第57話「窓際の帰還と、コピー機の匂い」
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月曜日、午前七時四十二分。
田中修は十八分の余裕を持って、職場に到着した。
中堅の部品メーカー。従業員数約八百名。自動車部品と産業機械の精密パーツを主力とする、知名度は知っている人は知っている程度、業績は可もなく不可もなく。つまり——日本にあまたとある「一般的な日本の会社」の一つだ。
ここに24年いる。
新卒で入社し、営業を五年、品質管理を八年、そして業務管理部に異動して十一年。現在の肩書きは「業務管理部 課長補佐」課長でもなく、係長でもなく、「補佐」組織図の中で最も曖昧なポジション。権限は小さく、責任は中途半端で、存在意義を問われれば答えに窮する——そういう役職だ。
エントランスを抜け、社員証をカードリーダーにかざす。ピッ、という電子音。ゲートが開く。
この音を、何千回聞いただろう。
エレベーターに乗る。三階のボタンを押す。箱の中に、コピー用紙とトナーの匂いが残っている。誰かがコピー室から書類の束を運んだのだろう。あの匂いだ。日本中のオフィスに共通する、乾いたインクと熱を帯びた紙の匂い。
異世界には、この匂いがなかった。
羊皮紙と鉄製のインク瓶はあったが、コピー機はない。当たり前だ。ルークがガチャで出した最も先進的な事務機器でさえ、「手動式活版印刷機」が限界だった。大量複製の概念はザックに叩き込んだが、ボタン一つで同じ書類が百枚出てくるこの世界の技術には遠く及ばない。
三階。ドアが開く。灰色のカーペット。蛍光灯の均一な白。パーティションで区切られたデスクの列。朝のオフィスには、すでに数人の早出組が座っている。
業務管理部は、フロアの奥——窓際にある。
文字通りの窓際だ。
南向きの窓に面したデスクが四つ並び、そのうちの一つが田中修の席。窓際と言えば聞こえはいいが、要するに部のメインストリームから外れた「余剰スペース」だ。
通路を人が通ることもなく、来客が立ち寄ることもない。静かで、目立たず、忘れられやすい場所。
自分の席に着いた。
椅子の硬さが違う。安楽椅子の記憶が体に残っているせいだ。このオフィスチェアは、体温も姿勢も感知しない。ただの椅子だ。
パソコンを立ち上げた。起動に四十五秒。異世界のゴーレム通信なら二秒で繋がる——比較するな。ここは日本だ。
メールソフトを開いた。
受信トレイ。未読47件。
ルークの目が細くなった。
47件。金曜の早退から月曜の朝までの、実質二営業日分。一日あたり約二十三件。一件あたりの平均文字数は——スクロールして確認する——約四百字。合計すると、およそ一万九千字の情報量。
47件のうち、田中修が直接対応すべきメールは——ゼロ。
全件がCC。カーボンコピー。「あなたに直接関係はないが、一応知っておいてください」という名目で送られてくる、参考情報以下の電子ゴミ。部門間の連絡事項、他部署の会議議事録、全社通達の転送、上長が部下に送ったメールのCC追加。
田中修宛の、田中修のために書かれたメールは、一通もない。
経済学に「注意の経済学」という概念がある。
人間の注意力は有限のリソースだ。情報が増えれば増えるほど、一つ一つの情報に割ける注意は減る。重要な情報と不要な情報が同じ受信トレイに混在すれば、重要な情報を見落とすリスクが上がる。
これを「インフォメーション・オーバーロード」——情報過多による判断力の劣化——と呼ぶ。
ルークが異世界で最初に着手した改革の一つが、まさにこれだった。サンアンド領の報告システムでは、情報は必要な人にだけ、必要なタイミングで届く設計にした。
なぜなら、CCとは「責任の分散」の道具だからだ。
全員に送っておけば、「知らなかった」とは言えない。しかし逆に言えば、「全員に送った」時点で、誰も本気で読んでいない。責任は全員にあるようで、実は誰にもない。そういう構造を、ルークは異世界で徹底的に排除した。
しかし——元の世界では、それが日常だ。
47件のCCメール。誰も読まない。誰も責任を取らない。しかし「送った」という事実だけが、デジタルの海に沈殿していく。
ルークは受信トレイを閉じ、椅子の背もたれに体を預けた。
「——あ、田中さん。おはようございます。先週、体調大丈夫でしたか」
隣のデスクの同僚、高橋(課長補佐・同格)が声をかけてきた。白髪混じりの温厚な男で、ルークとは入社二年違いの同期に近い存在だ。
「ああ、もう大丈夫だ。ありがとう」
「よかった。金曜の午後、総務から全体通達の回覧が回ってきたんだけど、田中さんの分は俺が代わりに目を通しといたから」
「助かる」
高橋が小さく笑って自分のデスクに戻った。
ルークは高橋の背中を見ながら、思った。この人は24年間、隣の席にいる。隣の席にいて、回覧を代読してくれる程度の関係。深くも浅くもない。業務管理部の窓際で、二人とも同じように年を取った。
異世界にいた三年間、一度も高橋のことを思い出さなかった。
その事実が、小さな棘のようにルークの胸に刺さった。
九時。始業。
業務管理部は十二名。部長の山田(56歳)が朝礼で先週の振り返りと今週の予定を述べる。ルークは朝礼の間、立ったまま——異世界の姿勢のまま——山田の話を聞いていた。
背筋が伸びている。
自分では気づいていないが、周囲は気づいている。朝礼の後、若手の二、三人が「田中さん、今日なんか雰囲気違くないですか」と小声で話しているのが聞こえた。
席に戻り、今週の業務一覧を確認する。
品質管理システムの更新作業。取引先への月次レポート。ISO監査の事前準備。社内規定の改訂案のチェック。
どれも——ルークの能力をもってすれば、午前中で終わる量だ。
異世界では、三大陸の経済圏を統合するプロジェクトを管理していた。数百人の人員、数千のタスク、数万の変数。それに比べれば、業務管理部の週間タスクは——小学生の宿題のようなものだ。
しかし、ルークはそれを表に出さない。
出す必要がない。窓際の課長補佐が突然スーパーマンになれば、周囲が警戒する。変化は緩やかに、誰にも気づかれない速度で導入する。異世界でのアリスの育成も、ザックの教育も、すべてそうだった。
急激な変化は、組織に拒絶反応を起こす。
ルークは意図的にペースを落とし、いつも通りの速度で書類を処理し始めた。
しかし——一つだけ、我慢できないことがあった。
メールだ。
47件のCCメール。あの無意味な情報の洪水。異世界で「必要な情報を必要な人に」の原則を叩き込まれた脳には、このノイズが物理的な痛みに近い。
ルークは自分のデスクで、小さなメモ帳を開いた。
そこに、一行だけ書いた。
「CC文化の改善。ただし、誰にも気づかれないように」
これが——元の世界での、最初の「改革メモ」になった。
ペンを置き、窓の外を見る。
秋の空。高い雲。ビルの間を吹き抜ける風が、窓ガラスを微かに鳴らしている。
異世界のサウルアンドでは、今頃ザックが日報を書いている。ドワーフがハンマーを振り、ゴーレムが石畳を掃いている。
ルークはコーヒーを買いに給湯室に向かった。インスタントの粉を紙コップに入れ、熱湯を注ぐ。ブルーマウンテンNo.1とは比較にならない味。しかし——これも、田中修の日常の味だ。
紙コップを持ってデスクに戻る途中、コピー室の前を通った。
ウィーン、ガチャン、ウィーン、ガチャン。
コピー機の稼働音。トナーの匂い。温まった紙の匂い。
ルークは足を止め、一瞬だけ目を閉じた。
この匂いを——24年間、毎日嗅いでいた。
異世界の三年間は、この匂いがない世界だった。代わりにインクと羊皮紙と、ドワーフの鍛冶場の煤の匂いがあった。
今、コピー機のトナーの匂いが鼻腔を満たしている。
それだけのことなのに——帰ってきた、と思った。
コンビニの蛍光灯でも。陽子の「おかえり」でも。なみの眼差しでも。プリンの味でもなく。
コピー機の匂いで、田中修は「帰還」を実感した。
24年の重みとは、そういうものだ。
紙コップのコーヒーを啜りながら、窓際のデスクに座る。
午前十時。47件のCCメールは放置したまま、今週の業務を粛々と片付けている。ペースはいつも通り。成果もいつも通り。
誰も、田中修の変化には気づかない。
姿勢が良くなったことに気づいた若手はいるが、それ以上は追及しない。窓際の課長補佐に、興味を持つ人間はいない。
それでいい、とルークは思った。
静かに始める。誰にも気づかれないように。
コーヒーの湯気が、蛍光灯の白い光の中で、ゆらゆらと揺れていた。
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