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第71話「船酔いの覇王と、ザックの釣果」

毎日19時に更新します,

完結まで、継続いたしますので、最後に【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして、毎日追って頂けたら幸いです。


田中修——通称ルーク。サンアンド領の統治者。三大陸に名を轟かせる「賢者」。事なかれ主義スキルの保持者にして、定時退社の概念を異世界に持ち込んだ男。


その男が今、船縁にしがみついて胃の中身を海に返していた。


「う゛……」


朝食のパンと干し肉が、見事な放物線を描いて波間に消える。三度目だった。出航からまだ四時間しか経っていない。


「ルーク様、水です」


ユイが背後から木のコップを差し出した。ルークは震える手でそれを受け取り、一口含んで吐き出し、もう一口含んで今度は飲んだ。胃が拒否しなかった。かろうじて。


「……すまない」


「いえ。船酔いは慣れの問題です。三日もすれば収まります」


「三日」



ルークは船室から安楽椅子を引きずり出した。ペントハウスの屋上で毎朝十五分の「何もしない時間」を過ごす、あの椅子だ。渡航に際して真っ先に積み込んだ。


甲板の中央に椅子を据え、腰を下ろす。リクライニングを倒し、水平線に目を向けた。スキルの推奨通りだ。遠くの一点を見つめれば、平衡感覚と視覚の齟齬が軽減される——はずだった。


波が来た。


船体が左に傾き、安楽椅子が滑った。固定していなかった。椅子ごと右舷に向かって二メートルほどスライドし、ルークは椅子の肘掛けにしがみついたまま「ぐ゛っ」と情けない声を漏らした。


「ルーク様! 大丈夫ですか!」


「……大丈夫じゃない」


船が戻る。椅子が中央に滑り戻る。次の波で、また右に流れる。振り子のように。ルークは安楽椅子に乗ったまま、甲板を左右に往復した。


遠くの水平線を見るどころではなかった。


船尾では、まったく別の光景が展開されていた。


「来た来た来たッ! でかい! これ絶対でかいですよ!」


ザックが叫んでいた。手にしているのは即席の釣り竿——予備の帆桁に糸を結びつけただけの代物だ。餌は朝食の干し肉の切れ端。出航前に暇潰しにどうぞと持たせてくれた釣り針が、まさかここで活躍するとは。


竿がしなる。糸が海面を切り裂く。ザックは両足を踏ん張り、三年間の書類仕事で鍛えた——鍛えたとは言い難い——腕力で応戦した。


「ザック、無理をするなら綱を船に結べ。体ごと持っていかれるぞ」


船首で海図を広げていたアリスが、振り向きもせず指摘した。優雅だった。風に髪がなびき、元騎士団副団長の横顔は、海図と潮流を照合する姿すら絵になる。操船の合間に星座の位置を確認し、ユイが示した航路との誤差を二度刻みで修正している。有能すぎる。


「大丈夫です! 俺、意外と力あるんです!」


嘘だった。ザックの腕力はサンアンド領の成人男性の平均を明らかに下回っている。ルークが以前実施した体力測定で、握力は右三十二キロ、左二十八キロ。書類を持つには十分だが、大物の魚を相手にするには心許ない。


しかし——ザックには粘りがあった。


十五分間の格闘の末、ザックは一匹の魚を甲板に引き上げた。


銀色の鱗。丸々と太った体。全長は六十センチほど。エンドレア大陸の沿岸では見かけない種だが、ユイが「ギンボラ」と呼んだ。シャングリア近海に多く生息する白身魚で、塩焼きにすると美味いらしい。


「やった! ルーク様、見てください! でかいでしょう!」


ザックは満面の笑みで船尾から叫んだ。両手で魚を掲げている。魚は尾びれをばたつかせ、ザックの顔に水飛沫を浴びせたが、笑顔は消えなかった。


ルークは安楽椅子の上で横向きに丸まったまま、片手を挙げた。


声に力がなかった。しかしザックの笑顔はさらに広がった。


昼過ぎ。


ザックが釣ったギンボラは、ユイの手で見事にさばかれた。内臓を取り、三枚におろし、塩を振って干す。手際が良い。包丁ではなく、ザックのペンナイフを借りての作業だったが、刃の扱いに迷いがない。


「料理もできるのか」


ルークは甲板に敷いた毛布の上に横たわりながら訊いた。安楽椅子は諦めた。ロープで固定することをアリスに提案されたが、「椅子を縛るのは椅子の尊厳に関わる」という謎の理由で却下し、結局床に転がっている。


「宗家では、奉仕の一環として調理を学びます。食事を作ることは、最も基本的な奉仕ですから」


「『ホウシ』な」


「はい。ホウシです」


ユイは微笑んだ。万国舌がまた「労働」と訳しかけて、途中で原語に切り替わる。文化辞書の設定が効いている。


「ルーク様、生姜があります。スープに入れましょうか」


「……頼む」


荷物の中にあった乾燥生姜を砕き、湯に溶かし、ギンボラの切り身を加えた即席スープ。潮の香りと生姜の辛味が混じった湯気が、ルークの鼻をくすぐった。


一口含む。胃が拒否しなかった。二口目。温かいものが食道を通り、胃の底に落ち着く感覚があった。三口目で、初めて「味」を感じた。白身魚の淡泊な旨味と、生姜の刺激。悪くない。


「……ザック」


「はい!」


「お前の釣った魚、悪くない」


ザックの顔が輝いた。。


午後。風が安定し、船は順調に東南東へ進んでいた。


アリスが帆を調整し終え、船首から降りてきた。ルークの横を通り過ぎる際に、一瞥した。


「顔色が少し戻りましたわね」


「ユイのスープのおかげだ」


「あら。ザックの魚のおかげでは?」


「……両方だ」


アリスは満足そうに頷き、船室へ向かった。航海日誌をつけるのだという。元騎士団の副団長は、記録の重要性を誰よりも理解している。ルークが教えるまでもなかった。


甲板にはルークとユイだけが残った。


ザックは船尾で二匹目を狙っている。竿を握る手つきが、一匹目より明らかに安定している。学習が速い。ルークはそれを毛布の上から眺めながら、ふと思った。


三年前。サンアンド領に来たばかりの頃。自分はこんなふうに、何もできない日を過ごしたことがあっただろうか。


なかった。


初日からガチャを回し、スキルを確認し、コンプライアンスガイドを作成し、組織の土台を設計した。休む暇がなかったのではない。休むという選択肢が、頭になかった。元の世界で二十四年間、窓際にいても毎日出社し何もしないことへの恐怖が、骨の髄まで染みついている。


今日、ルークは何もしていない。


船酔いで倒れ、安楽椅子から滑り落ち、魚のスープを飲んだだけだ。


何もしていない。


なのに——不思議と、焦りがなかった。


ザックが魚を釣っている。アリスが航海日誌を書いている。ユイがスープの残りを温め直している。船は風に乗って進んでいる。ルークがいなくても——いや、ルークが何もしなくても、この小さな船は動いている。


任せるのが怖いんだよ、あんたは。


怖い。確かに怖い。しかし今、毛布の上で空を見上げながら、ルークは思った。怖いままでも——悪くない、と。


「ルーク様」


ユイの声で我に返った。


ユイが微笑んで船室へ消える。ルークは空を見上げた。雲ひとつない青。海面が太陽を反射して、甲板に細かい光の粒を散らしている。


「……上等だ」


船尾で、ザックが二匹目を釣り上げた歓声が響いた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


もし「日本では当たり前になりつつ倫理観で無双するのも面白いな」「憧れのホワイト経営の先が気になる」と少しでも思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると大変励みになります。

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