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第58話「会議室の空気と、無意識の覇気」

第二会議室。


定例進捗会議は、毎週火曜のこの時間に行われる。出席者は各部門の課長および課長補佐、計十四名。議題は先週の業績報告と今週の計画共有。所要時間は——建前上は一時間、実質的には一時間半から二時間に及ぶのが常だ。


田中修は、会議室の奥から二番目の席に座った。窓際の課長補佐に与えられる定位置だ。発言を求められることは稀で、議事録を取る必要もない。ただ座って、聞いて、時折メモを取るふりをする——それが、この会議における田中修の二十四年来の役割だった。


今日も、そのつもりだった。


会議が始まった。


営業部の村瀬課長が、先週の受注実績を報告している。スクリーンにはパワーポイントのスライドが投影され、棒グラフと折れ線グラフが並んでいる。


「先月比で約三パーセントの伸びを見せておりまして、特に自動車部品セグメントにおける——」


ルークは黙って聞いていた。


腕を組み、椅子の背もたれに体を預け、半眼で村瀬の報告に耳を傾けている。いつもの姿勢。いつもの表情。何一つ変わらない——はずだった。


しかし。


会議室の空気が、微かに変質していた。


最初に異変を感じたのは、ルークの隣に座る品質管理部の斎藤課長補佐(48歳)だった。斎藤はルークとは十五年以上の付き合いで、この会議でも隣の席が定位置だ。


いつもの田中修は、会議中ほとんど気配を消している。いるのかいないのかわからない。隣に座っていても、存在を忘れることすらある。空気のような男——それが斎藤の認識だった。


今日は違う。


何が違うのかはわからない。田中の姿勢も表情も、目に見える範囲では変わっていない。腕を組み、背もたれに体を預け、黙って前を向いている。


しかし——隣にいると、肌がざわつく。


斎藤は無意識に姿勢を正した。猫背になりかけていた背筋が、勝手に伸びた。理由は自分でもわからない。ただ、隣の男に「だらしない姿を見せてはいけない」という衝動が、脊髄反射のように体を動かした。


異変を感じたのは斎藤だけではなかった。


テーブルの向かい側、議長席の隣に座る業務管理部の山田部長(56歳)が、報告者の村瀬に視線を向けたまま——一瞬だけ、ルークの方をちらりと見た。


目が合った。


正確には、目が合ったかどうかも定かではない。ルークの半眼が山田を捉えていたのか、それとも虚空を見ていたのか。しかし山田は、その一瞬の交錯で——不思議と、自分の言葉に力を入れなければならないと感じた。


何だ、あの目は。


山田は四十年近いサラリーマン人生で、数多くの人間の目を見てきた。部下の目、上司の目、取引先の目、銀行の目。しかし今、田中修の半眼が放つ静かな重力は、そのどれとも違った。


強い目ではない。威圧的でもない。むしろ穏やかだ。しかし——深い。底が見えない。まるで湖面のように静かで、その下に膨大な情報と判断の蓄積がある。


部品メーカーの窓際課長補佐の目ではない。


もっと大きなもの——数百人の、あるいは数千人の人間と向き合ってきた人間の目だ。


山田はその直感を意識の隅に押しやり、会議の進行に戻った。しかし、喉の奥にわずかな緊張が残った。


会議は進む。


製造部の報告。品質管理部の報告。経理部の報告。各部門の課長が、それぞれの数字を読み上げていく。


ルークは黙って聞きながら、異世界で鍛えた分析脳がフル稼働しているのを感じていた。止められない。職業病だ。


製造部の報告——ラインの稼働率が先月比で二ポイント下がっている。しかし報告者はその原因に触れず、「季節要因」の一言で片付けた。ルークの脳内では即座にフラグが立つ。稼働率低下の真因は設備の老朽化だ。先月の修繕報告書を読めば明らかだが、おそらく製造部長は設備投資の予算申請を避けたいのだろう。


品質管理部の報告——不良率が基準値内に収まっているとのこと。しかし、基準値の設定自体が五年前のままだ。市場の品質要求は年々上がっている。基準値内であることは「問題がない」ことを意味しない。「問題に気づく基準が古い」だけだ。


経理部の報告——キャッシュフローは健全。しかし売掛金の回収サイトが三ヶ月前から微妙に延びている。これは取引先の資金繰りが悪化している兆候だ。放置すれば半年後に——


ルークは頭を振った。


止めろ。ここはサンアンド領ではない。三大陸の経済圏でもない。


定例会議だ。


窓際の課長補佐が、各部門のリスクを脳内で洗い出す必要はない。


しかし、脳は止まらなかった。


異世界の三年間で、ルークの情報処理能力は根本的にアップグレードされていた。数百人の組織を管理し、複数の勢力の利害を同時に分析し、リアルタイムで最適解を導き出す——その回路が、たかだか十四人の会議室でも自動的に起動してしまう。


各部門の報告が、ルークの脳内ではリアルタイムで「リスクマップ」に変換されていた。赤・黄・緑の三段階。製造部は黄色。品質管理部は黄色。経理部は赤寄りの黄色。営業部は——


「——田中さん、何か?」


名前を呼ばれた。


顔を上げると、議長の山田部長がこちらを見ていた。会議室の視線が、一斉にルークに集まる。


しまった。


無意識のうちに、眉間に皺を寄せていたらしい。経理部の報告中に、売掛金の回収サイト延長に気づいた瞬間の——分析に没頭する時の癖だ。アリスにも「ルーク殿、そのお顔は何か問題を発見された時のお顔です」と指摘されたことがある。


「いえ、何でもありません。失礼しました」


ルークは表情を戻した。しかし山田の目は、まだこちらに留まっている。


「田中さん、何か気になる点があるなら遠慮なく。業務管理部としての視点もいただきたい」


振られた。


二十四年間、この会議で意見を求められたことは片手で数えるほどしかない。それが今日に限って——おそらく、ルークの「覇気」が無意識のうちに会議室の空気を変えてしまったせいだ。


断るべきだ。窓際の課長補佐が突然鋭い分析を披露すれば、目立つ。目立てば警戒される。静かに、誰にも気づかれない速度で——それが方針だったはずだ。


しかし——脳が、勝手に口を動かした。


「一点だけ。先ほどの報告にあった新規案件ですが、設計時適格性評価の——」


言いかけて、止まった。


会議室の空気が、凍った。


設計時適格性評価。デザイン・クオリフィケーション。略称DQ。医薬品や高度管理医療機器の製造プロセスで使われるバリデーション用語だ。自動車部品の中堅メーカーの定例会議で、この言葉が出てくることは——ない。



サンアンド領で、ルークが構築した品質保証システムの中核概念


新規の製造プロセスや設備を導入する際に、設計段階で「本当にこの仕様で目的を達成できるか」を事前検証する手法


ルークはこれをシャングリア大陸の地熱プラント建設にも適用し、ダイコクのウェルネス・リゾートの設備検証にも


そんなことは、この会議室の誰も知らない。


「……すみません。えーと、つまり——設計段階での事前検証が、十分にされているかという点が少し気になりまして」


ルークは平易な言葉に言い換えた。しかし遅い。「設計時適格性評価」の七文字は、すでに会議室の空気に刻まれていた。


数秒の沈黙。


製造部の井上課長が首を傾げ、隣の品質管理部の斎藤と目を見合わせた。山田部長は黙ってルークを見ている。


「……田中さん、設計時適格性評価というのは、具体的にはどういう——」


「いえ、大した話ではありません。失言でした。議事の進行を妨げて申し訳ない」


ルークは軽く頭を下げ、口を閉じた。


会議は何事もなかったかのように再開された。しかし、山田の視線がその後も断続的にルークを追っていたことに、ルーク自身は気づいていた。


十一時半。会議終了。


参加者が席を立ち、三々五々と会議室を出ていく。ルークもファイルを閉じて立ち上がろうとした、その時。


「田中。ちょっといいか」


山田部長が、出口の手前で振り返った。


他の参加者は全員出て行った後だった。会議室に二人きり。


山田は腕を組み、ルークの顔をまっすぐに見た。この人特有の、穏やかだが鋭い目。部下を四十年見てきた管理職の目。


「お前、最近何か勉強してるのか」


「……いえ、特には」


「嘘つけ。設計時適格性評価なんて言葉、うちの会社で使う人間は限られてる。医薬品の関連か、あるいは半導体の——いずれにしても、部品メーカーの業務管理畑から出てくる用語じゃない」


ルークは黙った。


「それに、お前——今日の会議中、各部門の報告を聞いてる時の顔が違った。俺は四十年この業界にいるが、あの顔は知ってる。経営層が数字の裏を読んでる時の顔だ。課長補佐の顔じゃない」


山田の言葉は的確だった。


ルークは表情を変えないまま、脳内で対応策を組み立てた。ここで全否定すれば不自然だ。かといって真実は言えない。


「……最近、品質マネジメントの本を読んでいまして。そこで見かけた用語を、つい口走ってしまいました。ご迷惑をおかけしました」


七割嘘、三割本当だ。品質マネジメントの知識は確かにある。本で読んだのではなく、異世界で実践したものだが。


山田はしばらくルークを見つめ、やがて小さく鼻を鳴らした。


「本で読んだだけで、あんな顔はしねえよ」


一拍の間。


「……まあいい。勉強してるのはいいことだ。ただし、会議で横文字を使うなら、事前に俺に一言入れろ。井上が面食らってたぞ」


山田はそう言って会議室を出て行った。


一人残されたルークは、椅子に座り直し、天井を見上げた。


失態だ。初日で馬脚を現した。


異世界の覇気と語彙を、元の世界で完全に隠し通すのは——思った以上に難しい。


ルークは胸ポケットからメモ帳を取り出し、昨日の一行の下に、もう一行書き加えた。


「会議中、口を開くな。開くなら、三秒待ってから話せ」


自分への戒め。サンアンド領では不要だった技術が、元の世界では最も重要なスキルになる。


沈黙の技術。


窓際の課長補佐に戻るために。

最後までお読みいただきありがとうございます。


もし「日本では当たり前になりつつ倫理観で無双するのも面白いな」「憧れのホワイト経営の先が気になる」と少しでも思っていただけたら、下の【☆☆☆☆☆】から評価や、ブックマークをいただけると大変励みになります。

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