第59話「社食のカレーと、宮園景の涙」
社員食堂は、本社ビルの地下一階にある。
席数は百二十。昼の十一時半から十三時までの営業で、日替わり定食が五百円、カレーが四百円、うどんが三百五十円。メニューは二十四年間、ほとんど変わっていない。
田中修は毎週火曜日にカレーを食べる。これも二十四年間変わっていない習慣だ。火曜のカレーは、なぜか他の曜日より微妙に辛い。厨房のシフトの関係か、仕込みの手順の違いか。理由は知らないが、その微かな辛さが好きだった。
トレイにカレーと水を載せ、窓際の——社食にも窓際がある——二人がけのテーブルに座った。
スプーンを手に取る。
一口目。
ルウが舌の上に広がる。業務用のカレー粉を大量の玉ねぎと煮込んだ、甘さの奥に刺すような辛みがある味。米は少し硬め。福神漬けは既製品。
三年間、この味を忘れていた——わけではない。忘れるには、二十四年の蓄積が深すぎた。
二口目を運ぼうとした時、向かいの椅子が引かれた。
「あの……田中さん。ここ、いいですか」
顔を上げた。
宮園景、二十七歳。営業部所属。入社五年目。痩せ型の、目の下にクマがある青年。スーツの襟が少しよれている。
トレイにはうどんが載っていたが、箸はつけていない。
「ああ。座れ」
景が向かいに座った。うどんの湯気が、二人の間に立ち上る。
ルークはカレーの三口目を運んだ。景はうどんに手をつけない。箸を持とうとして——その手が、震えていた。
小さな震えだ。大きくはない。しかし、箸の先端が空中で揺れ、つゆの表面に触れた瞬間、カチ、と丼のふちに当たる音がした。
景は箸を置いた。
「田中さん」
「ん」
「俺……もう無理です」
声は小さかった。社食の喧騒——食器の音、話し声、厨房の換気扇——に紛れて、隣のテーブルには聞こえないだろう。しかしルークの耳には、はっきりと届いた。
もう無理です。
その五文字の響きを、ルークは知っている。
二十四年前の自分が、風呂場の鏡に向かって同じ言葉を吐いた夜を覚えている。声には出さなかった。出す相手がいなかった。だから鏡に向かって、口の形だけで。
「辞めたい。……でも、辞めたら家のローンが」
景の声が、かすれた。
「去年マンション買ったんです。妻と相談して、三十五年ローンで。営業手当込みの年収で審査通ったから、辞めたら——返済計画が全部崩れる。妻にも言えない。でも、このままだと——」
景の手が、テーブルの上で握りしめられた。関節が白くなっている。
ルークはカレーを食べる手を止めず、黙って景の言葉を聞いていた。
心理学者マーティン・セリグマンが提唱した「学習性無力感」という概念がある。
実験はこうだ。犬を二つのグループに分ける。片方には回避可能な電気ショックを与え、もう片方には回避不可能な電気ショックを与える。しばらく後、両方の犬を「簡単に逃げられる状況」に置く。
回避可能なショックを経験した犬は、すぐに逃げ道を見つける。しかし、回避不可能なショックを繰り返し受けた犬は——逃げ道があるのに、動かない。横たわったまま、ショックを受け続ける。
「どうせ逃げられない」と学習してしまったからだ。
人間にも同じことが起きる。長期間のストレス、理不尽な業務、改善の見込みがない環境——それらに曝され続けると、人は「逃げる」という選択肢の存在そのものを認知できなくなる。目の前にドアがあっても、そのドアが見えない。見えていても、開けられると思えない。
宮園景は、まさにその状態だった。
「辞めたい」と言っている。しかし同時に「辞められない」と信じ込んでいる。ローン、妻、世間体、再就職の不安——それらが鉄の壁のように立ちはだかり、「逃げ道」を完全に塞いでいる。
実際には、壁ではない。壁に見える霧だ。手を伸ばせば突き抜けられる。しかし、学習性無力感に陥った人間には、それが見えない。
ルークは異世界で、この状態の人間を何十人と見てきた。
全員が「逃げられない」と信じ込んでいた。全員が、逃げ道を示されて初めて——自分が閉じ込められていたのは檻ではなく、自分自身の思い込みだったことに気づいた。
しかし。
「逃げろ」と言うだけでは、動けない。
学習性無力感の回復に必要なのは、「小さな成功体験の積み重ね」だ。いきなりドアを開けろと言っても、足がすくんで動けない。まず指を一本動かす。次に手を持ち上げる。それから一歩踏み出す。
小さなことから、始める。
ルークはカレーのスプーンを置いた。
胸ポケットからペンを取り出し——ボールペン。赤ではなく黒。テーブルの紙ナプキンを一枚引き抜いて、景の前に置いた。
「景。一つだけ頼みがある」
景が顔を上げた。涙は出ていないが、出る寸前だ。
「お前が今抱えている業務を、全部書き出せ。一行一タスク。思いつく順番でいい。漏れがあってもいい。とにかく全部、この紙に書け」
景は困惑した顔をした。
「業務って……なんで今——」
「いいから書け。一行一タスクだ」
ルークの声は穏やかだった。命令口調ではない。しかし、有無を言わせない静かな重力があった。会議室で山田部長が感じ取った、あの「深い目」の力。
景は黙ってペンを受け取った。
震える手で、紙ナプキンに書き始めた。
一行目。「A社への月次レポート作成」
二行目。「B社の見積もり再提出」
三行目。「C社のクレーム対応(先月から継続)」
四行目。五行目。六行目。
景のペンが加速していく。最初は一行書くのに十秒かかっていたのが、やがて三秒になり、二秒になった。堰を切ったように、業務が紙の上に溢れ出す。
七行目。八行目。九行目。十行目。
紙ナプキンの表面が埋まった。ルークが二枚目を差し出す。景は受け取り、書き続ける。
十一行目。十二行目。十三行目。
ペンの動きが鈍くなった。景の目から涙が落ちたのだ。紙ナプキンの上に、ぽたりと染みが広がった。
景はペンを止めなかった。
十四行目。十五行目。十六行目。
社食の喧騒が遠くなる。周囲のテーブルでは同僚たちが笑い、食器の音が鳴り、テレビのワイドショーが流れている。その中で、二人がけの窓際テーブルだけが——静かな、切実な空間になっていた。
ルークは何も言わなかった。
カレーのスプーンを持ち直し、口に運んだ。食べながら、景が書く文字を横目で追っている。
十九行目。二十行目。
景のペンが止まった。
「……これで、全部です」
声がかすれている。鼻をすすり、袖で目元を拭った。紙ナプキン二枚に、ぎっしりと二十のタスクが並んでいる。字は震えていて読みにくいが、内容は明確だった。
ルークは二枚のナプキンを手に取り、二十のタスクに目を通した。十五秒で全件スキャン。
脳内で自動的にリスクマップが生成される。
二十のタスクのうち、景が「今週中に」対応すべきものは——三つ。「今月中」が五つ。「来月以降で問題ない」が八つ。そして残りの四つは——そもそも景がやるべき業務ではない。上司か別の担当者の仕事が、いつの間にか景に流れてきたものだ。
典型的な過負荷のパターンだ。本人が「全部自分の仕事」だと思い込んでいるが、実際には半分以上が他人の皿から転がり落ちてきた残飯だ。
ルークはナプキンをテーブルに戻した。
「景。今日はここまでだ。明日の昼、また同じ席に座れ。この紙を持ってこい」
「え……それだけですか」
「それだけだ。今日のお前に必要なのは、書き出すことだけだ。分析は明日やる」
景は不安そうな顔をした。しかしルークの目を見て——何かを感じ取ったのか——小さく頷いた。
「……わかりました。明日、持ってきます」
景はうどんに一口もつけないまま、ナプキンを丁寧に折り畳んでシャツの胸ポケットにしまい、トレイを持って立ち上がった。その背中は、席に座った時より——ほんのわずかだが、まっすぐだった。
ルークは一人になったテーブルで、カレーの残りを食べ終えた。
完全に冷めていた。しかし、火曜のカレーの辛さは健在だった。
水を一口飲み、トレイを返却口に戻す。
社食を出る廊下で、ルークは思った。
サンアンド領での改革は、ガチャとシステムで行った。しかし元の世界には、ガチャもゴーレムもない。あるのは——紙ナプキン一枚と、ボールペン一本だけだ。
それでいい。
道具が変わっても、やることは同じだ。目の前の人間が抱えている「見えない壁」を可視化し、壁の正体を暴き、壁を越える最初の一歩を一緒に踏み出す。
ザックに教えた時と、同じだ。
アリスに判断力を授けた時と、同じだ。
紙ナプキンに二十のタスクを書かせた。それは——景にとっての「最初の一歩」だ。混沌とした頭の中を文字にする。文字にした瞬間、それは「自分の内側の苦しみ」から「外側に存在する情報」に変わる。
情報になれば、分析できる。分析できれば、分解できる。分解できれば、対処できる。
ルークがサンアンド領でタスクを処理する時と同じ手順だ。
明日。景に見せる。「この二十のうち、お前が本当にやるべきなのは三つだけだ」と。
その瞬間、宮園景の世界は変わる。
壁だと思っていたものが霧だったと気づく。その霧を、一つずつ晴らしていく。
それが——田中修にできる、元の世界での最初の仕事だった。
エレベーターのボタンを押す。三階。灰色のカーペット。蛍光灯の白い光。コピー機のトナーの匂い。
窓際のデスクに戻り、メモ帳を開く。
二行目の「会議中、口を開くな」の下に、三行目を書き加えた。
「宮園景。明日、紙ナプキンの続きをやる」
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