を行う。費用は雇用主が負担する。
七、家族の帯同を認める。家族用の住居を別途提供する。
応募方法:武器を置き、この紙を持って申し出ること。
「ルーク殿」
ザックの声が震えていた。感動ではない。困惑だ。
「これを——矢につけて射つんですか?」
「ああ。地底鍛冶のギムリに頼んで、弓と矢を百本用意してもらった。射程は短いから、敵が結界に接近した段階で射つ。矢の先端は丸めてある。殺傷力はない。紙を届けるだけの矢だ」
「紙を届ける矢……」
「ダイレクトメールだ。元の世界では、家のポストに求人チラシが入ってたんだ。同じことをやる。ただし——ポストの代わりに、戦場でやる」
アリスが口を開いた。閉じた。もう一度開いた。
「……正気ですの?」
「正気だ。前回の戦闘で確認した。ヴォルフの兵士たちは、疲弊している。あの軍勢は忠誠心ではなく惰性で動いている。惰性を止めるのは——暴力じゃない。選択肢だ」
ルークはコーヒーを一口飲んだ。
「人間は、選択肢がないとき現状に留まる。どんなに辛くても、他に行く場所がなければ動かない。しかし——選択肢が目の前に提示された瞬間、足が止まる。『ここじゃなくてもいいんだ』と気づく。その一瞬でいい。足を止めた兵士は、もう同じ速度では走れない」
ザックは三秒間ルークの顔を見つめ、それからペンを握った。
「三百枚、複製します。何分で要りますか」
「夜明けまでに」
「やります」
ザックが走った。地底鍛冶の作業小屋に向かって。三年間の書記生活で鍛えた右手が、今夜、三百人の人生を変えるかもしれない文書を書く。
レイラが振り返った。計測機器を置いて、初めて会話に加わった。
「ルーク殿。一つ訊いてもいいですか」
「何だ」
「あの求人票の条件——全部、本気ですか。三百人を雇う余裕がサンアンド領にありますの?」
「ない」
「ないんですか⁉」
「ないが、作る。受け入れ態勢は帰ってから整える。先に約束して、後から仕組みを作る。順番が逆に見えるだろうが——人を動かすのは、今ある現実じゃない。まだない未来の約束だ」
レイラは三秒ほど固まり、それから眼鏡を押し上げた。
「……あなた、研究者には向いていませんね。仮説の前に結論を出す」
「品質管理も似たようなもんだ。出荷してから検査する会社もある。順番はどうでもいい。結果が合格なら」
夜明け。
南東の山道から黒い波が押し寄せてきた。前回と同じだ。三百の黒い鎧。先頭にヴォルフの巨体。朝日を背に、影がプラントに向かって伸びていく。
ユイの結界が展開された。前回より薄いが、範囲が広い。プラント全体を包む青白い膜。今回の結界は防御ではなく、遅延が目的だ。
鉄火旅団が結界に接触した。先頭の兵士たちが武器を構え、結界を叩き始める。金属と魔法がぶつかる衝撃音が山肌に響く。
ヴォルフが戦斧を構えた。
その瞬間——矢が飛んだ。
結界の内側から、百本の矢が放物線を描いて飛翔した。
鉄火旅団の陣列を越え、兵士たちの足元に突き刺さった。
矢の軸に巻きつけられた羊皮紙が、着地の衝撃でほどけて広がる。
兵士たちの動きが止まった。
足元の紙を見下ろしている。攻撃かと身構えたが何だ。この紙は何だ。
最前列の兵士が、一枚を拾い上げた。
読める兵士は、三割程度だった。鉄火旅団に識字教育はない。戦闘と行軍に読み書きは不要だとされている。
しかし——三割で十分だった。
最前列の兵士が、紙を読み上げた。隣の兵士に聞かせるために。声が前列から後列へ、波のように伝わっていった。
「一日の労働時間は八時間……八時間を超える労働は禁止する」
ざわめきが広がった。
「七日のうち二日を休日とする……」
ざわめきが大きくなった。
「年間二十日の有給休暇を付与する。取得に理由は不要——」
声が途切れた。読んでいた兵士の声が詰まったのだ。
隣の兵士が紙を奪い取り、続きを読んだ。
「住居を提供する。個室。窓付き。寝具付き——」
「一日三食の食事を提供する。温かい食事とする——」
「希望者には読み書き・計算の技能訓練を行う——」
「家族の帯同を認める。家族用の住居を——」
紙が回し読みされていく。黒い鎧の手から手へ。読める者が読めない者に説明する。言葉が伝播する。条件が、情報が、可能性が——三百人の間を駆け巡る。
ヴォルフは戦斧を構えたまま、背後の異変に気づいた。攻撃が止まっている。結界を叩く音が消えている。三百人の兵士が——紙を読んでいる。
「何をしている! 攻撃を続けろ!」
ヴォルフの声が轟いた。地面が震えた。普段なら、あの声一つで全軍が動く。三百年間、そうだった。
今回は——違った。
最前列の兵士が、紙を持ったまま動かなかった。
ヴォルフが振り返った。灰色の瞳が、兵士たちの顔を見た。
—兵士たちの目。疲れ切った目。三時間睡眠の目。家族に会えない目。右膝が痛む目。
その目が——初めて、別の色を帯びていた。
迷い。
これまでなかった感情。ヴォルフの演説を聞いて「全力」と叫んでいた兵士たちの目に、初めて「迷い」が宿った。
紙一枚で。
最初に武器を置いたのは、後列の兵士だった。
名前はハンス。二十四歳。三等兵。六年間の従軍。右膝が慢性的に痛み、左肩が上がらない。
ハンスは剣を地面に置いた。音を立てないように。静かに。まるで——眠っている子どもを起こさないように。
隣の兵士が振り返った。ハンスの手に剣がないことに気づいた。目が合った。ハンスは何も言わなかった。ただ——求人票を胸に持っていた。
隣の兵士は、ハンスの目を見た。それから——自分の剣を置いた。
その隣の兵士も。
その隣も。
後列から前列へ。波紋のように。音もなく。三百人の陣列の後方から、武器を置く波が広がっていった。剣が地面に置かれる微かな音だけが、朝の山肌に連なっていく。
ヴォルフは先頭に立ったまま、背後で起きていることを——音で聞いていた。
振り返らなかった。
振り返らなくても、わかっていた。
最前列まで波が到達したとき、三百人のうち——二百四十人が武器を置いていた。残りの六十人は迷っていた。置くべきか。置かざるべきか。ヴォルフ様への忠誠と、胸の中の求人票が、天秤の上で揺れている。
その六十人の中から、一人の兵士が前に出た。
カール。二十五歳。四日前に息子が生まれた男。
カールはヴォルフの前まで歩いた。巨体を見上げた。二メートルを超える将軍の前で、百七十センチのカールは小さかった。しかし——声は震えなかった。
「将軍」
ヴォルフの灰色の瞳が、カールを見下ろした。
「すまねえ。俺ら——」
カールの声が詰まった。喉が震えた。目が赤くなった。六年分の疲労と、四日前に生まれた息子の顔と、手の中の求人票が——全部混ざった。
「——もう、疲れたんだ」
カールの剣が地面に落ちた。今度は静かにではなかった。投げ捨てたのでもなかった。手から——力が抜けたのだ。握る力が、残っていなかった。
ヴォルフは動かなかった。
戦斧を持ったまま、カールを見下ろしたまま、動かなかった。灰色の瞳に——三百年分の何かが渦巻いていた。怒りではない。失望でもない。もっと深い——もっと古い何か。
残りの六十人が、一人ずつ武器を置いた。カールの「疲れた」が、最後の堰を切ったのだ。
三百人全員の武器が、地面に並んだ。
結界の内側で、ルークは岩の上に座っていた。
「ルーク殿……」
「ん」
「効きましたね」
「ああ。効いた」
ルークの声は平坦だった。しかし——コーヒーカップを持つ手が、微かに震えていた。ザックはそれを見た。見て——何も言わなかった。
結界の外で、ヴォルフが立っていた。
三百人の兵士が武器を捨て、求人票を手にしている。ヴォルフだけが戦斧を握ったまま、一人で立っている。
ルークは立ち上がった。結界の隙間に向かって歩いた。
「ルーク殿、どちらへ」
「ヴォルフのところだ」
「危険です——」
「あの男は斧を振らない。振る相手がもういない」
結界を抜けた。朝日の中を、ヴォルフに向かって歩いた。足元に剣が並んでいる。三百本。その間を縫うように歩く。
ヴォルフの前に立った。見上げた。
「ヴォルフ」
灰色の瞳が、ルークを見下ろした。三百年分の疲労が、瞳の奥で静かに崩れ始めていた。
「お前の部下は——疲れていた」
「……知っている」
「知っていて、止められなかった」
「……ああ」
「なぜだ」
ヴォルフの巨体が——微かに、揺れた。戦斧が重くなったかのように。三百年間軽々と振ってきた斧が、急に本来の重量を取り戻したかのように。
「止まったら——壊れると思った。俺も。あいつらも。動き続けていれば、壊れない。止まったら——三百年分の疲労が一度に来る。それに耐えられる自信がなかった」
ルークは黙って聞いた。
「だから走らせた。自分も走った。止まるな。休むな。全力で生きろ。そう言い続けた。言い続けることで——自分にも言い聞かせていた」
ヴォルフの声が、初めて震えた。
三百年。一度も震えなかった声が。
「俺は——間違っていたのか」
ルークはポケットから求人票を一枚取り出した。最後の一枚。ザックが書いたものではない。ルーク自身が書いた原本だ。
ヴォルフの手に差し出した。
「これはお前にも適用される」
ヴォルフは求人票を見下ろした。巨大な手の中で、羊皮紙が小さく見えた。
一日八時間労働。週休二日。有給休暇二十日。住居完備。温かい食事。技能訓練。家族の帯同。
「……俺に、家族はいない」
「なら七番は省く。残りの六つはお前にも当てはまる。特に——」
ルークは一行を指さした。
「『八時間を超える労働は禁止する』。お前は三百年間、これに違反し続けてきた。累積の残業時間は——計算したくもない」
ヴォルフの灰色の瞳が、求人票の文字を見つめていた。
読んでいるのか。読めているのか。三百年分の疲労が視界を曇らせているかもしれない。しかし——その目に、何かが変わった。灰の奥の熾火が、少しだけ明るくなった。
消えかけていた火が——消える代わりに、別の燃料を見つけたように。
ヴォルフは求人票を折り畳んだ。外套の内ポケットにしまった。
「……考える」
「急がなくていい。考えるのに期限はない。有給休暇は取得に理由が要らないと書いてある」
ヴォルフは鼻を鳴らした。笑いではなかった。しかし——三百年ぶりに、笑いに最も近い音だった。
戦斧を地面に突き刺した。刃が岩盤にめり込み、柄だけが朝日の中に立った。
一人で歩く背中は、三百人を率いていた時よりも——小さく見えた。
しかし——軽く見えた。
プラントの前庭に、三百人の元兵士が立っていた。
武器を置き、求人票を持ち、次に何をすればいいのかわからない顔で立っている。六年間、命令だけで動いてきた人々だ。自分で判断する訓練を受けていない。
ルークが結界の中に戻ってきた。
「アリス」
「はい」
「三百人分の食事を手配してくれ。地底鍛冶のギムリに相談しろ。食材が足りなければ、中立都市群のカイゼルに緊急発注だ。通商協定の第一号案件にする」
「承知しましたわ」
「ザック」
「はい」
「三百人の名前と技能を聞き取れ。一人ずつだ。名前がない者には——お前が名付けろ。得意だろう」
ザックの目が赤くなった。しかし、ペンを握る手は震えなかった。
「やります」
「レイラ」
「はい」
「プラントの建設工程を見直してくれ。作業員が三百人増えた。工期を——短縮できるはずだ」
レイラの目が輝いた。
「三百人……それなら、変換結晶体の増設も同時に進められます。設計値の二十三パーセントどころか、二十五パーセントまで——」
「任せる。ただし定時退社は守れ」
「……はい」
ルークは岩に腰を下ろした。コーヒーの残りを飲んだ。冷めていた。いつも冷めている。しかし——悪くない味だった。
ルークは空を見上げた。朝日が火山の噴気を金色に染めている。三百人の元兵士が、おずおずと結界の中に入ってくる。最初の一人がザックの前に立ち、名前を訊かれ——答えた。
「ハンス。俺の名前はハンスです」
ザックがペンを走らせた。
ハンス。一人目。
元兵士が後ろに続いていた。




