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第52話「ザックの恐怖と、右腕の矜持」

ザック・ヴァレンハイトには、忘れられない夜がある。


三年前。路地裏のゴミ溜めで、腹を空かせて震えていた夜だ。字も読めない。計算もできない。仲間と呼べる人間は一人もいなかった。チンピラ仲間はいたが、あれは仲間ではない。互いに利用し合い、用が済めば捨てる——そういう関係だ。


ルークに拾われた。


読み書きを覚えることが「仕事」だという発想が、当時のザックには理解できなかった。


それが始まりだった。


読み書き。足し算。引き算。掛け算はまだいい。割り算で三日泣いた。エクセルの概念を教わった時は一週間吐きそうだった。しかしルークは一度も怒鳴らなかった。一度も「できないのか」とは言わなかった。ただ淡々と、赤ペンで間違いに丸をつけ、「ここ、もう一回」と言うだけだった。


あの冷たいようで温かい赤ペンの丸が、ザックの人生を変えた。


その日の朝、ザックはいつも通り日の出前に起きて、ギルドのバックヤードで書類を整理していた。


ルーク殿が昨夜の日報に書き込んだ一行。赤ペンのあの筆跡。


「明日、少し話がある。——ルーク」


たった一行。しかしザックの胃は、その一行を読んだ瞬間から重い。


ルーク殿が「少し話がある」と言う時、話は「少し」では済まない。ダイコクとの最終決戦の前も「少し相談がある」だった。シャングリア条約の前も「ちょっと確認したいことがある」だった。あの人の「少し」は、常人の「人生を変える大事件」に相当する。


三年の付き合いで、それくらいはわかっている。


ザックは書類を捌きながら、朝のギルドの気配を耳で拾っていた。一階のカウンターでは早起きの冒険者がクエスト掲示板を眺めている。厨房からはドワーフの料理番が焼くパンの匂いが漂ってくる。外では獣人の朝番が欠伸をしながら見回りに出発した。


いつもの朝だ。


ルーク殿が作った「いつも」が、今日もきちんと回っている。


しかし——ザックの手は、微かに震えていた。


理由はわかっている。昨夜、ルーク殿のペントハウスの窓から、異常な光が漏れていた。虹色の、脈動するような光。ザックはタワーの警備当番として、それを目撃していた。あの光はガチャ筐体からのものだ。そして虹色は——URの色だ。


URが自然排出されたことなど、一度もない。


何かが起きている。何か大きなことが。


そして「少し話がある」。


ザックの脳裏に、最悪のシナリオがよぎった。


ルーク殿がいなくなる。


根拠はない。論理的な推論でもない。ただの直感だ。しかし三年間、ルーク殿の隣で書類を捌き、指示を受け、時に叱られ、時に「70点だ、上出来だ」と言われてきた男の直感は——往々にして正しい。


「…………」


ザックは手を止めた。


書類の山を見下ろす。ルーク殿がゼロから設計した業務フロー。ザック自身が三年かけて覚え、改良し、今では後輩にも教えられるようになったシステム。承認印の押し方、ファイリングの規則、報告書のフォーマット。すべてにルーク殿の思想が染み込んでいる。


もしルーク殿がいなくなったら。


このシステムは——回る。回るように設計されている。ルーク殿は最初からそう作った。「俺がいなくても回る組織」を目標に、すべてのマニュアルと業務フローを構築した。属人化の排除。それがルーク殿の経営哲学の根幹だ。


つまり、ザックが恐れているのは「システムの崩壊」ではない。


怖いのは——ルーク殿がいない世界で、自分が「大丈夫」でいなければならないことだ。


大丈夫なふりをして、赤ペンの代わりに自分で丸をつけて、「ここ、もう一回」と自分に言い聞かせて——それを、ルーク殿がいない朝に、毎日繰り返すこと。


それが、怖い。


午前九時。ルーク殿から呼び出しがかかった。


ペントハウスに上がると、ルーク殿はいつも通り安楽椅子に座っていた。コーヒーの湯気が立ち上っている。窓の外には朝の街並み。


いつも通りの光景——のはずだった。


しかし、テーブルの上に見慣れないものがあった。透明なカプセル。中に虹色の結晶体。昨夜、窓から漏れていた光の正体。


「座れ」


ルーク殿がコーヒーカップで向かいの椅子を指した。ザックは背筋を伸ばして座った。


「お前には先に話しておく。アレスには後で伝える」


先に。


その一語が、ザックの心臓を締めつけた。ルーク殿が情報の優先順位をつける時、「先に」と「後で」には明確な基準がある。先に伝える相手は、最も影響を受ける人間。最も動揺する可能性がある人間。


つまり——自分だ。


ルーク殿がカプセルを手に取り、テーブルの中央に置いた。虹色の光が二人の顔を照らした。


「これはガチャから出た。URだ。効果は——俺を、元いた世界に一時的に帰す」


元いた世界。


ザックはその言葉の意味を、数秒かけて咀嚼した。ルーク殿がこの世界に来る前、「別の世界」にいたという話は聞いたことがある。しかしルーク殿自身がそれを語ったのは——一度もない。ザックが知っているのは断片だけだ。ルーク殿が時折見せる、この世界の住人には理解できない知識体系。異国の言葉。安楽椅子に座って遠い目をする、あの癖。


「帰るのか。帰るんですか、ルーク殿」


声が震えた。震えまいとしたのに。


「72時間だけだ。三日で戻る」


ルーク殿の声は、いつも通り平坦だった。コーヒーの温度を報告するのと同じトーン。しかしザックには、その平坦さの裏に——ルーク殿自身もまだ整理できていない感情が渦巻いているのが、わかった。


三年間、隣にいたのだ。それくらいはわかる。


「三日で、本当に戻りますか」


「戻る」


「約束ですか」


「約束だ」


ザックは俯いた。膝の上で握った拳が白くなっている。


言いたいことは山ほどあった。行かないでくれ。俺を置いていかないでくれ。あんたがいない三日間を、俺はどうやって過ごせばいいんだ。


しかし——それを口にした瞬間、自分は「ルーク殿の右腕」ではなくなる。ただの、捨てられるのが怖い子供に戻ってしまう。


ザックは顔を上げた。目は赤いが、涙は流さなかった。


「わかりました。留守は俺が守ります」


ルーク殿が、ほんの一瞬だけ——目を細めた。笑ったのかもしれない。あの人の表情は、いつも読みにくい。


「頼んだ」


たった三文字。しかしザックには、それで十分だった。


その夜。


ギルドのバックヤードで、全員が帰った後。


ザックは一人、デスクに向かっていた。目の前には、ルーク殿が設計した業務マニュアルの全巻。承認フロー。緊急時対応手順。予算管理テンプレート。コンプライアンスガイドライン。


その一冊一冊を手に取り、最初のページから最後のページまで確認していく。破れはないか。書き込みに不備はないか。後任の人間が読んでも、迷わず業務を遂行できる状態になっているか。


確認作業は深夜まで続いた。


ランプの灯が揺れる中、ザックの手は——もう震えていなかった。


最後の一冊を閉じた時、ザックは表紙の裏側に小さな落書きがあることに気づいた。ルーク殿の筆跡。


安楽椅子の絵と、その横にコーヒーカップ。


下手くそな絵だった。ルーク殿は書類の整理は天才的だが、絵心はゼロだ。安楽椅子は四角い箱にしか見えないし、コーヒーカップは取っ手の位置がおかしい。


ザックは、その下手くそな落書きに指で触れた。


「……三日ですからね、ルーク殿」


誰もいないバックヤードに、独り言が落ちた。


ザックはマニュアルを棚に戻し、ランプを消した。暗闇の中で、窓の向こうにタワーマンションの最上階の灯りが見えた。ルーク殿はまだ起きている。


明日、ルーク殿は旅立つ。


その間——たった三日間だが——すべてはザックの肩にかかる。アリスもいる。ドワーフもゴーレムも獣人もいる。しかし、日報を書き、書類を捌き、ルーク殿の「赤ペンの丸」の代わりを務めるのは、ザック一人だ。



ザックは深呼吸をして、自室に向かった。明日は早い。ルーク殿がいない最初の朝は、ルーク殿がいる最後の朝よりも早く始めなければならない。


枕に頭をつけ、目を閉じる。暗闇の中で、ルーク殿の声が聞こえた気がした。


「70点だ。上出来だ」


まだ何もしていないのに、と思いながら——ザックは、三年間で最も静かに、眠りに落ちた。

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