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第56話「なみの眼差しと、プリンの味」

田中なみには、ちょっとした特技がある。


人の「違い」に気づくことだ。


幼稚園の頃から、そうだった。担任の先生が髪を3センチ切った翌日、クラスで最初に気づいたのはなみだった。中学の時、親友が彼氏とうまくいっていない朝は、靴の紐の結び方が左右で違うことに気づいた。大学のゼミで教授が機嫌のいい日は、ネクタイの結び目がほんの少しだけ左にずれている。


観察しようとしているわけではない。目に入るのだ。勝手に。人間の微細な変化が、なみの網膜にはノイズではなく信号として届いてしまう。


便利な特技だが、面倒な特技でもある。気づいてしまうと、気づかないふりができない。気づかないふりができないと、相手に悟られる。悟られると「なみちゃんって怖いよね」と言われる。


だから大学に入ってからは、気づいても黙っている技術を身につけた。


しかし——その技術が通用しない相手が、一人だけいる。


土曜の朝、八時半。


なみはキッチンのカウンターに座り、ヨーグルトをスプーンでつついていた。昨夜はレポートで午前三時まで起きていたから、頭はまだ半分寝ている。テレビは朝のワイドショー。リポーターが台風の進路について騒いでいるが、なみの耳には入っていない。


階段を降りてくる足音がした。


お母さんかと思った。土曜の朝、この時間に起きてくるのは大抵お母さんだ。お父さんは休日でも早起きだが、たいてい起きた気配がしない。存在感が薄い人だから。リビングにいても、いないみたいな人。


しかし——足音が違った。


お母さんの足音は、スリッパを引きずる「ぺたぺた」だ。お父さんの足音は、もっと軽い。軽いというか——存在を消すような足取り。家の中でも、なるべく音を立てまいとしている感じ。二十年間、そういう歩き方だった。


今朝の足音は、どちらとも違う。


重くはない。しかし、芯がある。一歩一歩が均等で、迷いがない。階段の軋みの間隔から推測するに、歩幅も広い。


足音が階段を降りきり、リビングに入ってきた。


なみは顔を上げた。


お父さんだった。


——お父さん?


スプーンが止まった。


田中修。47歳。休日はソファでテレビを見ているか、昼寝をしている。口数が少なく、怒ることもめったにない。娘が話しかければ「ああ」「そうか」と返してくれるが、自分から話題を振ることはほとんどない。


なみにとって父親とは、そういう人だった。優しいけれど、存在感がない。いてくれると安心するが、いなくなっても——正直に言えば——すぐには気づかないかもしれない。


しかし。


今朝のお父さんは、違う。


何が違うのか。なみの観察眼が、全速力で分析を走らせた。


まず、姿勢。


猫背が消えている。

お父さんは昔から猫背だった。パソコンの前に一日八時間——おそらくもっと長く——座り続ける仕事のせいだろう。肩が内側に巻き込み、背中が丸まり、首が前に出ている。


典型的なデスクワーカーの姿勢だ。


今朝のお父さんの背骨は、まっすぐだった。


肩が開いている。胸郭が広がっている。首の位置が正しい。まるで——何かの訓練を受けたか、あるいは長期間、体を使う環境にいた人のような立ち方。


次に、目。


これが一番大きい。


お父さんの目は、いつも「ここにいない」感じだった。物理的にはリビングにいるが、意識はどこか別の場所にある。仕事の疲れなのか、性格なのかわからないが、焦点が合っているようで合っていない。ぼんやりした目。


今朝の目は、違う。


焦点が合っている。合っているどころか——深い。なみはその「深さ」を言語化できないが、感覚的にわかる。この目は、多くの人を見てきた目だ。多くの判断をしてきた目だ。多くの重さを受け止めてきた目だ。


会社の窓際で書類を処理しているだけの人間の目では、ない。


「お父さん、姿勢良くなった?」


口をついて出た。黙っている技術は、この人の前では通用しない。


「……ん?」


お父さんがキッチンに入ってきた。冷蔵庫を開けている。なみは追い打ちをかけた。


「あと、目が違う。……なんか、偉い人みたいな目してる」


お父さんの手が、冷蔵庫の中で一瞬止まった。


「偉い人って、なんだそれは」


「わかんない。社長とか。……ううん、違う。もっとこう——何百人もまとめてるような人。校長先生よりもっと上。知事? 大臣? ……わかんないけど、とにかく前と目が違う」


お父さんは冷蔵庫からプリンを取り出し、カウンターの向かいに座った。スプーンを手に取り、蓋を剥がす。


「気のせいだろ」


「気のせいじゃない」


なみは断言した。父の「変化」を見逃す自分ではない。たとえ世界中の人間が気づかなくても、なみの目は拾ってしまう。


お父さんはプリンをスプーンですくい、口に運んだ。


その瞬間——父の表情が、ほんの一瞬だけ変わった。


驚き、ではない。感動、でもない。もっと深い——懐かしさに似た、しかし懐かしさとも違う、複雑な色が目の奥をよぎった。


まるで——何年も食べていなかったものを、ようやく口にしたような顔。


でもプリンは、冷蔵庫にいつもある。お母さんが特売の日にまとめ買いするスーパーの3個パック。お父さんが時々食べているのを知っている。


なのに、なぜ。あんな顔を。


「お父さん」


「ん」


「体調、大丈夫? 先週、具合悪いって早退したでしょ」


お父さんはプリンの二口目を飲み込み、スプーンを皿の上に置いた。


「大丈夫だ。もう治った」


「ほんとに?」


「ほんとに」


嘘ではない、となみは判断した。体調が悪い人間の目ではない。むしろ——体調は良さそうだ。肌の色も悪くないし、声に張りがある。先週の早退前より明らかに元気だ。


しかし、「大丈夫」と「変わっていない」は別の話だ。


お父さんは大丈夫だ。しかし、お父さんは変わった。


その二つの事実が、なみの中で並立している。


「……お父さんさ」


「ん」


「最近、何か始めた? ジムとか、ヨガとか」


お父さんの口角が、ほんの少しだけ上がった。笑ったのだ。お父さんが笑うのは珍しい。珍しくないのは——この笑い方が、なみの知っている「お父さんの笑い方」とは微妙に違うことだ。


前のお父さんの笑いは「苦笑い」に近かった。面白い時に笑うのではなく、困った時にごまかすように笑う。


今の笑いは——余裕がある。


「ジムもヨガもやってない。……色々あっただけだ」


「色々って何」


「色々は色々だ」


お父さんはプリンの最後の一口を食べ、空の容器をカウンターに置いた。スプーンで底の残りを丁寧にさらっている。プリンの容器の底まで丁寧にさらう人を、なみは父以外に知らない。


「お父さん」


「ん」


「プリン、美味しかった?」


変な質問だとは思った。スーパーの98円のプリンだ。美味しいも何もない。


しかしお父さんは——数秒、黙った。


そして、言った。


「ああ。美味かった」


その声の温度に、なみの観察眼が反応した。


この人は本気で言っている。98円のプリンを「美味かった」と、心の底から。


なみは父の横顔を見た。空のプリン容器を手に持ったまま、お父さんは窓の外を見ていた。


遠い目だった。


いつもの「ぼんやりした」遠い目ではない。何か具体的なものを——ここにはないものを——見ている目。その視線の先にある何かが、たぶんプリンの味と繋がっている。


なみには、それが何かはわからない。


しかし——わからないということだけは、はっきりとわかった。


お父さんには、自分の知らない世界がある。


先週の早退から数日間で何が起きたのか知らない。姿勢が変わった理由も、目が変わった理由も、プリンの味に感動する理由も。


知らないことが、ある。


そしてお父さんは、それを話すつもりがない。「色々」の一言で蓋をした。あの蓋の下に何があるのかは、聞いても出てこないだろう。少なくとも今は。


お父さんがカウンターから立ち上がった。空のプリン容器を流しに持っていき、水で洗い、ゴミ箱に捨てた。分別は「プラスチック」。


その一連の動作を、なみは見ていた。


プリンの容器を洗って捨てる。それだけの動作なのに——所作が綺麗だった。


無駄がない。一つ一つの動きに迷いがない。水の出し方、洗い方、水の切り方、ゴミ箱への入れ方。すべてが効率的で、最小限の動きで完了している。


前のお父さんは、こんなに動きが綺麗だっただろうか。


記憶を辿るが、確信が持てない。そもそも、父の「家事の所作」を注意深く見たことがなかった。存在感のない人の動作は、観察の対象にならない。


しかし——今朝からのお父さんは、違う。


なみの目が、勝手に父を追ってしまう。


気づいたら観察している。立ち姿、歩き方、手の動き、視線の先。すべてが「前と同じ人間」の動きではない。何かが根本的に変わっている。


何が?


わからない。


わからないけれど——なみの直感は、一つの結論を出していた。


お父さんは、この数日間で「別人」になったのではない。


ずっと「こういう人」だったのだ。


ただ、それを——家では見せていなかっただけ。


あるいは、見せる必要がなかっただけ。


今朝、何かの理由で、その「本来の姿」が漏れ出している。プリンの味に感動するほど、感情の蓋が緩んでいる。


なみはヨーグルトの最後の一口を食べ、容器を流しに持っていった。父の横に並ぶ。


「お父さん」


「ん」


「今日、どっか行く予定ある?」


「……いや、ない。なんでだ」


「じゃあ、お昼、一緒に食べよ。お母さんも起きたら」


お父さんが、少し驚いた顔をした。


なみが父に「一緒にご飯を食べよう」と誘うのは、ずいぶん久しぶりだ。高校に入ってからは、家族で食卓を囲む機会自体が減っていた。


「……ああ。いいぞ」


お父さんは頷いて、リビングに戻っていった。ソファには座らず、窓際に立って外を見ている。また、あの遠い目。


背中もまっすぐだった。


二十年間見てきた猫背の父の背中ではなく、何かを背負い、背負い切った人間の——しかし今は荷を下ろして静かに立っている人の背中。


その背中に向かって、なみは心の中でだけ呟いた。


お父さん。あなたの「色々」を、私はいつか知ることになるんだろうか。


答えはない。父の背中は、ただまっすぐに、窓の外の秋の空を見つめていた。

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