第61話「残り24時間と、妻への手紙」
水曜日、深夜二十三時。
帰還まで、あと二十四時間を切った。
リビングの電気は消してある。テレビも消した。陽子は二階の寝室で寝ている。なみは自室でレポートを書いているはずだが、三十分前に二階の明かりが消えた。
家の中に、起きているのはルーク一人だ。
食卓に座っている。目の前には便箋と封筒。ボールペン。マグカップに入れたほうじ茶——陽子の習慣がうつったのか、この家にいると無意識にほうじ茶を淹れてしまう。
便箋は、なみの部屋の引き出しから拝借した。大学のロゴが入った、薄いクリーム色の紙。娘が入学式の時にもらった記念品だろう。一枚くらいなくなっても気づくまい。
ペンを手に取った。
キャップを外した。
便箋に、ペン先を下ろした。
書けない。
異世界で田中修——ルーク——は、膨大な量の文書を作成してきた。
サンアンド領の行政規則。コンプライアンス・ガイドライン。業務マニュアル全十二巻。ギルドの雇用契約書テンプレート。三大陸間の通商条約草案。ダイコクとの和解文書。ヴォルフの降伏受諾書。シャングリア条約の前文。ムー大陸圏との通貨交換協定。
どれも、一字一句に法的拘束力と政治的影響を持つ文書だった。一つの誤字が外交問題になりかねない。一つの曖昧な表現が、数千人の生活を左右する。
その緊張の中で、ルークは常に的確な言葉を選んできた。
言葉で人を動かし、沈黙で人を受け止め、文書でシステムを構築してきた。
しかし。
目の前の便箋に、妻への手紙が——書けない。
何を書く。
ルークはペン先を紙の上で止めたまま、天井を見上げた。あの天井。左上の雨漏りの染み。
「陽子へ」
宛名の次が、出てこない。
異世界で英雄やってました——書けるわけがない。精神科に連れていかれる。
いつもありがとう——嘘ではないが、薄い。二十年分の感謝が「いつもありがとう」の六文字に収まるわけがない。収めようとした時点で嘘になる。
体に気をつけて——お前がな、と返される。
ルークはペンを置き、ほうじ茶を啜った。
ぬるい。淹れてから時間が経ちすぎた。しかし、このぬるさが田中家の味だ。陽子はいつも熱いうちに飲みなさいと言うが、ルークは猫舌なので結局ぬるくなってから飲む。二十年間そうだった。
問題を分析してみる。異世界での癖だ。
ルークが手紙を書けない理由は、感情の不在ではない。むしろ逆だ。感情が多すぎる。
陽子に伝えたいことを列挙すると、こうなる。
二十四年間、ろくに会話もしなかった。なみが生まれた日以外、有給を取らなかった。夕食を一緒に食べた回数は、おそらく年に十回もない。誕生日を忘れた年が三回ある。記念日に至っては数えたこともない。
それでも陽子は、毎晩「おかえり」と言ってくれた。冷蔵庫の二段目に夕飯を入れてくれた。玄関の鍵を開けておいてくれた。
そして——ルークがトラック事故で数日間行方不明になった後も、ソファでうたた寝しながら帰りを待っていてくれた。
怒りもせず。問い詰めもせず。ただ「おかえり、残業?」の五文字で迎えてくれた。
その五文字の重さを、ルークは異世界で三年間かけて理解した。
ダイコクの十万の軍勢より重い。シャングリア条約の条文より重い。三大陸の経済圏より重い。
たった五文字が。
その重さを——便箋の上に、どうやって載せる。
ルークは再びペンを取った。
「陽子へ」の下に、一行書いた。消した。また書いた。また消した。
便箋の上に、消し跡が三つ残った。
異世界のルークは、文書の修正を許さなかった。赤ペンで一発、正確に。書き直しは二度までと、ザックに教えた。三度目の書き直しが必要な文書は、構成自体が間違っている証拠だ——と。
今、三度目の書き直しに差しかかっている。
構成が間違っている。
ルークは便箋を裏返し、白い面を上にした。最初からやり直す。
しかし、ペンを下ろす前に——ふと、思い出した。
「言葉がないんじゃない。言葉が多すぎて選べないんだ。全部言おうとするな。一つだけ選べ。一番大事な一つだけ」
一番大事な一つ。
ルークは目を閉じ、自分に問いかけた。
陽子に、一つだけ伝えるとしたら。二十年分の感謝でも、謝罪でも、愛情表現でもなく——たった一つの、最も核心的な言葉。
暗闇の中で、答えが浮かんだ。
浮かんだ瞬間、ルークは理解した。この言葉は今の陽子には意味が通じない。異世界の文脈を知らなければ、ただの意味不明な文章にしかならない。
しかし——いつか、すべてを話す日が来たら。その日にこの手紙を読み返した時、陽子は理解するだろう。あの夜、夫が何を考え、何を選び、何を残そうとしたのかを。
ルークはペンを便箋に下ろした。
今度は迷わなかった。
書き終えたのは、五分後だった。
便箋一枚。短い手紙だ。三大陸の通商条約に比べれば、文字数は百分の一にも満たない。
しかし——書き上がるまでに要した時間は、通商条約より長かった。
ルークは手紙を封筒に入れ、封をした。表に「陽子」とだけ書いた。裏には何も書かなかった。差出人の名前は不要だ。この家で手紙を書く人間は、一人しかいない。
封筒をテーブルの上に置いた。
しかし——すぐに手を伸ばし、封筒を裏返した。そしてまた表に戻した。三回繰り返して、最終的に表を上にして置いた。
これを、どこに置く。
ルークは封筒を持って立ち上がり、リビングを見回した。
テレビ台の横。本棚の隅。食器棚の引き出し。
最終的に選んだのは、玄関の靴箱の上だった。陽子が毎朝、新聞を取りに出る時に必ず通る場所。しかし、意識して見なければ気づかない位置。
時計を見た。午前零時十二分。帰還まで、あと約二十三時間。
明日の夜には、この家を離れる。次に帰れるのは半年後だ。
ソファに腰を下ろし——いや、横になった。陽子が昨夜うたた寝していたソファ。クッションにはまだ、かすかに陽子の匂いが残っている。柔軟剤と、ほうじ茶と、ほんの少しだけ日向の匂い。
この匂いを、異世界に持っていくことはできない。
次元転移キーは物質を運べるが、匂いは運べない。記憶には残る。しかし記憶の中の匂いは、いつか薄れる。
だから、今、覚えておく。
ルークは目を閉じた。
便箋に何を書いたのか。封筒の中の、あの短い手紙の内容。
それは——田中修と陽子の間だけの言葉だ。
今はまだ、誰にも明かす必要はない。
リビングの時計が、小さく時を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ。
異世界にはデジタル時計もアナログ時計もなかった。時間は太陽の位置と、鐘の音で知った。
この秒針の音を——何万回、聞いただろう。
しかし——同じソファで、同じ秒針を聞きながら、田中修の胸の中にある感情は、二十四年前とはまるで違っていた。
あの頃は、疲労。
今夜は——覚悟。
二つの世界を、帰る場所にする覚悟。
ルークは、陽子の匂いが残るクッションに頬を押し当てたまま、浅い眠りに落ちた。
玄関の靴箱の上に、一通の封筒が置かれている。
表には「陽子」とだけ。
中身を知るのは、田中修だけだ。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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