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第65話「ザックの独り立ち——初めての単独交渉」

吐きそうだった。


馬車の荷台に揺られながら、ザック・ヴァレンハイトは三度目の深呼吸をした。効果はなかった。胃の底が絞られるような感覚が、朝から一向に治まらない。


隣町レッドブリッジまで、馬車で約二時間。サンアンド領の東に位置する、人口三千ほどの小さな交易町だ。鉄鉱石の産地で、ドワーフ工房の資材調達先として重要な拠点——というのは、ルーク殿から渡されたブリーフィング資料の受け売りだ。


資料は三枚。ルーク殿の字で、交渉の要点が箇条書きにされている。


ザックはその三枚を、昨夜七回読んだ。


七回読んで、暗記した。暗記してなお、不安で眠れなかった。朝四時に起きて、もう一回読んだ。八回目。それでも胃の底の塊は消えなかった。


初めての単独交渉。


これまでの三年間、交渉の席にはいつもルーク殿がいた。ルーク殿が話し、ザックは横でメモを取った。ルーク殿が判断し、ザックはそれを文書にした。主語は常にルーク殿で、ザックは述語に過ぎなかった。


今日、初めて——ザックが主語になる。


馬車が揺れた。石畳から土道に変わったのだ。サンアンド領の舗装された道路から、レッドブリッジとの境界を越えると、途端に道が荒れる。インフラの差。ルーク殿が作った「仕組み」の恩恵を、こういう瞬間に実感する。


ザックは胸ポケットに手を当てた。ブリーフィング資料の三枚目。その余白に、ルーク殿が赤ペンで書き加えた三行。


交渉の三原則。


一、相手の「本当の欲求」を聞き出せ。 二、先に譲歩を見せろ。 三、最後に「一緒にやりましょう」と言え。


一つ目。「本当の欲求を聞き出せ」。


ルーク殿はこう教えた。


「交渉で相手が最初に出してくる要求は、本音じゃない。それは『交渉用の要求』だ。値引きしろ、納期を早めろ、条件を変えろ——全部、表面のカードだ。本当の欲求は、その裏に隠れている。相手が何を恐れていて、何を求めていて、何なら妥協できるのか。それを聞き出せ。聞き出すには、まず黙れ。相手に喋らせろ」


二つ目。「先に譲歩を見せろ」。


「交渉は綱引きじゃない。先にこっちが一歩下がると、相手は不安になる。なぜこいつは引いたのか。何か裏があるのか。その不安が、相手の頭を回転させる。回転した頭は、硬直した頭より合意に近い。これをアンカリング効果と言う——まあ、名前は覚えなくていい。要は先に一つ譲れ。そうすれば相手も一つ譲る。人間はそういう生き物だ」


三つ目。「最後に『一緒にやりましょう』と言え」。


「交渉のゴールは、勝つことじゃない。次に会った時、相手が嫌な顔をしないことだ。だから最後は必ず、敵対ではなく協力の言葉で締めろ。『一緒にやりましょう』。この一言で、交渉は取引から関係に変わる」


ザックは三原則を、馬車の中で十二回反復した。


十二回目の途中で、馬車が止まった。レッドブリッジに着いた。


交渉の相手は、レッドブリッジの商工ギルド長、ハインツという初老の男だった。


赤ら顔で恰幅がよく、声が大きく、笑い方が豪快。典型的な「地方の実力者」だ。握手の力が強い。ザックの手が痛い。


「ほう、サンアンド領の使者か! 聞いておるぞ、あの街の噂は。で、今日はどんな用件だ?」


交渉の場は、ハインツの事務所。古い木造の建物で、壁には鉱石のサンプルが並んでいる。テーブルの上に茶が出された。ザックは一口飲んだ。渋い。


「あの、ハインツ殿。本日は、鉄鉱石の長期供給契約について——」


「ああ、それなら条件を聞こう。こっちも在庫は潤沢だ。で、いくらで買う?」


いきなり価格の話だ。


ザックの胃が縮んだ。ルーク殿なら、ここで涼しい顔をして話題をずらすだろう。しかしザックにはルーク殿のポーカーフェイスがない。顔に出る。緊張が全身から漏れている。


第一原則。相手の本当の欲求を聞き出せ。


ザックは深呼吸をして、ルーク殿の声を脳内で再生した。「まず黙れ。相手に喋らせろ」


「ハインツ殿。価格の前に、一つお聞きしてもよろしいですか」


「ん? なんだ」


「レッドブリッジの鉱山は、最近どうですか。景気は」


ハインツの表情が、一瞬だけ変わった。豪快な笑顔の裏に、影がよぎった。


「……まあ、悪くはないが。最近、南の大手鉱山が安値で市場を荒らしておってな。うちのような小規模鉱山は、正直きついところがある」


ザックの脳内で、フラグが立った。


価格競争で苦しんでいる。つまりハインツの本当の欲求は「高く売りたい」ではなく「安定した買い手がほしい」だ。大手に叩かれて先行きが不安な小規模鉱山にとって、長期契約を結んでくれる相手は——生命線だ。


第二原則。先に譲歩を見せろ。


ザックは、ルーク殿が資料に書いていた「譲歩カード」を切った。


「実は、ハインツ殿。サンアンド領としては、三年間の長期契約をお願いしたいと考えています。量は年間百トン。そして——価格は、現在の市場価格より五パーセント上乗せで」


ハインツの目が丸くなった。


「五パーセント上乗せ? こちらに有利ということか?」


「はい。その代わり、納品のスケジュールと品質基準は厳守していただきたい。サンアンド領のドワーフ工房は、品質に妥協しませんので」


先に譲った。価格を上乗せするという、こちらの「損」を先に出した。


ハインツは黙った。豪快な男が黙る時は、頭が回転している時だ。ルーク殿の言う通りだった。先にこっちが一歩下がると、相手は考え始める。


「……三年間の長期契約か。安定した取引先は、正直ありがたい。南の大手が値段を下げてきた時も、うちには固定の買い手がいると言えれば——」


ハインツが本音を漏らした。


ザックは内心で拳を握った。第一原則クリア。本当の欲求が見えた。「安定」だ。


しかし、ここからが難しかった。


品質基準の具体的な数値で、ハインツと意見が割れた。サンアンド領のドワーフ工房が要求する純度と、レッドブリッジの鉱山が保証できる純度に、微妙な差がある。


ザックはブリーフィング資料を見返した。ルーク殿は品質基準について「下限値」と「理想値」の二段階を設定していた。下限値を割らなければ契約は成立する。


しかし——ザックは理想値で押してしまった。


「純度九十八パーセント以上を基準としたいのですが——」


「九十八? それは厳しいな。うちの設備では九十六が限度だ」


空気が硬くなった。


ザックの額に汗が浮いた。まずい。理想値に固執しすぎた。ルーク殿なら、ここで下限値に切り替えてスムーズに着地させるだろう。しかしザックは——一度言った数字を撤回することに、抵抗があった。弱く見えるのではないかと。


五分間の硬直。


ザックの脳裏に、ルーク殿の声が響いた。三年前、初めて書類の書き方を教わった夜の声。


「間違えたら、書き直せ。恥ずかしがるな。間違いを直せるのは、間違いに気づいた人間だけだ」


ザックは息を吐いた。


「……ハインツ殿。すみません。先ほどの九十八パーセントは、理想値でした。実際の契約基準としては、九十六パーセントで問題ありません。ただし、将来的に設備更新をされる際には、九十八を目標にしていただけると——」


「ほう。将来的に、か」


着地点が見えた。


第三原則。最後に「一緒にやりましょう」と言え。


ザックは立ち上がり、ハインツに手を差し出した。


「ハインツ殿。サンアンド領とレッドブリッジで、一緒にいい仕事をしましょう」


ハインツは一瞬きょとんとし——そして、豪快に笑った。


「はっはっは! 若いのに、なかなか言うじゃないか!」


握手。今度は痛くなかった。


帰りの馬車の中で、ザックは契約書の控えを膝の上に広げていた。


結果。長期契約は成立。価格は市場価格プラス五パーセント。品質基準は九十六パーセント。数量は年間百トン。期間は三年。


半分成功だ。


価格と期間はルーク殿の設定通り。しかし品質基準は、理想値の九十八ではなく下限値の九十六で着地した。本来なら最初から下限値で提示し、浮いた交渉カードを別の条件に使うべきだった。ザックの「意地」が、カードを一枚無駄にした。


完璧ではない。しかし、破綻もしていない。


ザックらしい結果だ。泥臭くて、不格好で、しかし——自分の足で歩いて辿り着いた結果だ。


馬車がサンアンド領の石畳に入った。車輪の音が変わる。滑らかで、安定した振動。ルーク殿が作ったインフラの上を走っている実感が、尻から背骨を伝って頭まで届く。


タワーマンションが見えてきた。最上階のペントハウスの窓に、明かりがついている。


ルーク殿は起きている。


ギルドのカウンターで報告した。契約書の控えを提出し、交渉の経緯を口頭で説明した。品質基準で失敗したことも、隠さずに。


ルーク殿は安楽椅子に座ったまま、契約書に目を通していた。


赤ペンを手に取った。


ザックの心臓が縮んだ。赤ペンは修正の印だ。間違いを示す色。三年間、何百回もこの赤ペンに丸をつけられてきた。「ここ、もう一回」と。


ルーク殿のペン先が契約書の上を移動する。品質基準の欄で止まった。


ザックは唇を噛んだ。


代わりに、契約書の余白に一言だけ書いた。


ペンを置き、ザックの顔を見た。


「……上出来だ」


二文字。


三年間で何度も聞いた言葉だ。日報を書けば「上出来だ」。ファイリングを終えれば「上出来だ」。しかし——交渉から帰ってきて、初めてもらう「上出来だ」は、今までのどれとも重さが違った。


ザックの視界が、滲んだ。


しかし——止められなかった。


涙が一筋、頬を伝って顎から落ちた。契約書の上に、ぽたりと染みを作った。


「す、すみません、ルーク殿——契約書に——」


ルーク殿はコーヒーを一口飲み、窓の外を見た。


ザックにはわかった。ルーク殿がこういう時に窓の外を見るのは、こちらの涙を「見ていないふり」をしてくれているのだ。三年間の付き合いで、それくらいはわかる。


ザックは袖で顔を拭い、背筋を伸ばした。


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