第51話「虹色の排出と、見覚えのある天井」
第4部 帰還編 スタートです。
コメディタッチから一転してシリアスなタッチになります。
それは、完璧な午後だった。
少なくとも田中修——この世界では「ルーク」と呼ばれている男——にとっては。
タワーマンション最上階のペントハウス。南向きの窓から差し込む午後三時の光が、オーク材の床を蜂蜜色に染めている。ガチャ産の全自動コーヒーメーカーが、ちょうど二杯目のドリップを終えたところだ。部屋にはコクのある深煎りの香りが漂っている。
ルークは安楽椅子に深く沈み込み、足を投げ出していた。椅子はSSR『至高の休息チェア』。体温と姿勢をセンサーで感知し、ミリ単位でクッションの硬さを調整する逸品だ。室温24度、湿度50%。窓の外では、彼が一から設計したサンアンドの街並みが穏やかな時間を刻んでいる。
ゴーレムが石畳を掃いている。獣人の警備隊が見回りをしている。ドワーフ工房からは心地よいハンマーの音が響く。冒険者ギルドの前は——今日は比較的空いている。定例のコンプライアンス講習の翌日は、いつもこうだ。
すべてが、システム通り。
品物メーカーの業務管理課で24年間、窓際で書類を処理し続けた男が、異世界に転生し、怠けるために全力を尽くした結果だ。大陸に平和をもたらし、経済圏を統合し、何百人もの人生を変え——そのすべての目的は、今この安楽椅子でコーヒーを飲みながら昼寝をするためだった。
最高だ。
本当に、最高だ。
ルークはコーヒーカップに口をつけ——そして下ろした。飲まなかった。
なぜかはわからない。ただ、今日の午後は完璧すぎて、少し落ち着かなかった。腹の底のあたりに、薄い膜のような違和感がある。胃痛ではない。不安でもない。もっと漠然とした——何かが足りないような、余っているような感覚。長年使い込んだ革靴を新品に替えた時の、あの馴染まなさに似ている。
その時だった。
ブブブブブブ——
部屋の隅のガチャ筐体が振動した。
ルークは半開きの目を筐体に向けた。赤錆びた鉄の外装。金貨投入口。ハンドル。排出口。この世界に来てからずっと傍にあった機械だ。
しかし今の振動は、通常の動作ではなかった。
ガチャは本来、金貨を投入してハンドルを回した時にだけ動く。ここ数ヶ月、ルークは金貨を入れていない。ガチャ産のアイテムでインフラは充足し、新たに引く必要がなくなっていた。事実上の引退状態で、ペントハウスのインテリアと化していたはずの機械。
それが自発的に震えている。
振動は徐々に強くなった。コーヒーカップが揺れ、安楽椅子のセンサーがクッションを硬くし、壁の世界地図がカタカタと鳴った。
そして——光が漏れた。
排出口から。虹色の光。
UR。アルティメット・レア。
ルークの背筋が伸びた。
URが自然排出された例は過去に一度もない。ガチャとは「投入→排出」という等価交換のシステムだ。コストなしにリターンが生まれることは、設計思想に反する。
心理学にセレンディピティという概念がある。偶然の幸運。予期しない発見。しかし歴史に残る「偶然の発見」の多くは、偶然が起きやすい環境が事前に整えられた場合にのみ生じている。
セレンディピティは天から降ってくるのではない。誰かが降らせているのだ。
このガチャを設計した「誰か」が、今このタイミングで、俺に何かを渡そうとしている。
ルークは安楽椅子から立ち上がった。
筐体の前に立つ。虹色の光が部屋の壁に反射し、万華鏡のような模様を描いていた。
排出口に手を伸ばす。指先がカプセルに触れた瞬間、光が弾けた。
手の中に、透明なカプセル。通常の倍ほどの大きさで、内部には虹色に脈動する鍵型の結晶体が収まっている。
結晶体の表面に文字が浮かんだ。
【UR:次元回廊の鍵】 効果:使用者を「元の世界」へ一時帰還させる 制限:滞在上限72時間。超過した場合、帰還能力を永久に喪失 再使用にはチャージ期間(約6ヶ月)が必要
ルークの呼吸が一拍止まった。
元の世界。
その四文字が、カプセルの冷たさを通して指先から心臓に届いた。
日本。業務管理課。窓際のデスク。終電の駅構内。コンビニの発泡酒。築15年の一軒家。妻。娘。
三年間、一度もその世界のことを口にしなかった。アリスにもザックにも。異世界に適応し、システムを構築し、大陸に平和をもたらす——その過程で「元の世界への郷愁」は、優先順位の最下層に格納した。
いや、格納したのではない。蓋をしたのだ。開けたら何かが溢れ出すとわかっていたから。
そして今、その蓋が三年越しに吹き飛ぼうとしている。
ルークはカプセルを握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。
考えろ。分析しろ。なぜ今なのか。なぜ72時間なのか。なぜ片道なのか——
もう一人の自分が割り込んだ。
考えるな、田中修。お前はいま、考えたくないことを考えまいとして、代わりに分析で頭を埋めようとしている。前世で24年間やってきた、あの逃避と同じだ。
カプセルを握る手が震えた。
帰りたいのか。帰りたくないのか。
トラックに轢かれて死んだはずの男が、ある日突然リビングに現れて「ただいま」——馬鹿げている。
しかし。
ルークはカプセルから目を離し、安楽椅子の方を見た。
椅子の革張りの表面に、映像のような何かが浮かんでいた。
天井だった。
白い。平凡な。何の装飾もない。灯のカバーにうっすら虫の影が映っている。左上の角に五年前の雨漏りの染み。壁との境目に微かな罅が一本。
見覚えがある。見覚えなんて言葉では足りない。二万回は見た天井だ。
毎朝、目覚めるたびに。毎晩、眠りに落ちるたびに。
築15年の一軒家のリビングの天井。
陽子がカーテンを開ける音がする——ような気がした。「修、朝よ」という声がする——ような気がした。娘のなみが二階からドタドタ降りてくる足音がする——ような気がした。
映像は数秒で消えた。残ったのは磨き上げられた革の光沢だけ。
手の中で、虹色の鍵が脈動し続けている。
ルークはコーヒーカップを手に取った。もう冷めている。一口飲んだ。苦い。いつもの豆、いつもの温度なのに、ほんの少しだけ、いつもより苦かった。
窓の外で夕方を告げる鐘が鳴った。一日がいつも通りに暮れていく。
安楽椅子の男だけが、いつも通りではなかった。
その夜。
デスクの上に二つのものが並んでいた。
一つは明日の業務スケジュール。ザックが綺麗な字で——三年前は自分の名前も書けなかった——まとめた、A4一枚の日報。
もう一つは虹色の鍵。
ルークは長い間、その二つを交互に見つめていた。
やがて日報に赤ペンで一行だけ書き込み、鍵をポケットにしまった。
余白の一行は、こうだった。
「明日、少し話がある。」
最後までお読みいただきありがとうございます。
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