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第70話「出航前夜」

毎日17時に更新します,

完結まで、継続いたしますので、最後に【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして、毎日追って頂けたら幸いです。


シャングリア大陸への渡航が決まったのは、ユイの過去が明かされてから三日後のことだった。


「情報収集だ。現地の制度を確認し、リスクを評価する。それだけだ」


向かいのソファでアリスがコーヒーを啜り、何も言わなかった。ザックは羊皮紙に渡航準備のチェックリストを書きながら、何も言わなかった。ユイは窓辺に立って港を眺めながら、何も言わなかった。


三人とも理解している。情報収集ではないことを。


ユイの話を聞いた夜、ルークは屋上で三十分間コーヒーを飲んだ。


リスク分析でもコスト計算でもない。ただ——ユイが淹れたコーヒーを飲みながら、十四歳の少年のことを考えた。会ったこともない少年だ。顔も知らない。しかし汚染された水を飲み続けて死んだという事実が、人間の胸の奥に、小さな不適合報告書のように引っかかっている。


不適合は、放置すると拡大する。




出航は明後日と決まった。


船は中型帆船を一隻借り受けた。ユイの航路記憶を頼りに、シャングリア大陸の南岸を目指す。所要日数は順風で約十日。乗員はルーク、アリス、ザック、ユイの四名。最小構成だ。


アリスには「サンアンド領の全権をギルド評議会に一時委任する」書類を作成させた。三年間かけて構築したマニュアル経営が機能するなら、領主が不在でも街は回る。不在テストで、それは証明済みだ。


ザックには渡航に必要な物資リストの作成を任せた。食料、水、医薬品、筆記具、コンプライアンスガイド予備二部。ザックは最後の一項目を見て首を傾げたが、何も訊かなかった。


準備は淡々と進んだ。しかし——出航前夜。


ルークの執務室のドアを叩く音があった。


「入っていいかい」


声で分かった。ペントハウスの一階で食堂を切り盛りする、おかみだ。


五十代後半。がっしりとした体格に、日焼けした腕。ブラック時代から食堂を守り続けた女傑で、サンアンド領住民の胃袋を支えた功労者だ。三年経っても呼び方は「あんた」のままだ。


ドアが開く。手には、布に包まれた四角い箱があった。


「こんな時間にすまない。何だそれは」


「弁当だよ」


遠慮なく部屋に入り、机の海図の横に布包みを置いた。ずしりと重い。


「明日の朝は早いだろ。仕込む時間がないから、今のうちに渡しとく」


ルークは布を開いた。木製の弁当箱。蓋を持ち上げると、麦飯の上に干し肉の煮込み、根菜の酢漬け、茹で卵が三つ。隙間なく詰められた品々は、どれもマルタの食堂の定番だった。飾り気はない。しかし栄養の配分が考え抜かれている。長期航海を想定した保存食だ。


「四人分ある。船の上じゃロクなもの食えないだろうからね」


「……ありがとう」


ルークが礼を言うと、腰に手を当てた。いつもの姿勢だ。何かを言うときの構えだと、三年間で学んでいる。


は鼻を鳴らした。


「いい加減、誰かに任せな」


「任せられる人間がいない」


「嘘だね」


声が、一段低くなった。


「任せるのが怖いんだよ、あんたは」


ルークの手が止まった。弁当箱の蓋を持ったまま、動けなくなった。


目は笑っていなかった。しかし、怒ってもいなかった。この街の食事を作り続けた女の目だ。人間を見る目だ。


「アリスもザックも、あんたがいなくても回せるだけの力がある。あんたが作った仕組みが、それを証明してる。でもあんたは——自分がいなくなることが怖い。必要とされなくなることが怖い。違うかい」


元の世界の記憶が閃いた。窓際の席。誰にもCCされないメール。存在しても存在しなくても変わらない日常。二十四年間、田中修が最も恐れていたもの。


——自分がいなくても、世界が回ること。


おかみは三秒待ってから、ふっと表情を緩めた。


「でもね、それでいいんだよ」


「……何がだ」


「怖いまま行きな。怖いってことは、あんたが本気だってことだ。怖くもないのにヘラヘラ出て行く奴より、よっぽど信用できる」


踵を返した。ドアに手をかけ、振り向かずに言った。


「弁当、残すんじゃないよ。卵は塩振ってあるから、そのまま食べな」


ドアが閉まった。


ルークは弁当箱の蓋を静かに閉じ、布で包み直した。


翌朝。午前五時。


サンアンド領の港は、まだ薄暗かった。東の空が紫から淡い橙に変わり始めている。波は穏やかで、繋留された中型帆船が緩やかに揺れていた。


四人は静かに乗り込んだ。


アリスが帆の点検を終え、風の具合を確認する。ユイが航路を示し、東南東の方角を指さした。ルークは船尾に荷物を積み、マルタの弁当箱を丁寧に固定した。


「出すぞ」


アリスの声で、係留綱が解かれた。帆が風を孕み、船体がゆっくりと岸を離れる。


サンアンド領の灯が遠ざかっていく。


ペントハウスの塔。市場の屋根。ホウシ・ボードが立つ広場の片隅。パン屋の煙突。食堂の明かり——もう早起きして仕込みを始めているのだろう。


船尾から街を見つめていたルークの横で、かすかな音がした。


鼻をすする音。


ザックだった。


マントの襟で目元を拭っている。朝露のせいだと言い張るつもりだろうが、朝露は目の下を流れない。ザックの肩が小さく震えていた。三年間過ごした街だ。初めて——居場所ができた街。


ルークは見た。


見た上で、見なかったことにした。


「コーヒー、淹れるか」


「……え?」


ルークは船室から豆と器具を取り出し、慣れない手つきで準備を始めた。コーヒーを淹れるのは普段ユイの役目だが、今朝だけは自分でやる。理由はない。ただ——手を動かしていたかった。


湯が沸き、豆が挽かれ、深い香りが潮風に混じった。


四つのカップに注ぎ分ける。ユイの淹れ方には遠く及ばない。濃すぎるし、温度も高すぎる。しかし文句を言う者はいなかった。


ザックが両手でカップを包み、一口飲んだ。目元はまだ赤かったが、もう震えてはいなかった。


「……苦いです」


「そうか」


「でも、悪くないです」


ルークはカップを傾けた。確かに苦い。確かに悪くない。


船は東南東へ進む。背後のサンアンド領の灯は、水平線の手前で小さな星のように瞬いている。やがてそれも見えなくなるだろう。しかし——消えるわけではない。灯はそこにある。マルタが仕込みをし、グレタがパンを焼き、ギルド評議会がマニュアル通りに業務を回す。田中修がいなくても。


怖いまま行きな。


マルタの声が、潮風の中で反響した。


ルークは空になったカップを置き、前方の海を見た。水平線の向こうには、まだ見ぬ大陸がある。翻訳できない言葉と、読めない刻印と、壊れた制度を持つ場所。


事なかれ主義スキルが起動した。


三秒間の空白。


二杯目のコーヒーを淹れ始めた。

最後までお読みいただきありがとうございます。


もし「日本では当たり前になりつつ倫理観で無双するのも面白いな」「憧れのホワイト経営の先が気になる」と少しでも思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると大変励みになります。

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