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幕間断章①

誰も知らない場所に、その声はあった。


白い部屋だった。


壁も天井も床も、継ぎ目のない白。光源は見当たらないのに、隅々まで均一に明るい。影というものが存在しない空間。


部屋の中央に、安楽椅子がひとつ。


椅子の上に、人影がひとつ。


輪郭が曖昧だった。座っていることはわかる。足を組んでいることもわかる。しかし顔も体格も、性別すら判然としない。視線を合わせようとすると、焦点がするりと逃げる。認識を拒む存在。あるいは——認識される必要のない存在。


その人影の手元に、コーヒーカップがあった。白い磁器。湯気が細く立ち上っている。部屋の中で唯一、温度を持つもの。


人影の正面には、空中に浮かぶ薄い光の板。地図のようだった。青い海原の上を、小さな光点がひとつ、東南東に向かってゆっくりと移動している。


光点は四つの生体反応を示していた。


人影が、口を開いた。


「お船が出ましたね」


声には性別がなかった。低くもなく高くもなく、若くもなく老いてもいない。しかし不思議と耳に残る声だった。一度聞いたら忘れられない種類の——しかし、思い出そうとすると輪郭が消える種類の声。


「四人で行くのですか。……まあ、あの人らしい。最小構成。最小リスク。最小の労力で最大の成果を狙う。いつもそう」


光の板の上で、四つの生体反応が揺れた。波に合わせて船体が上下しているのだろう。


「大丈夫。あの人なら」


人影はコーヒーカップを持ち上げた。唇に運ぶ動作だけが、妙に人間的だった。


「だって、あの人は"怠ける天才"ですから」


一口。


カップが下ろされる。


「怠ける天才は、絶対に無駄な死に方をしません。無駄が嫌いだから。死ぬことほど無駄なことはない。あの人はそれを、理屈ではなく骨の髄で理解している。二十四年間の窓際生活で。三年間の異世界経営で。そして——七十二時間の帰還で」


人影は光の板に手を伸ばした。指先が海図の一点に触れる。サンアンド領から東南東に約六百海里。シャングリア大陸の南岸。


「ふふ」


笑い声だった。温かいのか冷たいのか、判別できない笑い。


「でも、私はちょっとだけ心配です」


指先が、海図の上を滑った。シャングリア大陸の輪郭をなぞり、内陸部の一点で止まる。そこには——地図上に記載のない空白があった。何も描かれていない領域。白い、何もない空間。


「だって——あの海の向こうには」


人影はカップを置いた。磁器がテーブルに触れる音だけが、白い部屋に反響した。


「私が仕掛けた、"もう一つの試練"があるのですから」


光の板が消えた。


白い部屋に、コーヒーの香りだけが残った。


人影は安楽椅子の背にもたれ、天井を見上げた。天井は白い。壁も白い。この部屋には時間がない。朝も夜もない。ただ白があり、椅子があり、コーヒーがある。


そして——画面の向こうに、四つの光点がある。


「頑張ってくださいね、田中修さん」


人影は目を閉じた。


「——いえ。頑張らないでくださいね。あなたらしく、怠けながら。それが、私があなたを選んだ理由ですから」


白い部屋が、静かに暗転する。


暗闇の中で、ガチャ筐体の駆動音に似た微かな振動が——一度だけ響いた。


サンアンド領のペントハウス。無人の部屋に置かれたガチャ筐体のドームの中で、カプセルが一つだけ、誰にも見られることなく、淡い虹色に光った。


三秒間。


それきり、光は消えた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


もし「日本では当たり前になりつつ倫理観で無双するのも面白いな」「憧れのホワイト経営の先が気になる」と少しでも思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると大変励みになります。

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