第63話「虹色の帰路と、二つの重力」
金曜日、午後十一時四十八分。
帰還期限まで、あと十二分。
ルークはリビングのテーブルの前に立っていた。家族は寝ている。二階からは物音一つしない。
テーブルの上に、二つのものを置いた。
一つは、USBメモリ。中には宮園景に渡した業務改善マニュアルの完全版が入っている。景が紙ナプキンのメモだけで迷わないよう、アイゼンハワー・マトリクスの解説と、第五象限の概念図と、業務範囲の確認テンプレートを加えた。パソコンで二時間かけて作成した。
もう一つは——景への手紙。封筒の表に「宮園景様」。中身は簡潔だ。
USBメモリの使い方と、一行の言葉。「仕組みを変えろ。人を責めるな」
陽子への手紙は、すでに玄関の靴箱の上にある。
これで、元の世界に残すべきものはすべて残した。
ルークはポケットから次元転移キーを取り出した。結晶体の虹色の光は、三日前より弱くなっている。エネルギーの残量が減っているのだ。片道分。これを使えば、サンアンド領に戻る。次のチャージまで六ヶ月。
リビングを見回した。
テレビ。ソファ。テーブル。時計。カーテン。冷蔵庫の低い唸り。二階への階段。
この家は、ルークの人生そのものだ。
しかし——サンアンド領もまた、ルークの人生だ。
二つの人生。二つの帰る場所。
鍵を握る手に、力を込めた。
結晶体が反応した。虹色の光が指の隙間から漏れ、腕を伝い、胸へ、全身へ。
視界が白くなる直前——ルークは、天井を見上げた。
光が、すべてを呑み込んだ。
転移空間。
音がない。色がない。重力がない。前回の転移と同じ——無音、無色、無重力の空白。
しかし今回は、感覚が違った。
引かれている。
二つの方向に、同時に。
背中を——元の世界が引いている。あのリビングの天井が、陽子の「おかえり」が、なみの「帰ってきてね」が、コピー機のトナーの匂いが、社食の火曜カレーが。田中修の二十四年間が、彼の背中に手を伸ばし、「行くな」と引いている。
胸を——異世界が引いている。サンアンド領の朝日が、アリスのコーヒーが、ザックの日報が、安楽椅子の温もりが、ゴーレムの掃除音が。ルークの三年間が、彼の胸に手を伸ばし、「帰ってこい」と引いている。
どちらも、手放さない。
どちらも、「お前はこっちのものだ」と主張している。
ルークは目を閉じた。転移空間の虚無の中で、意識だけが浮遊している。
二つの世界の重力に、身を委ねた。引き裂かれるのではなく——二つの力が自分の中で均衡する、その一点を探す。
天秤のように。
コーヒーカップの中の液面が水平を保つように。
均衡点は——ある。
田中修の中に、確かにある。
二十四年の重みと、三年の重みが、同じ天秤の両端に載っている。年数は違う。密度も違う。しかし重さは——等しい。
なぜなら、どちらも「田中修の人生」だからだ。
その時だった。
均衡点に意識を置いた瞬間——視界の端に、何かが明滅した。
虹色でも白でもない。銀色に近い、しかし銀色とも違う、見たことのない色彩。金属的でありながら有機的。冷たいのに温かい。矛盾した印象を同時に放つ光。
光の中に、映像が浮かんだ。一秒にも満たない、瞬きのような映像。
草原だった。
どこまでも続く、緑の草原。空は——空の色が、おかしい。青でも灰色でもなく、淡い紫色をしている。地平線の向こうに、太陽ではない何かが光っている。球体だが、太陽より小さく、色は白金色。
草原の真ん中に、一脚の椅子がある。
安楽椅子だ。
ルークのものと同じ形。しかし色が違う。ルークの椅子は焦げ茶の革張りだが、草原の椅子は——白い。まっさらな白。誰も座ったことがないかのように、傷一つない。
椅子の横に、小さなテーブル。テーブルの上に、コーヒーカップ。湯気が立っている。
そして——椅子の背後に、人影。
人影の輪郭は曖昧で、性別も年齢も判然としない。ただ——こちらを見ている。見ているというより、「待っている」
映像は、そこで途切れた。
銀色の光が消え、転移空間の虚無が戻った。
ルークは目を開けた。何も見えない。何も聞こえない。しかし——今の映像は、確かに「見た」。幻覚ではない。
あれは何だ。
元の世界でも、異世界でもない。第三の場所。
紫色の空。白金色の光源。白い安楽椅子。待っている人影。
今は——考えない。
今は、帰る。
光が収束した。
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
石と木と、かすかな花の香り。朝露を含んだ空気。そして——コーヒーの、深煎りの香り。
次に音。
鳥の声。遠くでハンマーが鳴る音。石畳の上をゴーレムが掃く、しゃりしゃりという音。
最後に光。
朝日だった。
窓から差し込む、オレンジ色の朝日。ペントハウスの東向きの窓。サンアンド領の夜明け。
ルークは安楽椅子の横に立っていた。椅子は——三日前と同じ位置にある。しかし、微妙に角度が調整されている。窓からの朝日が、座った人間の右頬にちょうど当たるように。
誰かが、椅子の向きを直した。
テーブルの上に、コーヒーカップ。湯気が立っている。淹れたて。
「おかえりなさいませ、ルーク殿」
振り返ると、部屋の入り口にアリスが立っていた。
騎士然とした姿勢
その横に、ザック。
スーツを着ている。三年前はチンピラだった男が、清潔な——スーツに身を包み、髪を整え、靴を磨いている。胸ポケットにはペンが二本。黒と赤。
二人とも、泣いていなかった。
不在テストを経て、二人は「ルークは必ず帰る」と信じるようになっていた。信じたから、泣かない。代わりに——コーヒーを淹れて待っていた。
「コーヒーの豆は、ルーク殿がお留守の間に新しい農園から仕入れたものです。東の丘陵地帯で、ドワーフの農家が小規模栽培を始めまして。標高と気温の条件が、以前ルーク殿が理想とおっしゃっていたスペックに近かったもので」
アリスの説明は、いつも通り丁寧で、いつも通り長い。
ルークはカップを手に取った。
一口飲んだ。
酸味が穏やかで、コクが深い。後味に微かなチョコレートの風味。ブルーマウンテンNo.1には及ばないが——この三年で飲んだ豆の中では、最上位に入る。
「……悪くない」
ルークが言った瞬間——アリスの肩から、目に見えて力が抜けた。
その背後で、ザックが小さくガッツポーズをしていた。拳を腰の高さで、控えめに。しかし口元は完全にニヤけている。
アリスが横目でザックを見た。ザックが慌てて姿勢を正した。二人の間に、無言のやり取りが一瞬で交わされる。阿吽の呼吸。ルークがいない三日間で——いや、この三年間で——二人が築き上げたチームワークだ。
ルークは安楽椅子に座った。
椅子が、体温と姿勢を感知してクッションを調整する。三日ぶりの感触。背中から肩、腰、太腿——すべてのポイントに、微調整が入る。
窓の外では、サンアンド領の朝が始まっている。ゴーレムが石畳を掃き、獣人が見回りを開始し、ドワーフ工房から最初のハンマーの音が響く。
ルークは目を閉じ、コーヒーを一口。
「……ただいま」
元の世界の玄関では言えなかった二文字が、ここでは自然に出た。
アリスが微笑んだ。ザックが鼻をすすった。泣いていないと言ったが——目の縁は、少しだけ赤かった。
二つの世界 二つの「ただいま」 二つの「おかえり」
それが、田中修の——ルークの——今の「レベル」だった。




