第54話「転移の瞬間——コンビニの灯り」
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鍵を起動させたのは、深夜の一時だった。
ペントハウスの窓の外は、サンアンドの夜。ガチャ産の街灯がオレンジ色の光を投げかけ、石畳の上に長い影を作っている。どこかの酒場から、かすかに笑い声が漏れていた。
ルークは安楽椅子の横に立ち、鍵型の結晶体を右手に握った。
最後に部屋を見回す。
磨き込まれたオーク材の床。南向きの窓。全自動コーヒーメーカー。停止したままのガチャ筐体。そして安楽椅子——三年間、自分の体重と体温を記憶し続けてくれた椅子。
テーブルの上には、アリスとザックへの書き置き。A4一枚、箇条書き。
「三日で戻る。コーヒー豆は棚の上段。緊急時はアリスの判断に従え。ザック、日報のフォーマットは崩すな。——ルーク」
感傷的な言葉は一つもない。田中修という人間は、そういう男だ。
鍵を握る手に、力を込めた。
結晶体が反応した。掌の中で温度が上がり、虹色の光が指の隙間から漏れ出す。光は指先から腕へ、腕から胸へ、胸から全身へと広がっていく。
視界が白くなった。
音が消えた。サウルアンドの夜の気配——酒場の笑い声、石畳を踏む獣人の足音、風が窓を鳴らす音——すべてが、布越しに聞く水音のように遠くなり、やがて完全に途絶えた。
無音。無色。無重力。
一秒か、一時間か——時間の感覚が消失した空白の後。
匂いが、最初に戻ってきた。
アスファルト。
排気ガスの残り香が染み込んだ、夏の名残の熱を含んだアスファルトの匂い。その上に、雨上がり特有の湿った埃の匂いが重なっている。さらにその奥に——ごく微かに、揚げ物の油の匂い。
次に、音。
ウィーーーーン。
自動販売機のコンプレッサー音。低く、一定で、途切れない機械の唸り。あの音だ。日本中のどのコンビニの駐車場でも聞こえる、誰も気に留めない、しかし確かにそこにある生活音。
それから、光。
白い。LED灯の白。自然光でも魔法の光でもない、人工の、均質な、どこか冷たい白。コンビニの店内から駐車場に溢れ出す、あの画一的な明るさ。
ルークは目を開けた。
目の前に、アスファルトがあった。灰色の、罅だらけの、タイヤ痕が何本も重なった駐車場の地面。右手に白い区画線。左手に「軽」と書かれた駐車スペース。
駐車場に立っていた——いや、膝をついていた。
いつ膝をついたのかわからない。転移の衝撃か、それとも自分から崩れ落ちたのか。わからないが、結果として田中修は深夜のコンビニの駐車場で、アスファルトの上に膝をついている。
顔を上げた。
コンビニだった。
ガラス張りの店舗。自動ドアの上に光る看板。駐車場には車が二台。店内には深夜のアルバイトが一人、レジの奥でスマートフォンを触っている。雑誌の棚。おにぎりの棚。ホットスナックのケース。
見覚えがある。
見覚えなんて言葉では足りない。あの世界に帰還する前、最後に立ち寄ったコンビニだ。自宅の最寄り。仕事帰りに、発泡酒を買っていた店。
三年前と、何も変わっていない。
正面の自動ドアがスライドする音がした。ピンポーン、という電子音。客が一人出てきた。ジャージ姿の中年男性が、ビニール袋を片手にぶら下げて車に向かっていく。ルークの横を通り過ぎる時、ちらりとこちらを見た。深夜の駐車場で膝をついている男。怪訝な顔をしたが、声はかけず、そのまま車に乗り込んでエンジンをかけた。
テールランプの赤が遠ざかり、消えた。
駐車場に、ルーク一人が残った。
立ち上がろうとした。膝が震えて、すぐには立てなかった。
異世界の三年間で、田中修の肉体はそれなりに鍛えられていた。ザックと一緒に街を歩き、ダイコクとの会談で長時間立ち続け、海を渡る船の甲板で波に耐えた。50歳手前の中年にしては、体力はある方だ。
しかし今、膝が震えているのは体力の問題ではなかった。
アスファルトの匂い。
それだけで、全身の力が抜けたのだ。
この匂いは——毎晩、終電で帰る駅からの道で嗅いでいた匂いだ。疲れ果てた体を引きずり、コンビニに寄り、半額弁当と発泡酒を掴み、築15年の一軒家への残り800メートルを歩く。その足の下にあった匂い。
24年間。毎日。
アスファルトの匂いには、田中修の24年分の疲労と諦めと、それでも家に帰り続けた意地が染み込んでいる。
異世界の三年間は、濃密だった。ダイコクと戦い、アレスを育て、ザックに字を教え、ヴォルフを受け止め、大陸に平和をもたらした。圧倒的な密度の三年間だった。
しかし——このアスファルトの匂いの前では、その三年間が霞む。
24年は、三年より重い。当たり前だ。だが、その当たり前の重さを、ルークは今この瞬間まで忘れていた。
ゆっくりと立ち上がった。ズボンの膝についた砂埃を払う。手の中にはまだ鍵の結晶体があったが、光は消えていた。ポケットにしまう。
自動販売機が目に入った。缶コーヒーのラインナップ。見覚えのあるデザイン。140円。
140円。
異世界の通貨で換算する癖が出かけて、振り払った。ここは日本だ。円で考えろ。
ポケットを探る。——財布がない。
当たり前だ。異世界に転生した時の所持品は、当時着ていたスーツのポケットの中身だけ。財布は——トラックに轢かれた時に、どこかに飛んだのだろう。三年前の記憶は曖昧だ。
しかし、スーツの内ポケットに手を入れると、指先に金属の感触があった。硬貨。百円玉が一枚と、十円玉が四枚。
トラックに轢かれる前の、最後の所持金。
ルークはその百円玉を指先で転がした。
異世界では何百万という金貨を動かし、三大陸の経済圏を設計した男が、元の世界に戻った瞬間の全財産は——140円。
口の端が、わずかに持ち上がった。笑いなのか、苦笑いなのか、自分でもわからなかった。
自動ドアをくぐった。
ピンポーン。
蛍光灯の白い光が、頭上から降り注いだ。均一で、隅々まで明るい、影のない光。異世界のランプの光とは根本的に違う。温かみはないが、清潔で、安心感がある。
足の裏に、リノリウムの硬さ。石畳でも土でもない、平坦で滑らかな人工の床。靴底がキュッと鳴る。
冷蔵棚のガラスに、自分の姿が映った。
異世界の服装——質のいい麻のシャツと革のベスト——を着た中年男性。場違いだ。しかし深夜のコンビニには、もっと場違いな格好の客がいくらでもいる。アルバイトの若者は、ルークに一瞥もくれなかった。
棚を見て回った。
おにぎり。サンドイッチ。パスタ。唐揚げ弁当。鮭弁当。カップ麺。菓子パン。ヨーグルト。プリン。
プリン。
異世界にはなかった。ガチャで食品が出ることはあったが、プリンは一度も出なかった。三年間、プリンを食べていない。
手が伸びかけて——止まった。
財布がない。所持金は140円。プリンは買えない。
視線を動かした。飲料の棚。缶コーヒー。ペットボトルのお茶。水。ジュース。
そして——酒の棚。
いつもの発泡酒があった。ルークが前世で毎晩飲んでいた、安い発泡酒の350ml缶。緑色のパッケージ。
残り一本。
棚の奥に、ぽつんと一本だけ残っている。
ルークはその缶を手に取った。アルミの冷たさが掌に伝わった。冷蔵庫の温度。6度くらいだろう。異世界のサウナ上がりのビールとは違う、人工的で均一な冷たさ。
缶の表面に結露が浮いている。指先が濡れた。
この缶を——何千回、手に取っただろうか。
仕事帰り、コンビニに寄り、半額弁当と一緒にレジに出す。店員が無言でバーコードを読む。「袋いりますか」「いらないです」。財布から小銭を出す。ビニール袋の代わりにポケットに突っ込む。
何千回と繰り返した動作。そのどれ一つとして、記憶に残る瞬間はなかった。
なのに今、この一本の発泡酒の重さと冷たさが——異世界で手にしたどんなSSRアイテムよりも、ルークの胸を打っている。
レジに向かった。
アルバイトの若者——二十歳くらいの、目の下にクマがある男子学生——が顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
声が聞こえた。日本語が。この世界の、この国の、この街の言葉が。
翻訳魔法を介さない、生の日本語。
ルークは缶をレジ台に置いた。
「146円になります」
146円。所持金は140円。6円足りない。
三大陸の経済圏を設計した男が、缶ビール一本に6円足りない。
「…………」
ルークはポケットの中の硬貨を全部出した。百円玉一枚、十円玉四枚。140円。レジ台の上に並べる。
アルバイトが硬貨を数え、ルークの顔を見た。
沈黙が流れた。
アルバイトが小さく息を吐いた。
「……あの、大丈夫ですよ。6円くらい」
レジの横に置かれた「ご自由にお使いください」の1円玉トレイから、6枚を取ってレジに入れた。
「ありがとうございます。またどうぞ」
ルークは缶を受け取った。
ありがとうございます。
その五文字が、喉の奥に引っかかった。異世界では「覇王」「建国の父」と呼ばれた男が、深夜のコンビニで6円を恵まれている。
しかし——不思議と、惨めではなかった。
むしろ、温かかった。あの目の下にクマがあるアルバイトの、面倒くさそうで、しかし確かに人間の善意が混じった「大丈夫ですよ」が。
自動ドアをくぐり、駐車場に出た。ピンポーン。
夜気が肌に触れた。九月の終わりの、昼は暑く夜は涼しい空気。アスファルトの余熱と、上空の冷気が混じり合っている。
缶のプルタブに指をかけた。
プシュ。
泡が立ち上がる音。炭酸の匂い。アルコールの微かな刺激。
一口飲んだ。
薄い。安い。異世界のドワーフが醸した地ビールの半分も味がない。
しかし。
この味を知っている。この味で一日が終わる感覚を知っている。疲れ果てた体にこの薄い液体が染み込み、ほんの少しだけ——ほんの少しだけ肩の力が抜ける、あの感覚を。
二口目を飲んだ時、視界が滲んだ。
泣いている。
田中修は、深夜のコンビニの駐車場で、146円の発泡酒を片手に、泣いていた。
声は出さなかった。涙だけが、頬を伝って顎から落ち、アスファルトに染みを作った。
三年分の——蓋をしていたものが、全部、溢れた。
一分か、五分か。やがて涙は止まった。
ルークは袖で顔を拭い、発泡酒を一気に飲み干し、空き缶をゴミ箱に入れた。分別は「缶」。
深呼吸を一つ。
そして——自宅への道を、歩き始めた。
最寄り駅から800メートル。見覚えのある自動販売機。見覚えのある電柱。見覚えのある曲がり角。
築15年の一軒家が見えた。
庭の雑草が、少し伸びていた。
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