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第73話「ルークの本能」

毎日17時に更新します,

完結まで、継続いたしますので、最後に【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして、毎日追って頂けたら幸いです。


航海七日目。快晴。風は南南東の微風。波は穏やかで、船は滑るように進んでいた。


ザックが朝の釣りで三匹目のギンボラを上げ、それを手際よくさばき、アリスが航海日誌に「七日目、異常なし」と記入した。日課が確立されている。四人の船は、小さいながらもひとつの組織として機能していた。


ルークは安楽椅子でコーヒーを飲んでいた。朝の十五分。洋上でもこの習慣は崩さない。淹れた深煎りの一杯。豆の残量が心許なくなってきたが、あと三日分はある。シャングリア大陸まで残り三日。ぴったりだ。


その十五分の最後の一分で——ルークの目が、水平線の一点に止まった。


アリスが船首に立ち、目を細めた。銀髪が風に流れる。三秒の沈黙。


「島ですわ。海図には記載がありません。無人島——いえ、環礁の一部かもしれません」


「近づける?」


「風向き次第ですが、一時間ほどで接岸できるかと。ただ——」


アリスが振り返った。


「寄り道ですわよ? シャングリア大陸への航路から外れます。半日のロスになります」


「寄る」


即答だった。


ザックが首を傾げた。


理由を言語化できなかった。事なかれ主義スキルは何も通知していない。リスク判定も、推奨行動も、沈黙している。これはスキルの判断ではない。田中修という人間の、もっと原始的な部分が反応していた。


一時間後。船は島の南岸に接岸した。


珊瑚礁に囲まれた小さな島だった。周囲はおよそ二キロ。中央に緩やかな丘があり、丘の斜面は熱帯性の広葉樹に覆われている。砂浜は白い。珊瑚の砕けた細かな砂粒が、日光を受けて眩しいほどに輝いている。


波打ち際の水は透明だった。底の珊瑚が見える。色とりどりの小魚が群れをなして泳ぎ、海面に光の紋様を描いている。


四人は砂浜に降り立った。


ザックが最初に声を上げた。


「うわ……すごい。こんな場所があるんですね」



波打ち際にしゃがみ、水に手を浸した。


「……温かい。この海域は暖流が通っているのですね」


三人がそれぞれの反応を見せる中——ルークは、動かなかった。


砂浜に立ち尽くしていた。


両足が砂に沈む感覚。潮の匂い。椰子に似た広葉樹の葉が風に揺れる音。波が珊瑚礁に当たって砕ける低い響き。空は青く、雲は白く、太陽は温かく、風は心地よい。


ルークの目が——光っていた。


ザックは後にこう証言する。「あの目は、初めて見ました。ルーク様がガチャでURアイテムを引いたときですら、あんな目はしなかった」


アリスもこう述べている。「三年間お仕えして、ルーク殿の目に欲望が宿ったのを見たのは、あれが最初で最後ですわ」


田中修の目に浮かんでいたのは、戦略でも分析でも計算でもなかった。


純粋な欲望だった。


四十七年間の人生で——二十四年間の窓際生活と三年間の異世界統治を含む、すべての歳月を通じて——田中修が初めて、衝動で物を言った。


「ここにリゾートを作る」


三人が同時に振り返った。


「……は?」ザックが間の抜けた声を出した。


「リゾートだ。保養施設。有給休暇の渡航先として整備する。サンアンド領の住民が、年に一度、ここに来て何もしない。波の音を聞いて、砂浜で寝て、魚を焼いて食う。それだけの場所を作る」


ルークの声には、普段の抑制がなかった。


「まだシャングリア大陸にも着いていないのですが」


正論だった。完璧な正論だった。目的地まであと三日。ユイの故郷の制度問題という重大な案件を抱えている。海賊との通商条約の履行監視も始まっていない。やるべきことは山積みで、無人島にリゾートを建設する優先順位は——常識的に考えれば——限りなく低い。


ルークは振り返った。


「優先順位の問題だ」


「ですから、優先順位が——」


「アリス。『休む場所の確保』は、常に最優先事項だ」


アリスの口が閉じた。


反論できなかった。三年間、ルークの下で「休息は生産性の基盤である」という原則を叩き込まれてきた。定時退社、有給休暇、週休二日。サンアンド領のホワイト統治を支える三本柱。その設計者が「休む場所が最優先だ」と言うなら——論理的には、正しい。


正しいのだが、タイミングがおかしい。


ザックが恐る恐る口を開いた。


「あの、ルーク様。リゾートって、具体的に何を建てるんですか?」


「まず小屋を三棟。宿泊用。素材は島の広葉樹を使う。それからハンモックを十張り。砂浜沿いに等間隔で。炊事場を一つ。井戸を掘る必要があるが、丘の植生を見る限り、淡水の地下水脈がある可能性が高い」


「もう設計始まってませんか?」


「あとは桟橋だ。赤牙艦隊の通商航路にこの島を中継点として組み込めば、船の修繕と乗員の休息を同時に——」


「完全にスイッチ入ってます」


ルーク自身も、自覚はあった。


おかしい。自分はこんなに饒舌な人間ではない。事なかれ主義スキルは相変わらず沈黙している。通知もなければ警告もない。スキルが関与していないということは——これは純粋に、田中修個人の衝動だ。


なぜ、この島にこれほど惹かれるのか。


答えは、砂浜に立った瞬間にわかっていた。言語化を避けていただけだ。


元の世界。二十四年間。田中修は一度も「休暇」を楽しんだことがない。有給休暇は制度上存在したが、取得したことはなかった。正確には、二回取得した。一回目は娘のなみが生まれた日。二回目は母親の葬儀。どちらも「休暇」ではない。必要に迫られて職場を離れただけだ。


旅行は——記憶にない。新婚旅行で熱海に行った。一泊二日。陽子は何も言わなかった。何も言わなかったことが、今になって胸に刺さる。


この島は——田中修が初めて「ここで何もしたくない」と思った場所だった。


ここで波の音を聞きたい。砂浜に寝転がりたい。


それは戦略でも経営判断でもない。四十七歳の男の、ささやかな欲望だった。


静かに口を開いた。


「わたしは、賛成です」


三人が振り返った。


「シャングリア大陸には、こういう場所がありません。奉仕の制度が生活のすべてを覆っていて、『何もしない時間』は怠惰とみなされます。上位民も下位民も、常に何かをしていなければならない」


紫色の瞳が砂浜を見つめていた。


「だからこそ——この島が必要だと思います。何もしなくていい場所。奉仕も労働も要求されない場所。シャングリアの人々にも、いつかこの場所を見せたい」


ルークは見た。彼女がシャングリアの制度改革を持ち出すとは思わなかった。しかし——筋は通っている。休む場所を持たない文化を変えるには、「休むとはどういうことか」を体験させる場が必要だ。


理論で説くより、体験で示す。管理でも同じだ。マニュアルを百ページ読ませるより、現場で一回やらせたほうが早い。


「アリス」


「……はい」


「今日は、この島で一泊する。明日の朝、出航。シャングリアへの到着が半日遅れるが——」


「構いませんわ」


アリスの声は、穏やかだった。


「ルーク殿が自分から『休みたい』とおっしゃったのは、三年間で初めてです。それだけで、半日の遅れには十分な価値がありますわ」


ルークは一瞬だけ言葉に詰まった。見透かされている。


ザックがすでに荷物を船から下ろし始めていた。


午後。


四人は砂浜に座り、マルタの弁当を広げた。干し肉の煮込みは七日経っても傷んでいなかった。保存の技術が完璧だ。麦飯にギンボラの塩焼きを添え、ザックが見つけた椰子に似た実の汁を飲む。


食後、ルークは安楽椅子を砂浜に設置した。今度は滑らない。砂が脚を固定してくれる。リクライニングを倒し、空を見上げた。


青い。ただ、青い。


ルークは目を閉じた。


波の音が聞こえる。ザックが何か貝を見つけて騒いでいる。アリスが「それは食べられませんわ」とたしなめている。静かに笑っている。


——最も満たされた午後だった。


ルークは安楽椅子の肘掛けを撫でた。この島に、この椅子を常設しよう。サンアンド領に帰ったら、真っ先にリゾート計画の予算書を作ろう。桟橋の設計 宿泊施設のホスピタリティを設計する。赤牙艦隊の通商航路の中継点にもなる。


やることが増えている。休みに来たのに。


しかし——不思議と、それが嫌ではなかった。


やりたいことが増えるのと、やらなければならないことが増えるのは、違う。二十四年間の窓際で学んだ最も重要な区別だ。


「ルーク様」


ザックが巨大な巻き貝を両手に抱えて駆け寄ってきた。


「これ、笛みたいに吹けるんです! 聞いてください!」


ザックが貝に口をつけ、盛大にぶぉーっと鳴らした。島中の鳥が一斉に飛び立った。


翌朝。日の出とともに出航。


ルークは島を振り返り、砂浜を目に焼きつけた。安楽椅子は船に積み直した。砂浜に置いていきたかったが、まだ早い。次に来るときまで、船の上で使う。


船はシャングリア大陸へ。

最後までお読みいただきありがとうございます。


もし「日本では当たり前になりつつ倫理観で無双するのも面白いな」「憧れのホワイト経営の先が気になる」と少しでも思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると大変励みになります。

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