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第62話「なみの直感と、父の嘘」

木曜日、午後十時。


ルークはリビングで荷物の確認をしていた。


荷物といっても大した量ではない。異世界に持ち帰るものは何もない。次元転移キーがあれば、体一つで渡れる。しかし——元の世界を離れる前に、身辺を整理しておく必要があった。


景に渡した業務改善メモのバックアップ。山田部長への休暇届(体調不良の事後申請という体裁で


やっていることが、異世界の出航準備とあまりにも違う。サンアンド領を離れる時は、アリスへの引き継ぎ書とザックへの日報フォーマットの最終確認だった。


玄関にカバンを置いた。中身は明日の着替えと洗面用具

「体調不良のため数日休みます」と連絡を入れる予定だが、万が一誰かが自宅を訪ねてきた時のために、「出張に行った」という体裁を整えておく。カバンが玄関にあれば、陽子にもなみにも自然に映るはずだ。


はずだった。


二階から足音が降りてきた。


なみだ。


リビングのドアが開いた。


「お父さん」


なみがパジャマ姿で立っていた。髪を後ろで一つに束ね、手にはスマートフォンを持っている。レポートの作業中だったのだろう、目が少し充血している。


「どうした。まだ起きてたのか」


「レポート。……お父さんこそ、何してるの」


「いや、別に——」


「明日、どこか行くの?」


ルークの動きが、コンマ三秒だけ止まった。


なみの目が、玄関の方向を指していた。ルークが五分前に置いたばかりのカバン。ドアは閉まっているが、なみは二階から降りてくる途中で玄関を通った。カバンは靴箱の横に置いてある。


「カバンが玄関にある」


「ああ……明日、ちょっと出張でな」


「中身、いつもと違うでしょ。着替えが多い」


ルークは内心で舌を巻いた。


カバンは閉じてある。ジッパーを開けなければ中身は見えない。しかしなみは、カバンの膨らみ具合から中身の量を推測したのだ。普段の日帰り出張のカバンと、今日のカバンでは厚みが違う。


この子の観察眼は、アリスより鋭い。


「出張だ。三日ほど」


ルークは嘘をついた。声のトーンを変えず、目を逸らさず、

なみは黙って頷いた。


「……そっか」


それだけ言って、キッチンに向かった。冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を取り出し、一口飲む。


しかし——冷蔵庫のドアを閉める時、なみの横顔が一瞬だけ、ルークの方を向いた。


その目を、ルークは読めなかった。


怒りではない。悲しみでもない。疑惑ですらない。もっと静かで、もっと深い——「知っている」という目。


その「追及しない」という選択が、二十歳の娘の、父に対する信頼なのか諦めなのか。ルークには判断がつかなかった。


なみがカウンターに肘をつき、ペットボトルを手の中で回している。


「お父さん」


「ん」


「出張って、どこ」


「大阪の取引先だ」



「ふうん」


なみの返事は淡白だった。しかし、その「ふうん」の音程が、通常より半音低い。小さい頃からそうだ。なみが嘘を見抜いた時の相槌は、必ず半音下がる。


ルークはそれを知っている。知っているが——今は、知らないふりをする。


沈黙が流れた。


リビングの時計が、カチカチと秒を刻む。テレビは消えている。二階からは陽子の寝息も聞こえない。家全体が、この親子の間の沈黙に耳を澄ませているようだった。


「お父さん」


「ん」


「嘘つく時、お父さんって目が動かなくなるの、知ってた?」


ルークの心臓が、一拍跳ねた。


「普段のお父さんは、話す時にちょっとだけ右を見る癖がある。記憶を探ってるんだと思う。でも嘘をつく時は、まっすぐ相手を見る。嘘がバレないように、意識的にアイコンタクトを取るから」


なみの声は穏やかだった。責めているのではない。観察結果を報告しているだけだ。


「小学校の時から知ってた。サンタさんがいるって嘘ついた時も、おばあちゃんが入院した時に大丈夫って嘘ついた時も。お父さんの嘘は、全部同じパターン」


ルークは何も言えなかった。


三大陸の外交を切り抜けた男のポーカーフェイスが、二十歳の娘に丸裸にされている。


「でもね、お父さん」


なみがペットボトルのキャップを閉め、ルークの目をまっすぐに見た。


「お父さんが嘘をつくのは、いつも誰かを守ろうとしてる時なの。サンタの嘘は私のため。おばあちゃんの嘘もそう。お父さんの嘘は、全部——優しい嘘」


一拍の間。


「今回は、誰を守ろうとしてるの?」


ルークは——答えられなかった。


答えるべき言葉を持っていなかった。異世界の数百人のために作った言葉も、三大陸の条約のために選んだ言葉も、この質問の前では無力だった。


「……お前には、いつか話す」


出てきたのは、それだけだった。


なみは三秒ほどルークの目を見つめ——やがて、小さく頷いた。


「わかった」


それ以上は聞かなかった。ペットボトルをカウンターに置き、リビングを横切って階段に向かう。


階段の一段目に足をかけた時、なみが振り返った。


「お父さん」


「ん」


「帰ってきてね」


それは「出張」に対する言葉ではない。なみはわかっているのだ。父がどこか——普通ではない場所に行こうとしていることを。そして、帰ってこられるかどうかが確実ではないことを。


「ああ。帰ってくる」


これだけは——嘘にしない。


なみは微笑んだ。


父の目が「本当のこと」を言っている時のパターンに切り替わったことを、彼女はちゃんと読み取ったのだ。


「おやすみ、お父さん」


「おやすみ」


足音が階段を上がっていく。一段飛ばしの軽い足音が遠ざかり、二階のドアが静かに閉まった。


ルークは玄関のカバンを確認し、リビングの電気を消した。靴箱の上の封筒——陽子への手紙——が、暗闇の中でかすかに白く浮かんでいる。


明日の夜。この家を離れる。


次に帰るのは、六ヶ月後だ。

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